ニッポンの異国料理を訪ねて:“リトルヤンゴン”高田馬場「スィウ・ミャンマー」に息づく民主化への信念
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ミャンマーの人々はお茶を“食べる”
世界は広く、料理の常識も場所によって大きく変わる。
で、お茶といったら飲み物と決まっているかと思いきや、ミャンマーの人々は食べるのだという。いったい、どんな料理なのか。食べるお茶を味わおうと、「リトル・ヤンゴン(同国最大の都市)」と呼ばれる東京・高田馬場の食堂「スィウ・ミャンマー」に足を運ぶと——。
「ああ、それは『ラペットゥ』ですね。日本語で言えば茶葉サラダ。日本の人たちが“お茶の葉なんて食べたことない”と言って珍しがるので、それで私もミャンマー独自の料理だと知ったんです」
にこやかに語るのは、オーナーのタンスエさん。妻のタンタンジャインさんがつくってくれたラペットゥは、いままで食べたことがないユニークなものだった。
ラペットゥは発酵させた茶葉に、ひよこ豆やピーナッツなどの揚げ豆や小エビを和えたもの。しんなりした茶葉の香りにカリカリした豆の食感が楽しく、箸が進む。
「おいしいでしょ? ラペットゥは家庭の味で、それぞれの家で味付けが変わる。これをつまみながら、家族や仲間たちとワイワイやるんです」
ラペットゥはビールのお供にサイコー。だが私が店を訪れたのは緊急事態宣言の真っただ中。しばらくはガマンするしかない。
ビールをあきらめた私に、タンスエさんは「ダンバウ」を勧めてくれた。こちらはラペットゥとならぶ店の名物。じっくり煮込んだ骨付き鶏がドスンと鎮座する、ミャンマー風炊き込みご飯だ。

カレー風味の鶏肉が炊き込みご飯の上に鎮座する「ダンバウ」(950円)。ボリュームはあるが意外とあっさり食べられる 写真=渕貴之
スプーンでほろほろ崩れるやわらかな鶏を、ナッツやレーズンの入ったバターライスに混ぜていただく。からさは控えめで、食べ応え十分。これにエビやトウガラシ、ニンニクなどを粉にしたミャンマーふりかけ「バラチャウンジョー」をかけると、食欲が一気に加速。これを目当てに遠方から来店するお客さんがいるというのも、納得だ。
あー、おなかいっぱい!
満腹になった私を見て笑みを浮かべるタンスエさんに、何気なくたずねてみた。
それにしても、なぜ日本でミャンマー食堂を?
表情を変えず、訥々(とつとつ)と語り始めたタンスエさん。だが彼が歩んできたのは、想像もできないほど波乱万丈な人生なのであった——。
地下出版物で知った民主主義
タンスエさんが生まれたのは1962年。当時のミャンマーは軍事政権で社会主義、表現や職業選択の自由はほとんどなかったという。
「仲間内で政権批判なんかをすると、スパイに密告されてすぐに逮捕されてしまうんです」
タンスエさんは勉学に励んで大学に進み、地理を学び始める。だが地下出版の書物などに触れるうちに、自分たちの国はおかしいと思い始めた。
「欧米から入ってくる書物には、自由、人権、民主主義といった言葉が書かれていて、これはどういうことなんだろうと。みんなで勉強するうち一党独裁への不満が募り、社会を変えなきゃいけないと思うようになったんです」
タンスエさんと仲間たちは、学びを運動へと発展させる。
「自分たちの考えを記事にして、雑誌をつくりました。手書きで昔ながらの方法で印刷して、仲間たちに配る。でもそれが見つかって捕まり、2年間停学になってしまいました」
やがて学生たちが立ち上がり、社会の変革を求める大きなうねりが湧き起こった。1988年8月8日に大規模デモが起きたことから、それは「8888民主化運動」と呼ばれる。軍事政権と対峙する若者たちの中心に、タンスエさんがいた。
「ぼくは活動の中で民主化運動のシンボルとなったアウンサンスーチーさんと知り合い、一緒に新しい政党を立ち上げました。彼女が捕まってもぼくは地下にもぐって活動を続け、『全ビルマ学生民主戦線』という学生たちが創設した軍と連携して動いたんです」

「スィウ・ミャンマー」の店内には、そこかしこにスーチー氏の肖像が飾られている 写真=渕貴之
本名を隠しての工作活動。だがやがてタンスエさんの身元が割れてしまい、身に危険が迫ってきた。タンスエさんは日本大使館に勤める知人に助けを求めた。
「当時、ミャンマーのパスポートで入国できるのは、タイ、シンガポール、日本、韓国の四つだけ。でもタイとシンガポールは軍事政権と仲がいいので、強制送還される恐れがある。ぼくは大使館に知人がいる、日本を頼るしかなかったんです」
知人にSOSを発信すると、通常1カ月ほどかかるビザがなぜか半日で発給された。
「事情を知る大使が私を助けてくれたわけです。その方の名前はいまもわからないのですが」
ミャンマーにも第二次世界大戦中、ナチス・ドイツの迫害に遭うユダヤ人難民に“命のビザ”を発給した、杉原千畝(ちうね)の精神を持つ大使がいた。すぐにタンスエさんは機上の人に。警官が彼の自宅に踏み込んだのは、それから5日後のことだった。
ちなみに、彼と共に工作に携わった仲間は10人いた。だが2人は獄死、残り8人は釈放されてアメリカなどに亡命。弾圧の過酷さがうかがい知れる。
来日後30年、いまだ祖国の地を踏めず
89年12月、タンスエさんは日本の土を踏んだ。瞬く間に有り金が底をつき、寒空のもとでの野宿を強いられた。
このままでは飢えと寒さで死んでしまう。タンスエさんは建設現場で働き始めた。危険な現場で、がむしゃらに働き続けた。
建設会社の社長は彼の働きぶりに感心して、あれこれと骨を折ってくれた。婚約者を日本に呼び寄せられたのも、社長のおかげ。その婚約者が女将のタンタンジャインさんだ。
ふたりは2012年に「スィウ・ミャンマー」を開店。店の内装は現場仕込みの腕で、タンスエさんがひとりで仕上げてしまった。

