幕末のアウトロー:激動の時代に散った裏社会のあだ花

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江戸時代末期、博徒は親分と子分からなる「一家」を各地に形成し、ばくちの胴元として地域社会に深く根を張っていた。黒船来航で生じた混乱に乗じ、彼らは公的な場に躍り出て一躍民衆のヒーローとなった。その後、幕末のアウトローがたどった運命やいかに──。

強きをくじき弱きをたすく──。国定忠治、清水次郎長など任侠(にんきょう)で売る博徒は、かつて民衆のヒーローであった。今や知る人もまれになったが、お上に盾突くアウトローに寄せる人気・人情は日本人の心性を揺さぶって不変である。彼らは日本史の教科書に登場することはないが、虚実皮膜な大衆芝居・映画・小説の世界では主役を演じる存在である。正史から排除され、稗史(はいし=民間の歴史)の闇に押し込められたアウトローの歴史とはどんなものなのか。幕末維新の激動期におけるその実態に迫る。

武装した反社会的集団が誕生

幕末のアウトローを生み出す母体となったのは、「無宿(むしゅく)」である。江戸幕府の民衆支配は、切支丹(キリシタン)ではないことを証明するため、居住する村や町の寺院の檀家(だんか)として家族単位で登録された戸籍「宗門人別改帳(しゅうもんにんべつあらためちょう)」に基づいて行われた。この支配システムが自然災害や連動して起こる飢饉(ききん)、産業・交通の発展がもたらす社会変動の影響を受けて崩れ、定住する村・町から離脱して人別改帳から除外された無宿が生まれた。幕府は無宿の取り締まりに乗り出すが、対策に苦慮し、1724(享保9)年、引き取り手のない前科者までをも娑婆(しゃば)に戻し黙認した。無宿が犯罪予備軍となって非合法の集団に編入される恐れがあり、治安上危うい措置であった。

事実、無宿は盗賊・火付けの悪党の一味となり、さらに自らを「通り者(粋な人)」と名乗って、武装した反社会集団に変貌した。アウトロー博徒の誕生である。

アウトローが取り仕切る裏社会が成立

博徒は、武士が集住し、取り締まりの厳しい城下町を避け、人と物の流動が頻繁でお上の支配が緩い街道の宿場、流通拠点の河岸・湊(みなと)、物見遊山の門前町などの片隅に棲息(せいそく)、根を下ろした。皮肉にも無宿・博徒の横行、跋扈(ばっこ)が目立ったのは、零細な旗本知行所と中小大名の領地が入り組んだ将軍のお膝元江戸の後背地・関八州(かんはっしゅう)であった。

1805(文化2)年、幕府は代官の下役である手代(てだい)の中から関八洲を取り締まる関東取締出役を任命し、巡回、治安維持に当たらせた。しかし警察力が弱体であったので、「蛇の道は蛇」で博徒を道案内(治安維持を担う幕府の手先)に起用するなど、彼らに頼らざるを得なかった。

非合法の博奕(ばくえき=賭博)をなりわいとする博徒は、隠れて賭場を開く以上、長脇差で武装し、自衛する必要があった。武器を持った彼らは「任侠」をアイデンティティーにして親分を頂点に子分を糾合し、義理や恩義を重んじた擬制的な親子兄弟関係を結んだ。そうして一家を形成し、縄張り内に賭場を開帳した。

彼らは縄張りの死守と拡張をめぐって、熾烈(しれつ)な喧嘩(けんか)の出入りと手打ちの仲裁を繰り返しながら系列化を進めていった。19世紀に入ると、全国の博徒勢力を包括した一大ネットワークが出来上がっていく。そうして非合法の輩(やから)が棲息する裏社会が成立。内部の紛争にとどまらず、幕府の支配体制に公然と敵対し、治安を揺るがす博徒が稗史のヒーローとなっていく。

仁政を行った武闘派博徒・国定忠治

ヒーローの筆頭は、「蚕繁盛の国」北関東の上州が生んだ国定忠治であろう。1810(文化7)年、忠治は利根川舟運と日光例幣使(にっこうれいへいし=朝廷から日光東照宮に遣わされた使い)街道でにぎわう国定村(現・群馬県伊勢崎市)の中農の家に生まれる。17歳のときに人を殺し、無宿となり、地元博徒・大前田栄五郎の手引きでこの世界に身を投じた。その後、敵対する博徒・島村伊三郎を闇討ちにし、親分となって一家を構えた。関東取締出役と一貫して対決した武闘派であった。

