公開から20年目の再解読:『千と千尋の神隠し』 の謎

Cinema

宮崎駿監督の映画『千と千尋の神隠し』は公開から2021年で20年となるが、今なおその作品の魅力は色あせない。日本での興行収入ランクでは長らく1位に君臨。20年末に「劇場版『鬼滅の刃』無限列車編」に王座を譲ったことで改めて注目を集めた。16年には、英BBC主催の「21世紀の偉大な映画ベスト100」で4位となるなど、海外でも今なお高い評価を受けている。その時代を超えた魅力は何なのか。宗教学者の正木晃氏が解説する。

千尋が千になった理由

なぜ、このアニメーションのタイトルは『千と千尋の神隠し』なのか?

主人公の名前は「千尋」。10歳の女の子である。宮崎駿監督によれば、今どきの10歳くらいの女の子は、「相当に手強い」存在だから、このアニメの主人公に選んだのだという。

説明を加えれば、千尋は、日本の中産階級の夫婦の間に生まれている。夫婦が中産階級に属していることは、アウディの四輪駆動車に乗り、高級スーパーの社名が入った紙袋を下げ、比較的若い年代で郊外に一戸建てを購入できたという設定から、明らかだ。この夫婦は、そして千尋も、自分勝手で、礼儀知らずで、欲望に忠実だ。彼らは、日本の伝統的な精神文化など無視して、経済的な繁栄を謳歌していた頃の日本人の典型例ともいえる。

『千と千尋の神隠し』© 2001 Studio Ghibli・NDDTM
『千と千尋の神隠し』© 2001 Studio Ghibli・NDDTM

「千尋」が「千」になった理由は、油屋の経営者である湯婆婆(ゆばあば)に、本来の名前を奪われたからだ。湯婆婆は「千尋」から名前の一部を奪うことで、「千尋」を自分の支配下に置いた。

『千と千尋の神隠し』© 2001 Studio Ghibli・NDDTM
『千と千尋の神隠し』© 2001 Studio Ghibli・NDDTM

この点は、『ハリー・ポッター』シリーズ第1巻の『ハリー・ポッターと賢者の石』が参考になる。「死の恐怖によって支配する者」という意味の名前をもつヴォルデモート卿から、賢者の石を守り抜いたハリーが「ヴォル……あの、『例のあの人』が……」と言うと、ダンブルドア校長から「ハリー、ヴォルデモートと呼びなさい。ものには必ず適切な名前を使いなさい。名前を恐れていると、そのもの自身に対する恐れも大きくなる」と注意される。

それくらい、名前は重要なのだ。歴史を見ても、名前を与えることや名前を奪うことは、支配と従属の関係につながっている。

日本の伝統では、言葉には霊的な力があると考えられてきた。これを「言霊(ことだま)」と言う。ある種の言葉には特別な力が秘められていて、その言葉を声に出すことで、現実の世界にさまざまな影響を与えることができるという考え方だ。今でも日本で短歌や俳句の創作が盛んな背景には、言霊の思想が潜んでいるとも言える。

「神隠し」と「他界遍歴」

「神隠し」は、突然、何の理由もなく、人がいなくなってしまうことだ。いなくなってしまった理由が誰にもわからないので、「神」に責任を転嫁したらしい。あるいは「神」に責任を転嫁することで、「仕方がないな」という具合に、なんとか納得したのかもしれない。

いなくなるのは子どもが多かったので、親たちはとても恐れていた。現実の問題としては、昔の日本には、人身売買が行われていた時代もあったので、誘拐された可能性もある。その記憶はかなり後の時代まで伝えられ、恐怖の対象だったようだ。

千尋の体験は、宗教学の概念を使えば、「他界遍歴」に該当する。今、現実に生きている世界から、別の世界に移行し、そこを遍歴して、再び現実の世界に戻ってくることだ。人類の歴史を振り返ると、天国に行ったとか、地獄を見てきたという体験談がたくさんある。これらが他界遍歴の典型例だ。

『千と千尋の神隠し』© 2001 Studio Ghibli・NDDTM
『千と千尋の神隠し』© 2001 Studio Ghibli・NDDTM

このアニメーションの場合は、お父さんがうっかり道を間違えて、一本下の道に入ってしまったことが、他界遍歴の導入部になっている。道を間違えて、この世とはまったく別の世に入っていってしまうという展開は、ダンテの『神曲』ととてもよく似ている。

