江戸の「小料理屋」物語(中):食通と芸術家たちが暖簾を守る

旅と暮らし 歴史

東京・荒木町の小料理屋、割烹「たまる」の歴史は60年に及ぶ。戦後の高度経済成長時代からバブル経済、「失われた20年」とも言われた平成を経て令和まで、客層もめまぐるしく変遷した。名店はさまざまな人間模様を織り成す。

昭和の政治家は荒木町で密談

 荒木町は江戸時代、武家屋敷のまちだった。明治維新を経て、大正から昭和中期にかけては風情ある花街(かがい)へと変貌を遂げた。昭和30年代は芸者置屋もあり、旦那衆が通ったという。緩やかな坂道沿いや路地に料亭、小料理屋、居酒屋などが軒を連ねる。

「赤坂や銀座では目立つが、荒木町には隠れ家的な店があるからね」――。官房長官や外相、自民党総務会長などを歴任した「総理のイスを蹴った男」故伊東正義氏から、昭和時代の政治家は荒木町の店を密談に使ったという話を聞いたことがある。

 郷愁を誘う荒木町には“通”の人たちが集った。「たまる」には鮟鱇(あんこう)鍋や穴子料理を愛する食通たちが通い、暖簾を守り続けた。二代目の御子柴暁己(みこしば・あけみ)氏は「昔のお客さんは大人だった。いろいろなことを教えていただいた。お客さんに育てられた」と回想する。

旦那衆や芸能人で賑わった時代

 「たまる」草創期の1960年代。高度経済成長時代とあって荒木町は旦那衆や芸者らで賑わった。

「当時は午前3時、4時ころまで営業することもあった。父親は寝ないで築地に行っていた」。1964(昭和39)年の東京オリンピック前後の様子を暁己氏はこう振り返る。

 文学座の看板女優、杉村春子さんら芸能人もよく顔を見せた。映画監督の今村昌平氏、同監督作品の常連の俳優である北村和夫氏は連れ立ってのことが多かった。今村氏はカウンターの一番奥に陣取り、「穴子はやっぱり江戸前だよ」が口癖だった。

「たまる」の主人、御子柴暁己氏の目の前がカウンター席 撮影:嵐田啓明
「たまる」の主人、御子柴暁己氏の目の前がカウンター席 撮影:嵐田啓明

 北村氏はカウンター越しに初代の御子柴蔀(ひとみ)氏に話し掛けることがしばしば。同じ俳優でも小松方正氏は店では能弁ではなかったという。もっとも、小松氏は暁己氏と尚子(ひさこ)夫人の結婚披露宴の司会を務めた。

御子柴夫妻の結婚式(1970年3月11日、赤坂の日枝神社) 御子柴氏提供
御子柴夫妻の結婚式(1970年3月11日、赤坂の日枝神社) 御子柴氏提供

 著名人では「ヴァンジャケット」(VAN)の創業者、石津謙介氏が馴染み客だった。“特等席”とされていたカウンターの一番奥ではなく、真ん中あたりに座ることが多かったという。

家元や陶芸家たちも暖簾をくぐる

 暁己氏が強く印象に残っているのは『セーラー服と機関銃』などで知られる映画監督の相米慎二氏。髭(ひげ)がトレードマークの監督は「とてもユニークだったが、お客さんとは滅多に仲良くならない母ちよも敬愛していた」。2001年9月、肺がんのため53歳で急逝する直前まで常客だった。

 版画や彫刻、陶芸など多彩な才能を持ち、芥川賞受賞作家でもあった池田満寿夫氏と世界的バイオリニストの佐藤陽子さんはいつも一緒にきた。

 プロのミュージシャンでもあった暁己氏は「音楽と料理はすごく似ている」と実感している。メロディーを奏でるにも、料理をつくるにも「リズム感が必要」なのだという。

 能楽笛方藤田流十一世宗家の家元、藤田六郎兵衛(ふじた・ろくろびょうえ)氏との付き合いはかなり濃密だった。国内外で能楽振興に努めた藤田氏は2018年8月、肝臓がんのため64歳で他界したが、「たまる」で暁己・尚子夫妻だけのために笛を吹いたこともある。