忠治がヒーローになったのは、お上が領地対策に苦慮し手をこまねく中、天保飢饉の際に率先して私財を投じ窮民を救済したためだ。博奕の上がりで農業用水の水源・磯沼を浚渫(しゅんせつ)し、お上に代わって仁政を行った侠客(きょうかく)であった。しかし1850(嘉永3)年、中気(ちゅうき=脳失血後の半身不随)となり、捕らえられてしまう。江戸に送られ、吟味の上あまりに罪状が多いので、最高刑の関所破りの科(とが)で、見せしめに大戸関所(現・群馬県東吾妻町)で公開磔(はりつけ)になることが決まった。忠治は一転罪をあがなう模範囚となり、関所への道中、威風堂々の行列を組み、『孝経(中国の経書)』を諳(そら)んじ、刑場でも14度の鎗(やり)に耐え、見事なパフォーマンスを演じてみせた。忠治の対極にいた支配代官・羽倉外記(はうら・げき)は「凡盗(ぼんとう)にあらず劇盗(げきとう)」と評した。任侠アウトローの典型であった。

天保水滸伝の英雄・勢力富五郎(せいりき・とみごろう)

一方、利根川の下流域では、金肥(きんぴ=金銭を払って買う肥料)の干鰯(ほしか)景気で沸く飯岡浜(現・千葉県旭市)の博徒・助五郎と、醤油醸造で潤う笹川河岸の博徒・繁蔵との間に血を血で洗う抗争があった。関東取締出役の道案内となって二足の草鞋(わらじ)を履く助五郎に繁蔵が対抗、利根川河原で死闘を重ねた。1844(天保15)年、用心棒・平手造酒(ひらて・みき)が斬り殺され、繁蔵は闇討ちにされるが、残党の勢力富五郎は鉄砲を用いて反撃。500人もの関東取締出役の捕り方を相手に金比羅山(現・千葉県東庄町)に52日間立てこもり、最期はあっぱれ鉄砲で自決した。この情報は江戸にも伝わり、梁山泊(りょうざんぱく)に盗賊が集まった中国の『水滸伝』を地で行く大事件と評判となり、『天保水滸伝』の稗史となって語り継がれた。忠治磔刑(たっけい)の1年前のことである。

黒船来航に乗じて島抜けした甲州博徒・竹居安五郎

1853(嘉永6)年6月、米国のペリー提督が軍艦4隻を率いて江戸湾に侵入、開国を迫った。この未曽有の一大事に乗じ、新島(にいじま)に流罪になっていた甲州博徒・竹居安五郎ら7人が前代未聞の島抜けを敢行、成功した。島の名主を殺害、盗んだ最速の新造船を拉致した熟練の水主(かこ=船員)に操舵(そうだ)させ、伊豆網代(あじろ)に上陸、逃走した。安五郎は故郷・竹居村(現・山梨県笛吹市)に舞い戻り、堂々博徒の親分に復活した。これまで脱走を流人らが19回挑戦するも、成功したのは安五郎一行が初めてだった。島抜けは天下の大罪で、島内で捕まれば絞首刑、本土にたどり着いても引き回しの上、獄門晒(さら)し首であった。強運もあるが、黒船来航をチャンスと読んで敢行した才覚と無宿のアウトローを統率するリーダーシップの持ち主・安五郎ならではの島抜けであった。

明暗が分かれた黒駒勝蔵と清水次郎長

1854(安政元)年の開国以後、幕府の権威が衰えると、尊王攘夷のテロが激発した。武力闘争が常態化した幕末動乱期に突入すると、裏社会に潜んでいたアウトローが一躍脚光を浴びる存在となった。長脇差から鉄砲まで調達して武装し、任侠の義理人情で団結した反社会的集団は佐幕派にせよ、倒幕派にせよ、利用価値の高いものであった。黒駒勝蔵と清水次郎長は明治維新の正史に名乗りを上げたアウトローの代表的博徒である。

