台湾を変えた日本人シリーズ:教育制度の礎を創った伊沢修二

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日本人にとってなじみ深い「仰げば尊し」は台湾の学校卒業式でも歌われている。この歌を日本に紹介した明治の教育家・伊沢修二は、台湾の近代教育の普及に貢献した人物だ。伊沢は日本の台湾領有初期に教育の重要性を説き、自ら台湾に渡って学校の設置などに尽力。その教育への熱意は、台湾最初の学校の建立地の地名にちなんで「芝山厳精神」と呼ばれている。

台湾でも歌い継がれる「仰げば尊し」

かつて、学校の卒業式では下級生が「蛍の光」を、卒業生が「仰げば尊し」を歌うことが定番であった。卒業生が大粒の涙を流す光景を、私自身、教員在職時にはよく見たものである。悪ガキだった生徒とて例外ではなく、泣いて卒業していった。

「仰げば尊し」は日本統治時代の台湾でも歌われていたが、政治体制が変わった戦後も卒業式の定番曲として中国語に翻訳され、「青青校樹」という名で歌い継がれていることを知る日本人は少ない。

この歌の原曲は1871年に米国で出版された楽譜の中の「Song for the Close of School」という楽曲であることを、桜井雅人一橋大学名誉教授が突き止めている。日本には、文部省音楽取調掛(おんがくとりしらべがかり)だった伊沢修二らによって紹介され、歌詞は『言海』を編纂(へんさん)した国語学者の大槻文彦、作詞家の里見義(ただし)、歌人の加部厳夫の合議で作られた。

ジョン万次郎に英語を学ぶ

伊沢修二は高遠藩(現在の長野県伊那市)の下級武士の子として生まれた。父親の扶持は少なく、極端な貧乏暮らしであった。1861年から藩校進徳館で学び、16歳の時に江戸に出て、ジョン万次郎に英語を学んだ。1872年には文部省に入省し、教育界での活躍が始まる。

1874年に愛知師範学校の校長を務め、翌年の7月には師範学校教育調査のために、米国へ留学した。そこで聴覚障害者のための発音記号の一種である視話法を身に付けた。音楽教育家のルーサー・メーソンからは音楽教育を学び、1878年5月、28歳の時に帰国した。その翌年に文部省の音楽取調掛に任命されると、恩師メーソンを日本に招き、協力して西洋音楽を日本へ紹介した。この時編纂した「小学唱歌集」に収録されたのが「仰げば尊し」である。1885年に森有礼(ありのり)が初代文部大臣に就任すると、翌年3月には教科書の編集局長に抜てきされた。

伊沢修二(伊那市教育委員会提供)
伊沢修二(伊那市教育委員会提供)

1889年に森有礼が暗殺されると、伊沢は文部省を去った。次の年に「国家教育社」を設立して、国家主義教育の実施を訴え、教育雑誌『国家教育』を創刊し、教育勅語の普及にも努めた。

台湾教育の重要性を説く

1895年、下関条約によって台湾を領有した明治政府は初めて手に入れた新領土の経営方法を模索していた。台湾は風土病のまん延、アヘン吸引の悪習、武装勢力の襲撃、先住民族の抵抗と四重苦に見舞われる島であった。当時、44歳になっていた伊沢は初代台湾総督の樺山資紀に会いに行き、現地での教育の重要性について持論を述べたところ、樺山は「それを君がやってくれ」と答え、伊沢を台湾総督府民政局学務部長心得に抜てきした。

同年5月17日、伊沢は志ある教師7人を伴い台北に赴任。6月17日の台湾総督府設置から間もない28日には台北市北部の芝山巌(しざんがん)に学堂を開設、台湾での日本語教育を開始した。

この学校には6人の台湾の若者が教師になるために入学した。伊沢は「自分たちがここに来たのは、戦争をするためではない。日本国の良民とするための教育を行うためだ」と地元の長老を説いて回った成果でもあった。

