オノ・ヨーコ 広島への思い : 未発表曲「Hiroshima Sky Is Always Blue」秘話

社会 歴史 音楽 美術・アート

ジョン・レノンの妻であり、「ビートルズに亀裂をもたらした女」として世界で最も有名な日本人といわれたオノ・ヨーコ。ジョンの死後40年以上を経て現在88歳、この数年は表舞台に出ることは少なくなったが、東京五輪の開会式で「IMAGINE」が採用され、ジョンとヨーコの共作であるこの歌の平和を願う力を再び世界に印象付けた。そのヨーコさんに「Hiroshima Sky Is Always Blue」(ヒロシマの空はいつも青い)という未発表曲があることはほとんど知られていない。

戯曲「HIROSHIMA」、戦争と「青い空」

「Hiroshima Sky Is Always Blue」唯一の正式音源は2011年、広島市現代美術館で開催されたオノ・ヨーコ個展「希望の路」の図録の付録CDに収められている。個展は、広島市が平和に貢献したアーティストを表彰する「ヒロシマ賞」をヨーコさんが受賞したことを記念して開かれた。

荘厳な鐘の音に続きヨーコさんが「John,we are here now together. Bless you,Peace on Earth. Strawberry Fields Forever」(ジョン、私たちは今ここで一緒。神の祝福を。地球に平和を。ストロベリー・フィールズ・フォエバー)と語る。その後、前衛的な民族音楽を背景に、「ヒロシマの空は青いよ」と繰り返す。合間にはポールと思われる叫び声のようなコーラスが聞こえる。このモノローグは何を意味しているのか。

広島市現代美術館が制作したオノ・ヨーコさんの個展「希望の路」の図録についているCD
広島市現代美術館が制作したオノ・ヨーコさんの個展「希望の路」の図録についているCD

曲は1997年秋にニューヨークのオフ・ブロードウェーで上演された「HIROSHIMA」のために作られた。米劇作家ロン・デストロ氏が1994年に執筆した脚本で、広島に原爆が投下された1945年8月6日前後の市民の姿を描いており、戦後50年の1995年の上演を目指してヨーコさんに曲を依頼した。2歳で被爆し10年後に白血病を発症し、8カ月の闘病の間、折り鶴を作り続けた佐々木禎子さんを思わせる少女SADAKOも登場する。

デストロ氏は日本での長期滞在経験もあり、原爆直後の広島を記録した米国人ジャーナリスト、ジョン・ハーシーのルポルタージュ「ヒロシマ」と、教育学者の長田新がまとめた被爆した少年少女の手記「原爆の子~広島の少年少女の訴え」を参考にしたという。武士道の精神や、俳句などの日本文化も織り込んだ。「亡くなった無数の被爆者が、どんな統計よりも現実味を持って浮かび上がるよう書いた」とデストロ氏は振り返る。

オフ・ブロードウェーで上演された「HIROSHIMA」の舞台あいさつ。中央がロン・デストロ氏、右オノ・ヨーコさん(ロン・デストロ氏提供)
オフ・ブロードウェーで上演された「HIROSHIMA」の舞台あいさつ。中央がロン・デストロ氏、右オノ・ヨーコさん(ロン・デストロ氏提供)

ヨーコさんが「HIROSHIMA」をめぐるエピソードを「文藝春秋」1995年9月号のインタビューで語っている。「米国人の彼が書いたものなのに、日本の立場にたって原爆の悲劇が語られているのに驚きました。広島の人々がどういう経験をし、苦しんだかがきちんと描かれている」「いろいろ思いを巡らせてスタジオにはいったんですね。その途端『Hiroshima Sky Is Always Blue』というイメージが湧きあがってきた」。

舞台「HIROSHIMA」のスチール写真=©Jonathan Slaff
舞台「HIROSHIMA」のスチール写真=©Jonathan Slaff

ヨーコさんの母方の曽祖父は安田財閥の創始者である安田善次郎。父方の祖父は日本興業銀行総裁を務めた小野英二郎。名門の家系に生まれ、幼少期に銀行マンだった父と米国に渡ったが、戦況の悪化で帰国。疎開先で食料のないつらさも味わう。それでも空は青く、終戦後、戻った東京の焼け野原の上にも青空があった。そして原爆の被害を新聞で知る。「それでも蘇った(よみがえった)広島の街を思った時、私の心の中で輝いていた青空が直観的に浮かんだ」

ヨーコさんの「青い空」について、親交が深い同世代の音楽評論家の湯川れい子さんは「戦争の恐怖と結びついたもの」とみる。「私も山形県米沢市に疎開中、飛んでいくB29と背景の『青い空』を恐怖とともに見つめていました。ヨーコさんの記憶も同じでしょう」