ただし、千尋の他界遍歴はダンテの『神曲』ほど、スケールが大きくない。その代わり、日本独特の精神世界が非常にうまく表現されている。

老木と雷

道を間違えた一家が最初に出会うのは、青空にそびえる杉の老木と、その杉に立てかけられた鳥居と、その下に集められた石の祠(ほこら)だ。これらはすべて、日本の神信仰とつながる。

杉の老木は、よく見ると、幹の頭のほうが折れている。こうした老木は、各地の神社で時折見かける。京都にある上賀茂神社の境内や、奈良の春日大社の中心部にも、同じような老木がある。神社にあるということは、この老木が大切な存在だからだ。

なぜ、大切なのか。その理由は、これらの木は、かつて神が降りてきたと考えられたからだ。では、その神とはどんな神か? 雷だ。つまり、落雷によって幹の頭のほうが折れてしまったのだ。言い換えると、神が降りてきた木であり、とても神聖な存在なのだ。だから、大切にしてきたのだ。

旧約聖書でも、モーセがシナイ山上で神から十戒を授かったとき、雷鳴がとどろいていたと書かれている。インド神話でも、帝釈天(インドラ)の起源は雷神だったようだ。ただし、セム型一神教(ユダヤ教・キリスト教・イスラム教)でもインドの宗教でも、神の起源が雷だったという点は、いつしか忘れ去られてしまった。その理由は、神が自然現象と切り離され、人智を超越した絶対的な存在にまで上昇していったからだ。

無数にいる日本の神々

ところが日本では、神と雷をはじめとする自然との関係は長く保たれてきた。その証拠の一つは、たとえば春日大社に祀られている神々が「五柱」というように、神の数が「柱」と表現される事実だ。「柱」と表現される理由は、神は「柱」のように、地上から空に向かって立っている場に現れると考えられてきたからだ。日本最古の神社といわれる長野県諏訪大社の「御柱(おんばしら)祭」は、その最も良い実例だ。

このことは、日本人が樹木に霊性を認識し、大切にしてきた根拠でもある。仏教が大陸から伝えられたとき、最初に樹木を素材として作られた仏像はクスノキが使われた。なぜなら、当時の人々は、あらゆる樹木の中でもクスノキ=クス(神々しい)+キ、つまりクスノキを「神木」と認識していたからだ。宮崎駿監督作の『となりのトトロ』のトトロ(聖なる樹木の精霊?)が、神社のクスノキを住処としている理由は、ここに求められる。

日本の神の特徴は、「八百万(やおよろず)」と表現されるとおり、無数にいるとみなされていることだ。この点は一神教とは全く異なる。『千と千尋の神隠し』では、神が無数にいることは至るところに表現されている。油屋はどこもかしこも神だらけだ。

『千と千尋の神隠し』© 2001 Studio Ghibli・NDDTM
『千と千尋の神隠し』© 2001 Studio Ghibli・NDDTM

注目すべきは、これらの神があまり偉そうではないことだ。ヘドロにまみれた状態で油屋を訪れ、千尋の機転によってきれいさっぱり浄化され、帰って行ったどこかの川の神はけっこう大物らしいが、その他は神なのに庶民的だ。しかもほとんどが団体様だ。

このような神に対する認識も、日本の伝統と言っていい。もちろん天皇家の氏神にあたる天照大神みたいな超偉いとされる神もいるが、ごくふつうの日本人が慣れ親しんできた神の多くは、トトロみたいに、ごく身近にいて、お付き合いしやすい性格の持ち主だった。つまり神と人の間の境界が緩かったのだ。

アニミズムと高度な思想の融合

この種の認識を宗教学では「アニミズム」という。「アニマ」は「生命」とか「心」を意味している。ちなみにアニメーションも「アニマ」から派生した言葉だ。要するに、この世の森羅万象全てに「生命」が宿り、「心」があるという発想だ。森羅万象全てというので、石ころや山や川にも、つまり一般的な常識では無生命と思われている存在にも、「生命」が宿り、「心」があるとみなす。

アニミズムというと、原始的な宗教意識と思われがちだ。しかし、日本では、極めて高度な仏教思想にもアニミズムが組み込まれている。

代表例を挙げよう。弘法大師空海は「地水火風空の五大から構成される森羅万象には、みな真理を語る響きがある。……究極の仏である大日如来とは、この世界の、あるがままの姿そのものだ」と主張している。

この主張をユーミンこと松任谷由実は『やさしさに包まれたなら』で現代人に分かりやすく、「カーテンを開いて 静かな木洩れ陽のやさしさに包まれたなら きっと目にうつる全てのことはメッセージ」と歌っている。