甲州黒駒村(現・山梨県笛吹市)の名主の家に生まれ、先述した竹居安五郎の跡を継いだ黒駒勝蔵は博徒には珍しい学識ある草莽(そうもう=国家的危機の際に行動する民間人)のインテリ・アウトローであった。甲州有数の郷社、檜峯(ひみね)神社の神主である武藤外記・藤太の薫陶を受け、尊王攘夷思想に目覚めた。1867(慶応3)年、薩摩藩邸の西郷隆盛が画策した浪士・草莽による関東かく乱のための甲府城攻略に参画するが、頓挫。幕府に追われたが、薩長方の官軍に加わり戊辰戦争に従軍、凱旋(がいせん)した。

その後も宮城(きゅうじょう=皇居)警備に就いたが、1870(明治3)年に休暇を申請、帰郷中、脱隊と見なされて逮捕され、旧幕時の殺人の罪状により翌年甲府で斬(ざん=死刑)に処せられた。勝蔵は時流に乗ったつもりだったが、縄張りを離れた博徒は無力である。維新の揺り戻しに巻き込まれ抹殺されてしまった。博徒はしょせん正規軍の兵として扱われず、不要となれば真っ先に切り捨てられる存在だった。

清水次郎長は、駿州清水港(現・静岡県静岡市)の廻船(かいせん)持ち船頭の家に生まれ、叔父の米穀商の養子となった、清水港の申し子であった。放蕩無頼(ほうとうぶらい)、無宿となって出奔。三河で男を磨き、清水に帰って武闘派の一家を形成した。勝蔵とは対照的に幕末の政治諸勢力からの甘い誘いに乗らず、博徒の領域にとどまった機を見るに敏な風向きを読む海洋型の博徒であった。

清水港の縄張りを守り維新を迎えるが、東海道の要衝清水を押さえる上で次郎長は得難い存在であった。駿府に進駐した官軍の総督府判事から旧幕時の罪科はすべて不問に付すとのお墨付きを条件に口説かれ、清水警護役に登用され、新政府に見事鞍(くら)替えした。尊王攘夷運動に殉じた勝蔵は旧幕時の罪状で抹殺されたが、次郎長は新政府に登用されて明暗を分けることとなった。

秩父困民党を率いた博徒・田代栄助

幕末維新の激動期に地歩を固め生き伸びた博徒に、近代史への関与を賭けたチャンスが訪れる。1884(明治17)年は、国家の行方を左右する岐路の年であった。自由民権運動の活動家と明治政府の対立が激化し、各地に困民党、貧民党が結成され、明治国家に力ずくで抵抗する激化事件が頻発していた。秩父では困民党の下に下吉田村の椋(むく)神社に農民3000人が結集し、2個大隊、数十の小隊からなる軍事組織を編制して、警察署、郡役所を襲撃する武装蜂起が起きた。秩父困民党トップの総理・田代栄助と副総理・加藤織平は、アウトローの博徒であった。

田代は性来(せいらい)「強きをくじき弱きをたすく」を好み、貧窮の者を養育した。他人の困難に際し中間に立ち仲裁をなして実に18年、子分と称する者200有余人の衆望を集めるオルガナイザー型の親分であった。「我は床上の横死は慚愧(ざんき)、義のため死するが本分」と覚悟の上で挙兵。その結果、政府軍に敗れ、秩父困民党は壊滅する。田代は捕縛後に死刑に処せられるが、国家反逆の政治犯として裁かれず、強盗殺人の破廉恥罪で闇に葬り去られた。

この年に明治政府は有無を言わせず博徒を一網打尽にする「賭博犯処分規則」を公布、博徒の一斉検挙を強行した。静岡県令(県知事)と友好関係にあった清水次郎長でさえ逮捕され、裁判審理もなく懲罰7年、過料400円の行政処分となり、即座に獄につながれた。

ここに幕末のアウトローは終焉(しゅうえん)を余儀なくされ、正史から完全に退場することとなった。

バナー写真:静岡県静岡市の梅蔭禅寺(ばいいんぜんじ)にある清水次郎長の銅像。日本にある唯一の博徒像である。同寺には次郎長だけでなく、子分の大政・小政の墓もある(アフロ)

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