ビートルズとロンドン、ニューヨーク、広島

舞台「HIROSHIMA」は、資金繰りの関係で戦後50年の1995年には上演できず、1997年10-11月の6週間に渡りオフ・ブロードウェーで上演された。ヨーコさんの楽曲は「Hiroshima Sky Is Always Blue」のほか、1995年発表のアルバム「RISING」からも引用された。舞台の評価は総じて高く、ニューヨーク・タイムスはヨーコさんの音楽が「悲しい家族の物語に細やかに配慮して散りばめられている」「(物語の)骨格に逆らうものではなく、むしろ破壊された世界の断面を際立たせている」(1997年10月17日付)と講評。情報誌「ヴィレッジ・ヴォイス(The Village Voice)」はシーズン中の舞台の「上位20選」の一つに挙げ、舞台芸術を支援する米ケネディ・センター(ワシントンD.C.)は、1997年の優れた新作「New American Award」3作の一つに選出した。

この舞台のために作られた「Hiroshima Sky Is Always Blue」だが、舞台の上演前にドラマが生まれていた。

1995年1月、ポールとジョージ・ハリスン、ヨーコさんとショーンがロンドンに集まり、ビートルズが1960年代に興した会社アップルの問題を協議した。その後、ヨーコさんとショーンがポールのロンドン郊外の別荘に招かれた。当時はビートルズの集大成をまとめるプロジェクト「アンソロジー」が進行中で友好も高まっていたとされる。一泊した翌朝、私設スタジオで、ポールとヨーコさんがセッションすることになる。ヨーコさんは「Hiroshima Sky Is Always Blue」を戦後50年の節目として「子供たちもみんな入れて演奏したい」と提案した(文藝春秋インタビューから)。

ポールがベースとともに全体を指示。妻リンダがオルガン、4人の子供たちのうち息子ジェームスにギター、ヘザー、メアリー、ステラ(デザイナーとして表舞台に出る直前だった)の3人の娘たちはパーカッション。ポールはショーンに、ジョンがビートルズの「ホワイトアルバム」(1968年発表)に収録した「ジュリア」で弾いたハープシコードと鐘の音を任せた。ジョンの曲「マザー」「スターティング・オーバー」で鳴る鐘をイメージしたという。

開始直前、ポールがスタジオの隅にビートルズの「ストロベリー・フィールズ・フォエバー」の楽譜を見つける。あるはずのないものが、なぜかあった。ヨーコさんは「ジョンが一緒にいるような気持ちだった」。これが冒頭のモノローグにつながった。ショーンは後に「20年以上に渡る(ビートルズ解散の)争いの後の和解の結果だった。ポールと一緒の仕事は素晴らしかった。一緒に演奏したことのない人々で音楽を作ったのだから」と語った。(「The Beatles Off The Record 2」Keith Badman)。この時の録音の一部は同年8月6日のNHKのニュースで紹介された。

「幻」の厳島神社コンサート、「生」と「死」のコントラスト

「Hiroshima Sky Is Always Blue」が生のステージで披露されたのは、広島県の世界文化遺産、宮島にある厳島神社の国宝「高舞台」で開催された1995年10月7日夕のヨーコさんのコンサートの1回きりだ。鑑賞した湯川れい子さんは「神社の後ろから月が昇り、シカの鳴き声が聞こえてきて、幻想的な雰囲気でした」と振り返る。

「オノ・ヨーコ / 今 / 祈念コンサート」と銘打った公演は、広島原爆50年と厳島神社創建1400年祭を兼ねた奉納行事だった。大鳥居が建つ海側に観客席が作られ、約1100枚のチケットは完売。「今も参拝のお客様にこの話をすると、へえって驚かれます」と立ち会った禰宜(ねぎ=神職)の福田道憲さんは言う。高舞台は通常、コンサート等には利用されないが、「神社に歌を捧げたい」というヨーコさんの思いを、当時の宮司(故人)が了承したという。

厳島神社の国宝「高舞台」=広島県廿日市市宮島町(藤澤志穂子撮影)
厳島神社の国宝「高舞台」=広島県廿日市市宮島町(藤澤志穂子撮影)

コンサートのチラシ
コンサートのチラシ

公演の様子を、複数のメディアやファンサイトが伝えている。ステージには紫色の着物姿のヨーコさんと、ショーン率いる羽織はかま姿のバンド「IMA」が登場。アコースティックをベースとした9曲を演奏。7曲目が「Hiroshima Sky Is Always Blue」だった。翌8日付の中国新聞は「オノ・ヨーコさん 平和の歌声奉納」という写真入りの記事で紹介。「前衛的な音楽で、被爆50年の節目に原爆犠牲者への鎮魂の気持ちとともに、神社創建1400年祭の祝いを表現した」「民俗楽器を取り入れた演奏、声を絞り出すような歌い方などで、幻想的に『生と死』を表現」などと紹介した。ある観客は「ビートルズファンとしては『ジョン・レノンの息子を生で見てみたい』という思いが先にあった。静かに音楽を聴く雰囲気だった」と振り返る。

