8月8日男子マラソン:速さの探求はレースのみにあらず――異能のランナー大迫傑が集大成の札幌で見せるものとは
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自分より強い選手を追い続けて
大迫の速さへの渇望は、子供の頃から突出していた。
遊びたい盛りであろう中学時代も一人練習に打ち込み、家族でスキー旅行に出かけても、けがを恐れてスキー板を履くことはなかった。
進学は自分より強い選手がいることが決め手となって、佐久長聖高校(長野県佐久市)、そして早稲田大学を自ら選んだ。
「自分がエースとして持ち上げられる環境は、居心地がいいでしょう。でもどこかで甘えが出てしまうだろうし、成長が止まってしまう可能性もある。僕はちょっと頑張らないとついていけないような環境がベストだと思っています。自分が速くなれるならどんなところにでも行きます」
早稲田大学では1年生から4年連続で箱根駅伝に出場。大学駅伝を代表するトップランナーとなったが、トラックの中長距離走に力を入れたい大迫にとって、駅伝はむしろ「走りたくない」種目だった。
日本では大学卒業後も競技を続けようと思うと、実業団へと進むのがセオリーだ。大迫も日清食品グループに所属したが、1年後にはアメリカに渡り、トップランナーが集うナイキ・オレゴン・プロジェクトに、アジア人として初めて加入した。
さまざまな面で待遇が手厚い日本の実業団と違い、ナイキ・オレゴン・プロジェクトでは常に自主性が求められた。
「大学生のときに初めて見学をした際は、僕にもこんなに丁寧に説明をしてくれるのかと驚きました。でもそれはビジターに対する親切さで、いざ加入したら想像以上にシビアな世界でした。オレゴンに行くときは、単純にチャレンジできる環境に身を置きたいという一心でしたが、いざチームに入ると、結果を出さなければ辞めさせられてもおかしくない状況で。
練習でも僕にとっては毎回レースのような緊張感がありました。(チームメイトで5000mのアメリカ記録保持者)ゲーレン・ラップが98%の努力をしていたら、僕には限りなく100%に近い努力が必要。クレイジーに走らなきゃいけないという話をコーチにもよくしていましたね」
2016年のリオデジャネイロ五輪では、5000mと10000mの日本代表に選出。レースでは日本人最上位となったが、世界の壁は高く、目標であった入賞には届かなかった。ここから大迫は徐々にマラソンへと舵を切っていった。

リオ五輪5000m予選で後れを取る大迫。この距離での世界の壁は高かった(2016年8月17日、ブラジル・リオデジャネイロ)時事
マラソン転向2年目の日本新記録
17年、初マラソンとなったボストンマラソンで3位入賞を果たすと、同年の福岡国際マラソンでも3位。その翌年10月に行われたシカゴマラソンでは、2月に設楽悠太が16年ぶりに更新した日本記録をさらに塗り替え、日本人初の2時間5分台へと突入した。
だが沸き立つ周囲と距離を置くように、大迫は冷静だった。
「三つのマラソンは順調すぎて。いろいろなことに恵まれすぎて、まだ学びきれていないのかなと正直思っています」
まるでその後を予知したような言葉だった。
19年、大迫にとって4度目のマラソンとなる東京マラソンは、季節外れの悪天候となった。スタート地点の気温は5.7度。走っても走っても冷たい雨が体温を奪う。思い通りに動かない体——大迫は29km付近で途中棄権を選択した。
同年9月、東京五輪日本代表3枠のうち2枠をかけた一発勝負、マラソングランドチャンピオンシップ(MGC)が開催。本命はやはり日本記録保持者の大迫傑だったが、わずかに力及ばず、2位と5秒差の3位。代表の座をつかめなかった。
だが、試合後の大迫の表情はすっきりとしていた。
「完敗です。でも前の二人(1位中村匠吾と2位服部勇馬)から学ぶことも多かったし、あそこまできちんと負けないと変えられないこともありますから」
日本記録が更新されなければ、大迫は自動的に残り1枠に決定する。座して待つこともできたが、大迫は6カ月後の東京マラソンに出場し、自身の持つ日本記録を21秒更新。他の選手の追随を許さず、代表の座をものにした。

