台湾を変えた日本人シリーズ:台湾に骨を埋めた明石元二郎

歴史 文化

日本政府から台湾に派遣された総督は合計で19人を数えた。歴史に名を残した総督も少なくないが、その中で、自らの墓を台湾に作るほど、台湾への深い思いを抱いた人物は、明石元二郎以外にいないだろう。

欧州から台湾へ

日本の台湾統治で「前期武官総督時代」の最後を飾る第7代台湾総督として赴任した明石元二郎。日露戦争では秘密工作でロシア革命を支援して敵国の背後を揺さぶり、日本の勝利の陰の立役者として有名である。

明石元二郎は明石助九郎の次男として1864(元治元)年に福岡藩の大名町で生まれた。陸軍幼年学校を経て、1883(明治16)年陸軍士官学校を卒業し、歩兵少尉に任じられた。陸軍幼年学校時代の明石は、運動が苦手であったが数学と製図は得意であった。単独行動が多く、協調性が低かったとされ、いたずらをよくしたが、教師や先輩、友人などからは好意を持って見守られたという。このことは陸軍士官学校時代でも変わらず、語学の才能に秀いでたが、歯磨きをほとんどせず、整理整頓や身なりについては無頓着で一つのことに熱中しだすと周りのことを完全に忘れるという性格は終生変わらなかった。

1889年に陸軍大学校を卒業した後、ドイツ留学、仏印出張、米西戦争のマニラ観戦武官を経て、1901年にフランス公使館付陸軍武官、翌年にはロシア帝国公使館付陸軍武官に転任した。ドイツ語、フランス語、ロシア語、英語は完璧に理解していたという。この語学力を生かしてロシア国内の情報を収集し、ロシアの反政府運動家との接触を試みる工作活動を行っている。

1904年、日露戦争が開戦すると駐ロシア公使館は中立国スウェーデンのストックホルムに移り、明石は以後この地を本拠地として活動する。開戦直前の同年1月、明石は児玉源太郎参謀本部次長から「ペテルブルク、モスクワ、オデッサに非ロシア人の外国人を情報提供者として2人ずつ配置」するよう指令電報を受け、さらに開戦と同時に参謀本部直属の欧州駐在参謀という臨時職に就いている。その上、ストックホルムに移った際にも児玉から「お前を信じているぞ」という趣旨の激励の電報を受け取っている。

戦争中全般にわたり、ロシア国内の政情不安を画策してロシアの戦争継続を困難にし、日本の勝利に貢献することを意図した明石の活動を評して、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世も、「明石元二郎一人で、満洲の日本軍20万人に匹敵する戦果を上げている」と言ってたたえた。戦争が終わった後、寺内正毅朝鮮統監の下で憲兵司令官と警務総長を兼務し、やがて熊本の第6師団長に転じている。

明石元二郎(国立国会図書館)
明石元二郎(国立国会図書館)

歴代最多の現地視察6回

1918(大正7)年7月に第7代台湾総督を拝命する。明石総督が誕生すると、総督府の人事がどう変わるか周囲が注目した。安東貞美前総督は民政長官に下村宏を起用していた。総督が代わると、ナンバー2の民政長官にお気に入りの人物を連れてくるのが通例になっていたからである。明石は人事を変えず、下村をそのまま任用したのである。

下村宏(国立国会図書館)
下村宏(国立国会図書館)

「台湾のことを、よく理解している者を変える必要はない」というのが明石の考えであった。このことは、台湾の近代化にとってはありがたいことであった。当時、台湾総督府では2つの大きな土木工事計画が持ち上がっていたからである。その事情をよく知っているのは下村民政長官だった。

明石は台湾へ赴任すると各地を視察し、民情の把握に努めた。1年4カ月という短い在任期間にもかかわらず6回も現地を視察したのは歴代総督の中で最多であった。台北刑務所を訪問した際には、25歳前後の受刑者が最多であることを聞くと「まことに、相済まぬ」と言ったという。

日本による台湾統治から23年を経過していたため、受刑者の多くは日本統治が始まった頃に生まれたことになる。「日本統治にまだまだ至らぬところあり、故に有望な青年が犯罪をおかさざるを得なかった」と考え、いかにすれば台湾人のために善政を行えるか決意を新たにしている。

明石には絵葉書を収集する趣味があった。その絵葉書を執務室の壁に貼り付けるため、まるで総督の部屋は子供部屋のようだったと部下達は面白がるが、明石は一向に気にしなかったという。

水力発電と利水工事の巨大プロジェクトを決断

明石総督の在任期間は極めて短いが、その間に取り組んだ事業は、多岐にわたる。当時の台湾では近代化に必要な発電用ダムと米の増産を目的とする灌漑(かんがい)用ダムの建設が急務であった。そこで総督府は2つの巨大プロジェクトを計画した。日月潭水力発電所建設計画であり、もう一つが15万ヘクタールの不毛の大地を灌漑する嘉南大圳(たいしゅう)新設工事計画である。この2つの巨大プロジェクト計画に決断を下し、実行に移させたのが明石であった。