帰国中に起こった悲劇

開校当時は、日本領有に反対する武装勢力がゲリラ活動を展開していたが、伊沢たちは「身に寸鉄を帯(お)びずして住民の群中に這入(はい)らねば、教育の仕事はできない」との決心でいた。さらに「もし我々が国難に殉ずることがあれば、台湾子弟に日本国民としての精神を具体的に宣示できる」と、死をも覚悟して授業を続けた。生徒の6人は、4カ月もすると日本語が理解できるほど優秀だった。授業が軌道に乗ったのを見届けた伊沢が、教師補充のために一時帰国した最中に悲劇が起こった。

1896年元旦を期して武装勢力が台北を攻撃するとのうわさが立ち、地元住民は学堂に残っていた6人の教師に避難を勧めたが、「死して余栄あり、実に死に甲斐あり」との覚悟を示した。教師らは総督府に年賀のあいさつに向かう途上、100人近い武装勢力の襲撃を受け、全員が首を切り落とされた。

「芝山巌事件」と呼ばれた凄惨(せいさん)な事件は、台湾島内のみならず日本内地にも大きな衝撃を与えた。教員補充に800人もの応募があったが、事件が報じられると、大量の辞退者が出て残ったのは45人だけだった。伊沢は台湾での教育を止める気持ちはなく、伊沢とともに台湾に渡ることになった教師達も「たとえどのような危険が待ち受けていようと、台湾の教育に命をかけよう」と覚悟を決めていた。

この45人は、1896年6月には台湾に渡り、約2カ月かけて台湾語を習得し、台湾全島14カ所に設置された「国語伝習所」の教諭となって各地に赴任した。15歳以上30歳以下の甲科と、8歳以上15歳以下の乙科があり、前者は日本語のできる官吏を育成し、後者は未来の台湾を担う人材を育てた。

広がる「芝山巌精神」

台湾に戻った伊沢は精力的に事業に取り組むが、総督府の上司と予算面等で意見が合わなくなり、2年余りで後ろ髪を引かれる思いで台湾を去った。その後、伊沢がまいた種は徐々に実を結び、日本人教師の教育に対する情熱は「芝山巌精神」として語り継がれるようになった。

1930年には芝山巌神社が創建され、1933年までに台湾人教育者24人を含む、台湾教育に殉じた330人が祭られた。また芝山巌事件で殉職した6人の教師を「六氏先生」と呼び、「六氏先生の歌」がつくられ、尊崇の念を持つようになっていった。時の首相・伊藤博文の揮毫(きごう)による「学務官僚遭難之碑」も建てられるなど、その精神は台湾の学校教育の原点となっていった。

伊沢が台湾で始めた教育は急速に発展し、国語伝習所は「師範学校」へと改称され、やがて台湾人のための小学校である「公学校」が設置されていく。さらには中学校、高等学校、台北帝国大学までもが完備され、台湾の近代化に大きく寄与した。まさに伊沢は「台湾教育の礎を創った教育者」といっても過言ではない。

内地に帰った伊沢は1897年には貴族院勅選議員になり、晩年には高等教育会議議員を務めたほか、吃音矯正事業にも力を入れた。1917年、脳出血のため67歳で死去した。

破壊された「遭難之碑」が復活

六氏先生に関しては後日談がある。戦後、台湾に来た蒋介石率いる国民党は、日本時代の神社や銅像、それに記念碑や日本人墓地までも破壊し、日本の痕跡を消し去ろうとした。当然「学務官僚遭難之碑」も倒され、そのまま放置されていた。

しかし、李登輝が総統になり台北市長には次代の総統になる陳水扁が就任、台湾の民主化が進む中で、六氏先生の精神を復権する動きも高まった。芝山巌学堂が開学して100周年に当たる1995年、祝賀式典が盛大に執り行われ、日本からも卒業生や遺族らが参加した。「学務官僚遭難之碑」が修復され、「六氏先生之墓」も建て直された。

新しい墓は日本式の簡素な墓である。墓石には「六氏先生之墓」とだけ書かれ、氏名も業績を示す墓誌もない。しかし、伊沢の導きで台湾に渡った「六氏先生」の精神は、今日の台湾教育の中でしっかりと実を結んでいる。

バナー写真=伊沢修二の生家(伊那市教育委員会提供)

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