道元禅師は「瓦礫(がれき)だって悟りを開いて仏になれる」と述べている。このとおり、日本が生んだ精神界の偉人たちは、アニミズムを仏教と融合させることで、世界中のどこを探しても見出せない高度な思想を生み出してきたのだ。

話が少し難しくなることをお許しいただきたい。インドで誕生した仏教においては「有情成仏」といって、「情(心)」あるもの、つまり動物しか仏になれないと考えられた。自然には心がないとみなされたので、仏にはなれないと考えられた。しかし日本仏教は「非情成仏」、つまりインドでは心を持たないとみなされた自然も、実は心を持っているので、仏になれるという思想を育んできた。この思想は、日本人の心の中にアニミズム的な自然観がなければ、決して成り立たない。

インド仏教を忠実に継承してきたチベット仏教は、やはり動物しか仏になれないと主張してきた。ところが、近年、チベット仏教界の最高指導者であるダライ・ラマは、日本仏教の思想に深い理解を示し、自然も成仏するという方向へと転換した。

21世紀の環境問題を考える際、自然も成仏するのであり、この点では人間と同一の次元にあるという思想が、きわめて有効であることは、誰の目にも明らかであろう。

『千と千尋』における重要表現

その他、アニメーションの全体から、重要な表現を指摘する。

千尋の「他界遍歴」

千尋は、現実の世界→油屋のある世界→別の他界→油屋のある世界→現実の世界という順番で、他界遍歴を体験した。「別の世界」とは、水の上を走る電車に乗って旅した世界だ。この場面では、電車が水の上を走り、水面にはどこか寂しげな風景が描かれ、電車に乗り降りする人物は古くさい服装で、しかも影のように表現されている。

『千と千尋の神隠し』© 2001 Studio Ghibli・NDDTM
『千と千尋の神隠し』© 2001 Studio Ghibli・NDDTM

これらの点から考えると、「別の世界」は過去の世界、あるいは死後の世界のイメージを感じさせる。生→死→生というパターンの他界遍歴は、深い宗教体験と密接な関係にある。千尋が精神面で成長を遂げることができた理由は、油屋における労働体験だけにあるのではなく、生→死→生というパターンの他界遍歴を体験できたからかもしれない。

道に迷ってから、再び現実の世界に戻ってくるまで、千尋にとっては2泊3日程度の時間だ。しかし両親にとってはごく短い時間でしかなかった。そもそも神のための食事を無断で食べてしまい、豚にされたことも覚えていない。

ただし、トンネルに入っていく時と出てくる時の間には、壁の傷み具合が大きく異なること、草の茂り方、自動車の上の塵や汚れが目立つことなどから見ると、かなり時間が経過している可能性がある。もしそうであれば、千尋たちは、本当に元の時空間に戻れたのかどうか、心配になる。

油屋の庭

油屋の庭では四季の花々が同時に咲いている。つまり、異なる季節が同時に存在する。この表現は、油屋が現実の世界ではないことを象徴している。この表現は、宮崎駿監督の独創ではない。日本の浄土信仰(生前に阿弥陀如来を信仰して、死後には阿弥陀如来のお迎えを受けて、永遠の楽園である極楽浄土へ行く)を表現する絵画が、平安時代から使っていた技法だ。この作品に限らず、宮崎駿監督のアニメーションには、日本の伝統文化から着想を得て、巧みに利用している事例がたくさんある。

『千と千尋の神隠し』© 2001 Studio Ghibli・NDDTM
『千と千尋の神隠し』© 2001 Studio Ghibli・NDDTM

カオナシ

カオナシは自分自身の声を持っていない。他者をのみ込んで、その声を利用する。また、体の下のほうが半透明に描かれている。これらの設定は、カオナシには真の自我が育っていないことを象徴しているのかもしれない。

物語の後半では、自分の手からいくらでも作り出せる金(本当は偽金)をまき散らし、食べたい放題、やりたい放題になる。そして、まるでクモかダニのように、巨大な体と極端に小さな頭という、アンバランスで不気味な姿に表現されている。

『千と千尋の神隠し』© 2001 Studio Ghibli・NDDTM
『千と千尋の神隠し』© 2001 Studio Ghibli・NDDTM

巨大な体と極端に小さな頭は、はちきれんばかりの欲望と、それをコントロールできないひ弱な心を、それぞれ象徴しているようだ。カエルたちをのみ込んだものの、そのまま吐き出す場面は、知識や体験を本当の意味では自分のものにできないことを象徴しているのかもしれない。カオナシは実は私たち自身の姿を表現しているのではないだろうか。

バナー写真:『千と千尋の神隠し』© 2001 Studio Ghibli・NDDTM

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