穏やかな笑顔のタンスエさん(左)とタンタンジャインさん(右) 写真=渕貴之
命からがら日本に逃げてきたとき、タンスエさんの頭の中には、「2年もしたら政権は変わって国に帰れる」という思いがあった。実際に90年の選挙では民主派が勝ったが、軍は結果を受け入れず、体制が変わることはなかった。
ミャンマーが民主化されたのは来日から25年が経った2015年、これでやっと祖国の土を踏めるとタンスエさんは喜んだ。
だが、それから6年が経ったいまも、帰国と国籍回復という悲願はかなっていない。パンデミック、さらには軍事クーデターという想像もしない悪夢が立て続けに起きたからだ。
「20年2月、ぼくは同じ立場の仲間40人と一緒に、ミャンマーに帰国する予定でいました。国籍回復の手続きをして、ついでに観光もしようと。すごく楽しみにしていたのに、コロナのせいでフライトがなくなってしまって……」
それでもタンスエさんたちは、「時が解決してくれる」と希望を抱いていた。コロナが収束すれば、また自由に渡航できるようになる。
コロナ下の昨年は、うれしい出来事もあった。
11月8日、タンスエさんは人生で初めて、祖国の総選挙に参加した。彼と同じような事情で日本に逃れてきたミャンマー人は多く、東京のミャンマー大使館で行なわれた投票は、お祭りのような高揚感に満ち満ちていた。
「ぼくは仲間たちと投票をサポートする団体をつくり、日本中から東京にやってくる同胞を大使館に案内したり、泊まるところを提供したりと、さまざまな活動をしました。自分で票を投じたときは、自分はミャンマー人なんだと強く思いました。いままでは日本に暮らす難民で、自分が何者なのかよくわからないような気持ちでしたから。選挙ですか? 望んでいた結果が出たので、みんな大喜びでしたよ」
あとはコロナさえ収束すればいい。だがまたしても、運命はタンスエさんの人生を翻弄する。
今年2月1日、彼は祖国からのニュースにがくぜんとした。軍のクーデター。それは寝耳に水の出来事だった。
高田馬場で軍事政権に立ち向かう人々
混乱する祖国の政情を、彼はただ手をこまねいて眺めているわけではない。クーデターの直後、タンスエさんは仲間たちと 「軍事政権に反対する在日ミャンマー人非暴力活動委員会」を立ち上げ、祖国で軍に抵抗する民主派を援助するようになった。資金援助はもちろん、東京でのデモも行なった。こうして話している間も、彼の携帯は仲間たちからの電話でひっきりなしに鳴り続けている。
「若くして民主化運動に参加したとき、ぼくも仲間たちも自由や民主主義がどんなものかよく分かっていませんでした。でも、あのときの運動のおかげで、ミャンマーの民主化は前進した。いま運動の先頭に立っている若者たちは、かつてのぼくらと違って自由で豊かな暮らしを知っています。一度手にした物を奪われた彼らの怒りは分かります。この先は内戦のようになるかもしれない」

頻繁に鳴る電話が、タンスエさんの熱心な活動を物語る 写真=渕貴之
ミャンマー情勢は悪化の一途をたどり、市民800人以上の命を奪ったともいわれる軍の弾圧も続いている。タンスエさんたちは軍に圧力をかけてもらおうと、日本の議員団体に訴えているが、目立った動きはない。近年、日本とミャンマーは経済的つながりを強めているが、日本企業の経済活動は軍によって保護されている側面があるからだ。
遠くの出来事のように思えるミャンマー問題。それは実は、私たちのすぐそばにある。
タンスエさんが妻と二人で築き上げた「スィウミャンマー」には、ミャンマーの家族、仲間という意味があり、この大変な時期にあっても柔らかで温かい空気は変わらない。
ユニークで野趣あふれるラペットゥやダンバウを味わいながら、彼の国の人々に思いを馳せる。それもひとつの連帯になるのだろうか。

ミャンマー料理「スィウ・ミャンマー」 写真:渕貴之
東京都新宿区高田馬場3−5−7 電話:03−5937−0127 営業時間:11時30分〜15時/17時〜23時 第2、4月曜定休 JR山手線・高田馬場駅から徒歩約3分
バナー写真:ミャンマーでは一般的な、お茶の葉を使うサラダ「ラペットゥ」(850円) 写真:渕貴之