東京五輪に見るわが人生サイクル:高度成長のファンファーレ、そして今は

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1964年10月10日、第18回夏季オリンピック大会・開会式が東京で開催された。今から、ちょうど57年前のその日は、私の結婚式当日でもあった。日本の歴史に残る東京五輪の公式セレモニーと私的祝儀が同時に執り行われた公私ともに記念すべき日。今、57年後の2021年秋、金婚式をも過ぎた私たち老夫婦は、「2020東京」オリ・パラのTV特集番組を観ながら、時の流れに深い感慨を覚えていた。

敗戦日本が先進国の仲間入り

今さら私事で恐縮と断るまでもないが、1937(昭和12)年生まれの私は、当時27歳。2年前に大学を卒業して通信社に入社したばかりの駆け出しジャーナリスト。学生時代は「60年安保闘争」にどっぷりつかった第一次安保世代、国会議事堂侵入事件で東大生・樺美智子さんが亡くなった時も現場近くで警官隊と揉み合っていた。

安保闘争が終わると紙芝居の画面をめくるように、世の中がガラリと変わった。再軍備論争に明け暮れた岸信介内閣から経済重視の池田勇人内閣へ。スローガンは「所得倍増10カ年計画」。折から朝鮮戦争やベトナム戦争の特需景気もあり、経済は高度成長期へのエンジンがかかろうとしていた。

新聞記者として初めて配属されたのが旧大蔵省の記者クラブ。時の大蔵大臣は池田所得倍増計画のエンジンを財政・金融両面でフル展開させた“コンピューター付きブルドーザー”の異名をとる田中角栄だった。田中財政は税の自然増収で歳出を大盤振る舞いする一方、慎重居士の日銀の尻を叩いて金融をダブダブに緩和させた。

戦後十有余年、敗戦から復興を経て、新生日本は経済最優先の道を歩き始めていた。1959年の皇太子・美智子妃殿下のご成婚と、1964年東京オリンピックの開催は、そのファンファーレでもあった。日本は国際経済面でも、経済開発協力機構(OECD)加盟で先進国経済の仲間入りをした。アジアで初めて東京で開かれた国際通貨基金(IMF)・世銀総会では、IMF8条国に移行し、先進国並みの為替政策を採用し、通貨価値をも高めていった。

そうした制度・政策上の枠組みだけでなく、東京オリンピックの次には大阪で万博を開催することも決定。インフラ整備として東海道新幹線などの鉄道網、名神高速など道路網も整備され、大都会には相次いで国際ホテルが建設されていった。

取材の合間にピンポンに興じる

私はそうした池田内閣から佐藤内閣までの戦後日本の高度成長の歩みを、とくに財政・金融面から大蔵省クラブで伴走取材していたが、1964年の東京オリンピックというイベント取材にも関係したことがある。東京オリンピックで全社挙げての取材態勢が敷かれたが、経済部所属の私は社会部・遊軍に駆り出された。大学の第一語学がフランス語だったので、海外から参加するフランス系参加国の選手や観光客を対象にエピソードやこぼれ話を拾い集める“雑感”記者だったが――。

取材拠点は戦後未使用のまま放置されていた赤坂離宮・迎賓館。そこに日本オリンピック委員会(JOC)の事務局が入っていた。当時は迎賓館のどの部屋も空いていた。外国選手への取材はJOC担当者の仲介や紹介が必要で、だだっ広い記者控え室での待ち時間が退屈で、部屋に2台ある卓球台でピンポンに興ずることの方が多かった。そうした「忙中閑あり」も時代の雰囲気そのものだった。

以上、オリンピック取材経験をもっともらしく述べてきたが、実際の取材参加は開会式前日までの話。かなり前の段階で、開会式当日から1週間の長期休暇を申請、許されていた。理由は全くの私事。私の婚姻が事由だった。