ヨーコさんは公演後の中国新聞のインタビュー(1995年10月14日付)でこう話した。「1400年続いた神社を『生』、原爆の悲惨な出来事を『死』の象徴として、生死のバランスに焦点を当てた。水を見て空に向かい、山を背景に、自然との調和を感じて演奏できた」「(原爆50年という)節目の年に、ノー・モア・ヒロシマをあらためて世界中に確認してもらうためにやりたかった」。広島入りには、子供たちを連れてくるという意味もあった。取材に同席したショーンは「原爆ドームを初めて見て、感情的になって涙が流れた」。公演には、ヨーコさんの前夫との娘キョーコも来ていた。「学校の先生だそうで、休みが取れたから来れた、と話していましたね」と湯川さん。母娘は長い間、別々に暮らしていたが、この頃にはわだかまりがなくなっていたという。

実は創建1400年祭は、台風被害により実施が2年遅れ、図らずも原爆50年の年と重なった。オノ・ヨーコさんを招く企画は市民ボランティアが発案、県内企業や有志から寄付を募って運営し、ヨーコさんは事実上ノーギャラだった。翌1996年には原爆ドームと厳島神社を含む宮島が、ともにユネスコの世界文化遺産に登録された。「生と死」の対比は、世界文化遺産の登録にも重なった。その点でも歴史的な公演だったが、当日の映像や録音、記録写真は殆ど残っていない。権利関係の問題でヨーコさん側が所有している模様だ。

実行委員長で、現在はエリザベト音大名誉教授の佐藤恭子さんは、収益から福祉施設への寄付金を捻出、一部を同年11月、韓国の慶州ナザレ園へ届けに行った。終戦後の混乱で、朝鮮半島に残らざるを得なかった日本人女性らの施設である。「原爆投下のあった戦争で、自分たちだけが被害者のような意識でいる。決してそうではないという思いを込めた」と振り返る。

オノ・ヨーコさん(左)と公演の実行委員長だった佐藤恭子さん=1995年10月、宮島で。佐藤さん提供
オノ・ヨーコさん(左)と公演の実行委員長だった佐藤恭子さん=1995年10月、宮島で。佐藤さん提供

未発表の理由~ヨーコさんの素顔

「Hiroshima Sky Is Always Blue」が未発表である理由について、ヨーコさんが「子供たちが関わっており、商業ベースには載せたくない。1曲だけで難しいけれど、違う形で発表したい」と話したという記載が、1995年発行のビートルズの英国のファンクラブ会報誌「The Beatles BOOK」(現在は廃刊)などにある。正式発売となると、ポールとの権利関係の調整が必要になる。ならば広島で無償の公表がふさわしいと、ヨーコさんは考えたのではないだろうか。 

音楽評論家・湯川れい子氏(湯川れいこ音楽事務所提供)
音楽評論家・湯川れい子氏(湯川れいこ音楽事務所提供)

ヨーコさんの素顔とは。湯川さんは「常に鎧(よろい)を着ているようでも、心の中に柔らかい部分があり、本当はすごく優しく傷つきやすい。ショーンも幼い頃から理解していて、だからジョンが亡くなった直後、まだ5歳なのに必死で母親を励ましたんです」と振り返る。

1995年の宮島での公演の際、当時20歳だったショーンに湯川さんは、ヨーコさんの音楽を「分かるの?」と尋ねた。「ママの音楽いいと思う」という返事に驚いたという。「世界中が『アンチ・ヨーコ』だった時代にジョンはヨーコを理解して応援した。そのジョンと同じ耳、感性を持っているからでしょう。ミュージシャンとして独自の道を歩んでいることからも分かります」

広島テレビのロビーにあるヨーコさんのアート「Hiroshima Air Clock」=広島市(藤澤志穂子撮影)
広島テレビのロビーにあるヨーコさんのアート「Hiroshima Air Clock」=広島市(藤澤志穂子撮影)

ヨーコさんは広島市にアートを提供してもいる。JR広島駅北口にある広島テレビのロビーには、原爆投下日時と時間を刻んだ大型の置時計「Hiroshima Air Clock」が飾られている。アートに比べ、音楽は「前衛的でパンキッシュ」(湯川さん)で分かりにくいかもしれないが、ほとばしる感性が、形を変えて表現されているともいえる。「Hiroshima Sky Is Always Blue」について、ヨーコさんの楽曲を管理しているソニー・ミュージックレーベルズは、将来的に何らかの形で発表できれば、と期待をつなぐ。歴史の片隅に埋もれているこの歌は、何らかの形で記憶にとどめておきたい。

湯川れい子さんへのインタビュー詳細は、「音楽評論家湯川れい子さんが見たヨーコとジョン」として別記事で紹介しています。

バナー写真 : オノ・ヨーコさん(左)と公演の実行委員長だった佐藤恭子さん=1995年10月、宮島で。佐藤さん提供

広島 原爆 戦争 広島市 広島平和記念公園 原爆ドーム 平和 太平洋戦争 ビートルズ 広島県 終戦記念日