台湾で根を下ろした日本人シリーズ:「台湾と結ばれた占い師」渡辺裕美/龍羽ワタナベ

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台北の歓楽街で飲食店を経営し、占い師としても成功した渡辺裕美。バラエティー番組の出演も多く、台湾のお茶の間で知らない人はいない。人生の目標は60歳での引退という彼女の軌跡を追った。

渡辺 裕美 WATANABE Hiromi

横浜市出身。青山学院大学卒。証券会社勤務、中国広州市の暨南大学留学を経て1997年に渡台。台北の歓楽街、林森北路で初の日本人ママとしてカラオケ・スナック「Lupin」を筆頭に飲食店を3店舗、足掛け20年経営。現在は占い師「龍羽ワタナベ」として「占いの館・龍の羽」を経営する傍ら、桃園市の開南大学の特任助理教授を務める。台湾国興テレビのバラエティー番組「ビックリ台湾」のコメンテーターとしても準レギュラーで出演。2021年7月、台北旭日ロータリークラブ会長に就任。

父の死をきっかけに「社長」を志す

渡辺裕美は小中高一貫のカトリック系の女子学校で少女期を過ごした。中学からは卓球部に所属する一方、古代文明や超能力、怪奇現象などを扱った月刊誌『ムー』を愛読し、雑誌の占いコーナーにも熱心に目を通した。それが高じて高校の学園祭では、模擬店で「タロット部屋」を出店するほどだった。

大学では経済学を専攻した。占星術やタロットにも相変わらず熱を入れていたが、この頃には『易経』などの東洋の占いにも関心を持つようになった。祖父がロシア語の通訳として南満州鉄道で働いていた関係で、大連生まれ、ハルビン育ちの母親からは、当時の中国の思い出話をよく聞かされていた。また、卓球強国の中国への憧れもあった。中国占術の世界に足が向いたのには、こうした背景があった。

大学2年の年に、工作機械メーカーの社長だった父親が突然亡くなった。すると、取引先の関係者が手のひらを返すように冷淡になった。親戚同士の骨肉の争いも目の当たりにした。人間のドロドロとした一面をこの時に初めて垣間見た。

「衝撃的でしたが、人間洞察の場ともなりました。かえってファイトが湧き、自分は将来絶対に社長になると決意しました」

大学を卒業すると、証券会社に勤務した。証券会社を選んだのは、他の職種に比べ給与が高額で、会社の設立資金を蓄えるのに近道と考えたからだ。実力を認められれば、そこで社長になれる可能性もあるかもしれないとの淡い期待も抱いた。しかし、入社直後にそれは幻想だと悟った。

「管理職や役員には女性が一人もいませんでした。営業の仕事も重要な案件は男性にしか回りません。頭を殴られたような気持ちになりました」

結局、5年数カ月でその証券会社を辞めた。その前々年の1989年の12月に、日経平均が史上最高値の3万8957円44銭を記録していた。バブル経済のピークだった。また、この年は中国で天安門事件、ドイツでベルリンの壁崩壊と世界を揺るがす事件も相次いだ。渡辺は持ち前の勘の良さで時代の節目をいち早く感じ取っていたのかもしれない。

台湾で日本人駐在員相手のビジネスを考える

1990年夏、初めて中国を訪れた。まだまだ発展途上だったが、そこに暮らす人々の底知れぬエネルギーには目を見張った。近い将来、中国の時代が必ず来ると確信した。92年夏には広東省広州市の暨南大学に留学した。鄧小平が「南巡講話」を発表して「社会主義市場経済」の概念を打ち出し、さらなる「改革開放」に向けてアクセルが踏み込まれた時期だった。

「『富める条件を持った地域、人々から富めばいい』との鄧小平の先富論に感化され、その旗手であった広東省に目を向けました。また、暨南大学は世界各国の華僑の子弟も多く、将来に向けての人脈作りも考えました」

広州での10カ月の語学留学を終えると、台湾出身の同級生の勧めで、引き続き台北に2カ月滞在した。地元の人を相手に日本語を教えたり、台北の街を徘徊(はいかい)したりして過ごした。また、台東、緑島、南投の霧社などの地方にも足を伸ばした。これが渡辺と台湾との運命的な出会いとなった。

中国の時代が来ると先読みして留学してみたものの、その時代はもう少し先だったようだ。日本に戻ると、期待していたようには就職先が見つからなかった。結局、塾講師をしながら食いつなぐこととなった。

ある時、日本での就職にこだわらず、中華圏に自分が拠点を置けばよいのではないかとひらめいた。しかし、当時の中国は賃金があまりにも低かった。香港は賃金に比して家賃が極端に高く、割に合わないと思った。シンガポールは外国人の雇用機会が少なかった。結局、消去法で台湾の可能性が残った。しかし、台湾でいったい何をすればよいのだろう。