入社2年後は、ちょうど新聞記者としての取材が面白くなってきた頃で、このまま記者を続け男子一生の仕事にしようと決意したばかり。同時に学生時代からのガールフレンドとの “永過ぎた春” にも別れを告げ、身を固めようと踏ん切りをつけたのだった。折からオリンピックが開かれる。主役はスポーツ部と社会部。経済部はヒマになる、この際に…という算段だったのである。

1946(昭和21)年、終戦の翌秋、旧満州から引き揚げてきて私は初めて日本を知った、と言ってよい。日本で生まれたが、父の仕事の関係で北朝鮮や満蒙の僻地を転々として育ったので、子供心にも日本は異郷。初めて見た仙台の実家の紅葉の美しさ、柿の実の甘さ、すべてが驚きだった。

“街” で学んだ少青年時代

子供とて、初めて見る日本の風物、習慣、何から何までが珍しい。大陸で身についたそうした好奇心、放浪癖から何でも見たい、知りたい、やってみたいの本能が祖父(新聞記者)や父(言語民俗学者フィールドワーカー)のDNAと相俟って私もジャーナリズムの道を歩むことになった。

大学入学のため上京したのが1956(昭和31)年、横浜の青線地帯(私娼窟)に下宿し予備校の教師をしながらの学生生活は、敗戦後の復興から成長へと移行する日本経済を“取材”する格好の舞台。アルバイト、学生運動、恋愛ごっこ…そこは学業以外の人生体験の場でもあった。

実は、私の場合、日本に引き揚げる前、難民生活を送っていた満州の港町・安東で1年半、闇市をさまよいタバコ売りをした時の辛酸体験が前提にある。窃盗、暴行、殺人、麻薬、売春…敗戦直後の混乱の巷をさまよう少年はすでに旧約聖書のソドムとゴモラ(人間悪徳)の世界を見て育っていたのである。                                                                                                                            

実家が貧しかったので横浜の伯父を頼って上京、大学時代は留年を含め5年間、横浜で家庭教師や予備校の講師のアルバイトで糊口を凌いだ。と、ある予備校で教えた女子高生の家庭教師をも引き受けることになったが、時事通信社に入社する際に進学はあきらめさせ、結婚を約束した。

1964年の東京五輪のことはよく覚えている。新婚旅行中もNHKを観て過ごしたようなものだ。体操の小野喬、遠藤幸雄、チェコのチャスラフスカ、鬼の大松に率いられた女子バレー・チーム、重量挙げの三宅義信、柔道の猪熊功、マラソンで優勝したエチオピアの “裸足” のアベベ、銅メダルの日本代表・円谷幸吉の力走とその後の自殺…今でも映画監督・市川崑のカメラワークや作曲家・古関裕而の行進曲とともに甦ってくる。

徒花に終わった「2020」

それらは冒頭に述べた戦後日本の高度成長の繁栄を象徴するものだった。やがて、高度成長からバブルの乱熟とその崩壊へ。戦前、自信過剰から無謀な戦争に突入、敗戦の反省から銃を捨ててはみたものの、今度はマネーだけに特化して突っ走った歪んだ国家像が…。真の幸せは生活文化の質的向上にある―と悟った時は遅かった。

爾後、オリンピックは原則4年おきに開催されてきたが、平成に入って石原慎太郎、安倍晋三、菅義偉ら政治家が “夢よもう一度” を政治利用しようとした時にコロナの「待った」が掛かったことはきわめて教訓的な出来事だった。宴が終わって振り返ってみると、同じ五輪・輪舞曲の主題でありながら、57年前はやはり時代が要請した大輪の花。それに比べ今回は実を結ばぬ小輪の徒花(あだばな)に思われてならない。もっとも、今回は57年前に比べ同時に開催されたパラリンピックの方が印象深かった。観客であるわれわれ老夫婦が最近、痛感している社会福祉充実の必要性の反映か。

バナー写真 : 東京五輪のマラソンの表彰式で、優勝のアベベとともに手を上げて観客に応える3位の円谷幸吉(時事、東京・国立競技場)

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