世界の娯楽を変えた「数独の父」鍜治真起氏の素顔

文化

日本発祥で世界に広まったパズル「数独」。海外でも「SUDOKU」と呼ばれ、世界中に愛好者がいる。数独の「生みの親」である鍜治真起氏が2021年8月に亡くなると、国内外から哀悼のメッセージが寄せられた。世界に大きな影響を与えた鍜治氏を最も身近で見つめ続けた元同僚で、日本数独協会代表理事の後藤好文氏がその素顔を語る。

後藤 好文 GOTŌ Yoshibumi

一般社団法人日本数独協会代表理事。1951年東京生まれ。1999年パズル制作会社、株式会社ニコリ入社。2005年より数独の普及のため欧米・アジア諸国を歴訪し、イベントや講演会を開催する。11年ニコリ副社長。15年日本数独協会を設立、理事に。17年ニコリ退社。17年岩手県大槌町にて第1回数独技能認定試験を実施。18年数独協会代表理事。全国各地で数独教室やイベントを実施して現在に至る。

高校の同級生から会社の同僚に

2021年8月10日、日本初のパズル雑誌『ニコリ』を創刊した名物編集者、鍜治真起氏(享年69)が胆管がんで亡くなると、世界中からお悔やみの声が寄せられた。

というのも彼は世界中に知られる「数独の父」。1984年、米国のパズル雑誌に掲載された“Number Place”を「数字は独身に限る」(略して数独)と名称を変えて日本で紹介したところ、それから21年の時を経て2005年、突如英国で大ブームに。その波は一気に世界中に広がった。

高校の同級生であり、1999年から株式会社「ニコリ」に加わった現・一般社団法人日本数独協会代表理事の後藤好文氏は、50年来の付き合いがある鍜治氏を次のように評する。

「人間的な魅力にあふれていて、どこに行ってもすぐ人気者になる。ただ、ひらめきで行動するところがある人なので、そろばん勘定ができない。できないというより、採算という概念がない人でしたね(笑)」

後藤好文 日本数独協会代表理事 撮影:nippon.com
後藤好文 日本数独協会代表理事 撮影:nippon.com

鍜治氏が80年、日本初のパズル雑誌を創刊した時も、後藤氏は親友として「やめておけ」と忠告した。だが、遊び感覚で始めた『ニコリ』誌の中で“知る人ぞ知るパズル”、数独は大きく花開くことになる。

読者に問題を作らせた独創性

前述したとおり、鍜治氏は数独の名付け親だが、発明者というわけではない。数独を考案したのは米国のパズルマニア、ハワード・ガンズという人物。彼は自らが考案したパズルを“Number Place”と命名した。ルールは数独と同じである。

「私もハワードさんのパズルを解いたことがありますが、すぐに飽きてしまった。易しすぎて退屈だったんです。当のハワードさんも12問ほど作ってやめてしまった。鍜治さんは、その“Number Place”を見つけて紹介したわけですが、彼のすごかったところは読者に問題を作ってもらったことだと思います」

パズル雑誌を立ち上げたとはいえ、鍜治氏はパズルマニアというわけではなかった。『パズル通信ニコリ』誌で通算11年編集長を務めたが、パズルそのものにタッチすることはなく、仕事といえば好きなことをエッセーに書くくらい。明るいうちから飲む、(麻雀を)打つ、(馬券を)買うの“享楽的な生活”を謳歌(おうか)していた。

だが、親はなくとも子は育つ。名付け親が遊んでいる間に、数独はみるみるうちに成長していった。

鍜治氏が立ち上げた『ニコリ』には、後続のパズル専門誌には見られない大きな特徴があった。それは読者参加型ということ。掲載されるパズルのほとんどが読者の投稿作品で、読者からパズルを買い取って掲載するという形になっていた。

旺盛な研究心、探求心を持つ日本のパズルマニアたちは、鍜治氏が紹介した数独にハマり、競うようにして問題を投稿。優れた作家をニコリが社員に抜擢(ばってき)したこともあり、数独は次第に洗練されたものになっていく。ヒントの数字が美しい点対象に配置されるようになったのも、『ニコリ』誌上での進化の一つである。

突如ロンドンで人気が爆発

数独が徐々に日本で知られ始めた1999年、ニコリ社に加わった後藤氏は社長の鍜治氏にこう持ちかけた。

「会社を大きくするために、海外にも打って出ましょうよ」

鍜治氏と言えば「老舗のまんじゅう屋のように、作った分が売れたら商売終わり」が口癖。潔いくらい商売っ気がない。だが、海外が好きなこともあって、鍜治氏は「それもアリかも」と思ったようだ。さっそく海外経験豊富な後藤氏と共に、『ニコリ』誌の多彩なパズルを海外メディアに売り込み始めた。