 陶芸家の七代加藤幸兵衛(かとう・こうべえ)氏は2015年9月、初めて訪れた。趣味で音楽バンド活動もしており、暁己氏とは馬が合う。文化元年(1804年)から続く窯のある岐阜県多治見市から毎年のように通ったが、コロナ禍のあおりで、2020年1月20日を最後に荒木町の路地裏に足を運ぶのは難しくなっている。

陶芸家の七代加藤幸兵衛氏(左、2015年9月16日) 撮影:泉宣道
陶芸家の七代加藤幸兵衛氏(左、2015年9月16日) 撮影:泉宣道

女性や外国人ら客層も多様化

 西洋料理にも詳しく、『私のおもてなし料理』など多数の著作がある料理研究家、ホルトハウス房子さんは初代の時代から半世紀以上の最古参だ。歯に衣を着せない直言もするが、暁己氏、尚子夫人とはことのほか懇意にしている。

 「たまる」は女性弁護士仲間4人の集合場所ともなってきた。“四人組”女子会の平均年齢は今や、80歳を超えた。

 2019年10月22日、天皇陛下の「即位の礼」が国の儀式として行われた。200近い外国の元首・祝賀使節が参列したが、欧州のある国から来日した皇太子の一家が「たまる」をお忍びで訪れた。その皇太子は「白いご飯が美味しい」とお代わりしたという。

「旨い鮟鱇の肝が食べたかった」。トリノに本拠地を置くイタリアのチョコレート会社は高品質のカカオ豆を使用することで有名。舌が肥えたその経営者も「たまる」のファンだ。

ふっくらとした鮟鱇の胆と紅葉おろし 撮影:泉宣道
ふっくらとした鮟鱇の胆と紅葉おろし 撮影:泉宣道

 フランスや台湾からは一族郎党で定期的にやってくる顔なじみのファミリーもいる。21世紀の「たまる」は国際色も豊かになった。

同世代の作家との長い交じらい

 暁己氏にとっての親友は、直木賞受賞作家の村松友視氏である。村松氏が中央公論社に入社後、1年半ほど経って「婦人公論」の編集部にいたころ、取材で「たまる」を訪れ、それから足繁く通うようになったという。村松氏は「作家になってから、先代に『忙しいかい』と聞かれ、答えに窮した」など思い出も多い。

 暁己氏とは同世代ということもあって、村松夫婦が御子柴家を訪れて新年会を囲むなどの付き合い。村松氏は暁己氏の長男、次男を幼いころから知っている。成人した長男から「銀座のバーを教えられたときは唖然とした」という。長い交じらいの中のひとこまだ。

カウンター奥で御子柴夫妻と談笑する村松氏(右手前) 御子柴氏提供
カウンター奥で御子柴夫妻と談笑する村松氏(右手前) 御子柴氏提供

 「たまる」では最近、カウンターの一番奥に座り、独酌することが多くなった。当人は「年齢のせいだね」と控えめだが、常連客の世代交代が自然に進んでいることを象徴している。村松氏はこうも述懐する。「先代の時代から、どんなに偉い人でも特別扱いせず、お客には分け隔てがない。旨い料理を出すことに徹していた」

 暁己氏は「お客さんが酔っぱらったり、絡んだりしたのを見たことがない」。

「清酒」と「瓶ビール」だけは不易

「たまる」に集まり、散じて、客は変われど、一貫して変わらないものがある。酒類の銘柄だけは不易だ。

 ビールは「赤星」が愛称のサッポロラガー、日本で最も歴史あるビールブランドだ。日本酒は生粋の灘の清酒で伊勢神宮御料酒でもある「白鷹」。燗(かん)か冷やかは選べる。ほかの銘柄は一切なく、焼酎もワインも置かない。

非売品の復刻版「赤星」(右)を手にする御子柴氏(2020年10月23日) 撮影:泉宣道
非売品の復刻版「赤星」(右)を手にする御子柴氏(2020年10月23日) 撮影:泉宣道

清酒は「白鷹」で一本やり 撮影:嵐田啓明
清酒は「白鷹」で一本やり 撮影:嵐田啓明

 白鷹と赤星が「たまる」の料理とのマリアージュを演出し、内外の美食家、芸術家、一流の経営者たちの舌を魅了し続けてきたのである。

バナー写真:春夏の「たまる」の名物はあなご料理 撮影:嵐田啓明

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