「日本人駐在員相手のビジネスなら成り立つのではないかと思ったのです。知人からニューヨークや香港では、駐在員相手の飲み屋が繁盛していると聞いて、これだと思いました」

経営者、占い師として成功する

早速台北の歓楽街、林森北路に向かった。自分の考えが間違っていないことを確信すると、1997年1月には短期留学の形で台湾師範大学に入学し、現地での情報収集に努めた。ある時、友人の紹介で日本から台湾に出張に来たビジネスマンに同行し、実地調査も兼ねて林森北路のバーやスナック巡りをした。3軒目に入った店の店主と意気投合し、そこを手伝うこととなった。

渡辺から自分の店を持ちたいと聞いた台湾人の客の勧めで占い師に見てもらうと、「出店は問題ない」「台湾には長くいることになる」と告げられた。

1997年11月、林森北路の通称六条通りにカラオケスナック「Lupin」を開店。社長になる夢は台湾で実現した。「台湾で初めての日本人ママの店」を売りにすると、開業直後から連夜の満員となった。やがて焼酎バーやスポーツバーも含め、一時は3店舗を経営するまでにビジネスが拡大した。結局、他の店舗は途中で売却し、「Lupin」だけは20年の節目となった2017年まで続けた。

事業も順調で気持ちに余裕ができた渡辺は、占いの勉強に再び時間を費やした。1999年から台湾の高名な占い師に師事し、マンツーマンの指導を受けた。ちょうどその頃、台湾は日本女性の人気旅行先となり、足つぼマッサージや占いが観光アイテムとして脚光を浴び始めていた。ところが、日本人相手の占い師は、日本語が堪能でも占い師としての経験や実力が不足していることも多かった。渡辺はこの状況にじくじたる思いでいた。

占い師・龍羽ワタナベ
占い師・龍羽ワタナベ

「台湾の占い師のレベルはもっと高い。日本人観光客にも本物の占いを知ってもらいたい。そこで通訳を用意して、地元で評判の占い師らにお願いし、占ってもらおうと考えました」

こうして誕生したのが「占いの館・龍の羽」だった。予想通り需要と供給がかみ合って繁盛した。開業半年後のことだった。師匠から「どうして君自身が占わないのか」と問われた。「自分がやっていいんですか」と聞き返すと、師匠はこう言って背中を押してくれた。

「あなたの中国語では台湾人を占うことは難しい。だが、日本人ならば問題はない。占うことで勉強にもなる」

占い師「龍羽ワタナベ」がここに誕生した。自らも経営者でもある渡辺の占いは、日本からの観光客だけではなく、台湾で活動する在留邦人の間でもたちまち評判となった。日本や台湾のメディアでも繰り返し紹介され、2014年からは日本で占いや自己啓発系の単行本を毎年のように出版するようにもなった。

李登輝氏の手相を見る渡辺裕美
李登輝氏の手相を見る渡辺裕美

人生の目標は60歳で引退

知名度が上がるに連れて、思いがけないところからも声が掛かるようになった。映画『ママは日本へ嫁に行っちゃダメと言うけれど。』(谷内田彰久監督、2017年)と『恋恋豆花』(今関あきよし監督、2019年)では、いずれも本職の占い師役で銀幕デビューを果たした。また、国興テレビのバラエティー番組「ビックリ台湾」では、コメンテーターとして準レギュラー出演、お茶の間でもすっかりおなじみとなった。さらに2019年には、桃園市の開南大学から、社会経験の豊富さを買われて特任助理教授として迎えられた。台湾に来てから働き詰めだった自らの四半世紀を振り返り、渡辺はこう語った。

国興テレビ「びっくり台湾」のコメンテーターを務める渡辺裕美
国興テレビ「びっくり台湾」のコメンテーターを務める渡辺裕美

「自分は独身ですが、きっと台湾と結婚したのだと思います」

渡辺は数年後に迫った60歳までに引退するのが目標だと明かしてくれた。これまで通り占いの勉強や占い本の執筆も続けながら、いつかは小説も書きたいと思っている。すでに温めているテーマが3つあるという。心に思っていることがあるなら、やればよい。やらないで後悔するよりも、やって失敗した方が今後の学びになる。それが渡辺の信条だ。最後に大切にしている言葉を二つ紹介してくれた。

著作の数々(渡辺裕美氏提供)
著作の数々(渡辺裕美氏提供)

「『和をもって尊しとなす」と『窮すれば通ず』です。前者は聖徳太子の言葉として有名ですが、『論語』が出典で『和を保つことの大切さ』と『理解を得られるまで徹底して議論することの大切さ』の2つを説いています。また後者は『易経』が出典で、『義さえあれば、たとえ窮地に陥ったとしても活路が開ける』という意味です」

この2つの言葉をよりどころに、今日も渡辺はきっと誰かの行く道を照らし、その背中を押し続けていることだろう。

開南大学での授業風景
開南大学での授業風景

バナー、文中写真はいずれも渡辺裕美氏提供

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