五輪代表が懸かった東京マラソンで日本人トップの4位でゴールした大迫。自ら持つ日本記録を更新し、代表の座をつかむ好走だった(2020年3月1日、東京マラソン)時事
「MGCでは自分のペースを守る重要性を改めて実感しました。だから、東京マラソンで2位集団がペースを上げて僕と距離が離れた時も『あ、行かれちゃったな』ぐらいに思えたし、あのペースは僕には少し速いと判断して、自分のリズムに戻すことができた。ああいう試合展開が自分の戦い方だなと再確認できたし、だからこそ日本記録も更新できたのだと思っています」
現役のトップランナーだからこそやれること
会心の走りを見せた、そのわずか数週間後、新型コロナウイルス感染拡大により、東京五輪の延期が決定した。その後も次々と大会が中止に。いかにモチベーションを保ち、調子を合わせていくのか、そもそも収束へと向かうのか——。誰も経験をしたことのない状況で、大迫はじっと自分がすべきことを考えていた。
「第一回目の緊急事態宣言の前後から、チャリティーやバーチャルイベントなど、いろいろなお話をいただいたのですが、なんかしっくりこなくて。1カ月、2カ月と考える中で、やっぱり若い選手たちの実になることをしたいと思ったのです」
20年7月、大迫は所属の垣根を超えて世界と戦う選手を育成するチーム「シュガーエリート」を発足。大学生を対象とした夏合宿を行うことを表明し、募集を開始した。
筆者の記憶が正しければ、大迫がこの構想を初めて話してくれたのは、シカゴマラソンで日本記録を更新した直後だったと思う。
「僕があと何回マラソンを走れるかと考えたら、そんなに多くはないと思います。だから、僕たちの世代で急に世界に追いつくというのは現実的ではないでしょう。だけど僕たちの経験をもっとスマートに下の世代に伝えることができたら、世界との距離は早く縮まるかもしれない。そのための環境を僕は作りたい」

陸上教室に参加した小学生と記念撮影に応じる大迫傑(Sugar Elite提供、2020年12月20日、東京都内)時事
その頃から大迫は、日本に帰国した際のわずかな時間を縫って、自らランニングクリニックを企画して行うようになった。キャリアのトップにいるアスリートが、引退後をリアルに考え、行動に移したことは驚きだった。そして東京五輪が延期になったことで、大迫はそのプロジェクトを一気にスピードアップさせた。東京五輪を控えたこのタイミングでなぜ——。
「陸上界では知られていても、一般の人がどれだけ僕のことを知っているかと言われたら、野球やサッカーには到底かなわないと思います。僕は陸上選手の地位をもっと上げたい。それには、現役中の今だからこそ、やらなければいけないことがあると思うんです」
「現実的」だからこそ高まる、メダルの可能性
21年1月、コロナ禍の喧騒から離れるように、大迫は一人ケニアでの長期合宿に向かった。ケニアでシンプルに競技と向き合う日々に、大迫は「今は良くも悪くも気持ちに波がなくて、フワフワとリラックスした気分。集中して練習に臨めていると思います」と充実した日々を語ってくれた。
だが3月末になるとケニアがロックダウン。当初7カ月の予定だった合宿を3カ月で切り上げ、アメリカに緊急帰国。ケニアに戻ることも考えたが、最後はフラッグスタッフ(米アリゾナ州)で高地合宿に励み、東京五輪に臨むことを決断した。
「メダルの可能性はどう思う?」——そう尋ねると、大迫らしい現実的な答えが返ってきた。
「みんながベストタイムの2時間1分台、2分台でレースをしたら、まず無理でしょうね。でもそんなレースはありえません。僕が狙うのはウエイティングリストのなるべく上にいて、誰かが落ちてきたときに、そこに滑り込むこと。そういうレースができれば、可能性はあると思っています」
8月8日のラストラン——果たして大迫はどんな走りを見せてくれるのか。
そして、異能のランナーはすでに次を見つめている。五輪後は全国の地方自治体や公共団体と組み、小中学生を対象にしたイベント開催で全国行脚に出る予定だ。すべては次世代につなぐため——大迫の飽くなき速さへの挑戦は、引退後も変わらず続いていくことだろう。
バナー写真:東京マラソンで2時間5分29秒を記録。自らの日本記録を塗り替えた大迫(2020年3月1日、東京都千代田区)時事