営業は苦戦続き。だが2004年の年末、二人はロンドンで数独が流行っているという情報をキャッチする。

調べてみると同年11月12日、英「タイムズ」紙に初めて掲載されたところからブームに火がついたとのこと。そして数独を売り込んだ人物の名前を聞いて、後藤氏は驚く。

ニュージーランド人のパズルマニア、ウェイン・グールド。たまたま日本の書店で手に入れた数独にハマり、問題を自動生成するプログラムを開発した人物だった。数独を育てたニコリ社に敬意を払い、コンタクトを取ってきたこともあり、後藤氏と鍜治氏はグールドのことを知っていたのだ。

彼が「タイムズ」紙への売り込みに成功したことで、数独は一気にブレイクしたのだった。

「どうやら英国ですごいことになっているらしい」

鍜治氏と後藤氏がロンドンに乗り込むと、想像をはるかに超えるブームが巻き起こっていた。

「英国では全国紙、地方紙のほとんどが数独を掲載していて、朝の通勤でも、今朝の数独解いたか? という文句が挨拶になるくらい。王室ネタ以外で、英国人が平和なネタでこんなに盛り上がったのは数独だけだ、なんて声も耳にしました」

英紙ガーディアンに掲載された数独パズル欄(撮影日:2005年5月15日) 時事
英紙ガーディアンに掲載された数独パズル欄(撮影日:2005年5月15日) 時事

英国では商標権取得に失敗

2004年の年末、ロンドンを訪問してブームを体感した二人は、翌年春に再びロンドンを訪れる。二人の脳裏には、ある思いがあった。

「すでに日本国内では数独の商標を取得していましたが、海外ではまだでした。英国で商標が取れたら、いい儲けになるかなと」

だが、思惑通りにはならなかった。数独は「もはや一般名詞である」と認識されるまでに、市民権を得てしまっていたからだ。

「私たちは、もう仕方がないとあきらめました。その後、多くの人に、儲け損ないましたね、と言われましたが、商標登録をしていたら偽物が出ないか目を光らせなければいけないですし、訴訟に忙殺されていたでしょう。20人そこそこのニコリ社では、とても手が回らない。やせ我慢はあると思いますが、鍜治さんは 、たくさんの人が数独を楽しんでくれたらそれでいいよ、と笑っていました」

数独が世界中に広まったのは、最初にロンドンで火がついたことが大きい。英国でヒットした歌が、英語文化圏の旧植民地を通じて世界に伝播(でんぱ)していくように、数独もまた旧植民地である米国、インド、豪州、南アフリカ、香港などで人気になり、そこからヨーロッパや中東に広がっていった。

各国で受けた熱烈歓迎

そして各国で数独のイベントや大会が行なわれるたびに、「数独の父」鍜治氏と後藤氏は招待され、熱烈な歓待を受けた。

「“数独の発明家”なんて紹介されるたびに、鍜治さんは、いえいえ、名前を付けただけです、と困惑していました。とにかくたくさんの国に行き、ものすごい数の取材を受けました。スペインでは1社20分で一日中取材をこなしました。道を歩いていると囲まれて、サインや握手をせがまれる。ある国でバーでお酒を飲んでいると、男の人から、ウチの女房が数独に夢中になって俺の相手をしなくなった、と冗談半分で言いがかりを付けられたこともあります。数独ブームが起きたとき、私たちは、こんなのは今だけ、声が掛かるうちに世界中を回ろう、と言っていました。でもブームは長続きして、ニコリが作った問題は米国、英国、トルコといった国々でものすごく売れました」

もちろん、日本でも数独はブームになった。

某月刊誌が読者アンケートに数独をつけたところ、通常よりもアンケートの返りがよくなり、読者調査にかけていた費用が100万円単位で浮いたと、鍜治氏は編集長に感謝されたという。

また、数独を掲載している全国紙では、大きな事件で数独が飛んだりすると、「今日はどうしたんだ」とクレームが来るという。

誰からも好かれる「人たらし」

本人が認めるように、鍜治氏は「数独の生みの親」ではなく、あくまでも「名付け親」に過ぎない。

米国のパズル誌に載った平易なパズルに目をつけた鍜治氏は、誰にも思いつかないユニークな名前を付け、採算度外視で始めた自社の雑誌『ニコリ』誌上で紹介する。同誌を支えるパズル愛好家たちに出会ったことで、数独は多彩で深みのあるパズルへと育っていく。

鍜治氏と共に世界を回った後藤氏には、忘れられない思い出がある。

晩年の鍜治真起氏(後藤氏提供)
晩年の鍜治真起氏(後藤氏提供)

「鍜治さんには不思議な魅力があって、一緒にいる人を楽しませることができる。2011年の東日本大震災の時、避難所で年配の人たちが数独を楽しんでいると聞いて、二人で出かけていきました。あの時も、すぐにお年寄りたちと仲良くなっていました。その場の空気を和ませるカリスマ性、誰からも愛されるアイドル性がある。そういうキャラクターの持ち主なんです」

出会ったのが小さなことに頓着せず、人生を謳歌する鍜治氏だったからこそ、数独は国境や世代を超えて愛されるようになったのだ。

バナー写真:ブラジル・サンパウロ市で行われた第1回数独ブラジル全国大会の会場を訪れた鍜治真起氏(2012年9月29日)AFP=時事

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