まず、日月潭水力発電工事に手を付けた。3000万円の資金で台湾電力株式会社を創設し、高木友枝を社長に迎えた。現地調査の結果、設計を十川嘉太郎が、技師長には堀見末子技師がそれぞれ就き、現場での指導・監督を行った。巨大な予算もさることながら、その工事計画も驚くほどの規模であった。台湾最長の河川である濁水渓(だくすいけい)に対して、海抜1300メートルの地点の武界に高さ48.5メートルのコンクリート製重力式の武界ダムを設置し、そこから日月潭まで延長15.1キロの距離を8本のトンネル、3カ所の開渠(かいきょ、地上部に造られた給水・排水を目的とする水路)、4カ所の暗渠(あんきょ、地中に埋設された水路)によって、毎秒約40トンの水を送る計画である。

ダムから送り込まれた水は、北側の太陽(日)の形をした日潭に流れ込む。すると日潭の水位が上昇するため、2カ所に土堰堤(どえんてい、水力発電や治水・利水、治山・砂防、廃棄物処分などを目的として、川や谷を横断もしくはくぼ地を包囲するなどして作られる土木構造物で、特に土を利用したもの)を築き、湖の水位を約18メートル上昇させることにした。このため南の三日月の形をした月潭の水位も上昇し、日潭と月潭が完全につながり一つの人造湖ができることになる。こうして海抜748メートル、水深27メートル、周囲長37キロ、貯水量1億4000万トンの台湾最大の淡水湖が誕生した。

名称も日潭と月潭が一つになったため日月潭を名付けられた。水を約3000メートルの水圧トンネルと約640メートルにおよぶ5本の水圧鉄管により約330メートル下の発電所に送るという壮大な工事計画である。

現在の日月潭(野嶋剛氏撮影)
現在の日月潭(野嶋剛氏撮影)

もう一つの嘉南大圳新設工事は、嘉義と台南にまたがる台湾最大の嘉南平原に1万6000キロの水路を張り巡らし、濁水溪と烏山頭(うざんとう)ダムの水によって15万ヘクタールの不毛の大地を穀倉地帯にするという工事計画で若き八田與一技師によって設計施工されることになっていた。

日月潭水力発電所建設工事が1919(大正8)年8月に開始された。着工から2カ月後の10月26日明石総督が急逝した。しかし、この二つの工事は、引き続き総督府によって推進され、嘉南大圳は1930(昭和5)年に竣工(しゅんこう)し、嘉南の農民60万の生活を一変させ、不毛の大地を台湾最大の穀倉地帯に変貌させた。

日月潭発電所は、資金不足によりいったん中止が決まったが、1931年に松木幹一郎を社長に迎えて再開し、10万キロワットの発電量を誇る東洋一の水力発電所が完成した。その結果、当時の台湾で「人間がいれば、そこには必ず電気がある」とまで言われるようになる。この発電所の完成により、台湾の工業生産は上がり、全土の人々の生活が向上し大きな影響を与え続けている。

この他にも、縦貫鉄道に海岸線を新設し、道路の整備に力を入れたのも明石であったが、業績は土木工事に限らなかった。台北商業学校の創設にも尽力するとともに、日本人と台湾人との教育上の区別を少なくし、望めば台湾人も日本内地の学校に進学できるよう新教育令を施行した。後に総統となる青年時代の李登輝も京都帝大の農学部に入学することができた。明石はさらに司法制度にも手を付け、二級審だった制度を三級審制へと改革した。森林保護の促進や華南銀行の設立など経済界にも寄与し、短期間で台湾の近代化に精力的に取り組み、日本による台湾経営に大きな足跡を残した。

55歳で病死、遺体を台湾に埋葬

将来の総理大臣という呼び声も高かった明石だが、1919年公務のため台湾から日本へ渡航中の洋上で発病し、「もし自分の身の上に万一のことがあったら、必ず台湾に葬るよう」との遺言を残して故郷の福岡でこの世を去った。55歳であった。遺体はわざわざ台湾に移され 台北の「三板橋」にあった日本人共同墓地に埋葬された。

しかし、国共内戦に敗れた蒋介石率いる国民党軍とその家族200万人が台湾に逃れた際、日本人墓地一帯には国民党軍の兵士らが住み着き、明石の墓地も破壊された。これを救ったのが、1994年に台北市長になった陳水扁である。陳水扁は立退き料を払って居住者を退去させ、同地を森林公園とする事業を進めた。明石の墓は80年ぶりに掘り起こされ、その後「台湾を愛した祖父を台湾の土地で眠らせてやりたい」との親族の気持ちを知った多くの台湾人の熱意と協力によって、1999年、台湾海峡を望む三芝郷の「福音山キリスト教墓園」に新たに明石の墓が建てられた。明石が亡くなってから80年後のことである。

台北郊外の新北市三芝区に再建された明石元二郎墓地(片倉佳史氏撮影)
台北郊外の新北市三芝区に再建された明石元二郎墓地(片倉佳史氏撮影)

バナー写真=台北市内の康楽公園にある鳥居(片倉佳史氏撮影)

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