台湾で根を下ろした日本人シリーズ:「メイド・イン・タイワンとともにブラックホールの謎に迫る」天文学者・松下聡樹

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世界トップクラスにある台湾の電波天文学の研究と観測装置開発をけん引するのは、実は日本人研究者だ。台湾に拠点を移して19年。ブラックホール観測の世界的プロジェクトの台湾代表を務める松下聡樹氏の足跡をたどる。

松下 聡樹 MATSUSHITA Satoki

東京都出身。少年時代から天文に興味を持ち天文学者を志望。東北大学理学部卒。同大大学院修士課程、総合研究大学院大学博士課程修了。天文学博士。ハーバード・スミソニアン天文物理学センターでのポストドクターを経て、2003年より台湾の中央研究院天文及天文物理研究所に勤務し、現在は研究員。世界中の電波望遠鏡を結合させ、超長基線電波干渉計(VLBI)でブラックホールの姿を撮像・解析する国際研究グループ、イベント・ホライズン・テレスコープ(EHT)の台湾代表。

小学生からの夢だった天文学者

小学校3年から4年にかけての2年間、松下聡樹は物理学者である父親の仕事の関係でニューヨークで暮らした。松下が通った現地校では、理科は専門の教員が担当し、理科室には小さなプラネタリウムもあった。

「理科の授業は天文の話ばかりで、興味が尽きませんでした。1980年初めのこの時代は、無人惑星探索機ボイジャー1号、2号の活躍がちまたの話題をさらい、スペースシャトル1号機も打ち上げに成功した時期でした。その後、仙台の小学校に転校し、卒業文集には将来の夢は天文学者と書きました」

中学生になったある時、父親から仙台市天文台長の小坂由須人(おさか ゆすと)を紹介され、仙台天文同好会に同級生と参加するようになった。毎週土曜日の例会では、天文台閉館後の午後6時から翌朝の3時頃まで、月面や流星、星雲・星団などの観測に夢中になった。当時地球に接近し、一世を風靡(ふうび)したハレー彗星(すいせい)にも心を奪われた。時には天文台のプラネタリウムの床で寝袋にもぐって寝ることもあった。天文愛好家の大人たちに混じって、星に関する知識や望遠鏡操作の技術をここでじっくりと学んだ。

「ところが、理系以外の事にはあまり興味が湧かず、国語を筆頭に文系のセンター試験の必修科目は軒並み苦手でした。しかし、全ては天文学者になるためと一念発起し、大学受験に臨みました」

1年浪人して東北大学理学部天文学科に進学すると、電波天文学が専門の石附澄夫(いしづき すみお)助手(当時)に師事した。修士課程も東北大学大学院に進んだが、石附が長野県野辺山の国立天文台に異動となったのを機に、松下も野辺山に居を移した。

博士課程は総合研究大学院大学に所属し、そのまま野辺山に留まった。そこでは系外銀河(銀河系の外にある銀河)などを観測するとともに、電波干渉計(電波望遠鏡の一種。小型の電波望遠鏡を複数組み合わせて、単一では実現不可能な巨大な電波望遠鏡と等価な解像力を得る装置)の仕組み、実際の観測やトラブルシュートの知識や技術を徹底的に学んだ。研究だけではなく、観測装置にもめっぽう強くなった。

2000年から03年のポストドクター(大学院博士後期課程の修了後に就く任期付きの研究職ポジション)時代は、ハーバード・スミソニアン天文物理学センターに籍を置き、ハワイ島のマウナケア山に世界初のサブミリ波(1ミリ以下の波長)電波干渉計であるSMA(Submillimeter Array)の建設に関わった。SMAは口径6メートルの電波望遠鏡を8台つなげて一つの電波干渉計として観測する。

完成した装置を科学観測が可能な状態に仕立てるのが、専門研究と観測装置の双方に明るい松下の仕事だった。実はSMAの電波望遠鏡8台のうち2台は台湾製だった。松下と台湾との縁は意外にもハワイでつながった。

台湾からのオファーでチャンスをつかむ

台湾の電波天文学研究は、もともと世界からはかなり水をあけられていた。しかし、1990年代に中央研究院がSMAプロジェクトへの参加を表明すると、台湾のメーカーにSMAで使われる電波望遠鏡を発注したのだった。この時は米国側の設計図通りに作製するだけだったが、これで台湾はこの分野の世界最先端の技術を手に入れた。

一方、台湾では電波天文学分野の研究者が圧倒的に不足していた。SMAの立ち上げでの活躍が目覚しかった松下に白羽の矢が立ったのは、台湾側の差し迫った事情でもあった。

「研究者ポストや科学研究予算が頭打ちの日本よりも、この分野では伸び盛りで研究環境も整っている台湾からのオファーは、自分にとっては願ってもないチャンスと感じました。SMAの観測データの解析も、台湾の研究所であれば滞りなく行えます。台湾は同じアジアにあり、暮らしやすいことも魅力でした」

こうして、2003年から松下は台湾の国立総合研究機構である中央研究院天文及天文物理研究所のポストドクターとして迎えられた。ハーバード・スミソニアン天文物理学センターの指導教官だったポール・ホーも、時を同じくして同研究所所長に就任した。海を隔てた台北の研究所で、かつての上司と再会した松下は目を丸くした。台湾がいかにこの分野の人材確保に力を入れていたかが分かるだろう。

仮想巨大電波望遠鏡プロジェクトの台湾代表に就任

2000年代後半になると、SMAの次世代型の電波干渉計ALMA(Atacama Large Millimeter/submillimeter Array)が、標高5000メートルに位置するチリのアタカマ砂漠に設置されることとなった。米・欧・日の共同プロジェクトだったが、台湾も米国と日本にそれぞれ5%予算を出資するマイナー・パートナーとして、その建設に関わった。

ALMAは口径12メートルの電波望遠鏡50台から構成される。これはSMAの25倍強の規模に当たる。松下は2010年、今度はチリに飛んだ。16台の電波望遠鏡で干渉実験に成功し、1年半で最初の科学観測が可能となるまで仕上げた。

口径12メートルのALMAの電波望遠鏡と松下聡樹氏
口径12メートルのALMAの電波望遠鏡と松下聡樹氏

続いて12年には、超長基線干渉計VLBI(Very Long Baseline Interferometer)の運用に向け、グリーンランド望遠鏡(Greenland Telescope、以下GLT)の設置に携わることとなった。

観測のためにGLTの鏡面についた雪を落とす松下聡樹氏
観測のためにGLTの鏡面についた雪を落とす松下聡樹氏

「基線」とは電波干渉計を構成する電波望遠鏡同士の距離を指し、基線が長いほど望遠鏡の解像度が上がる。ハワイのSMAの最長基線は約500メートル、チリのALMAは約16キロメートルである。

一方、今回グリーンランドに新たに設置されるGLTは、SMA、ALMAを含む世界各地の電波望遠鏡とネットワーク化され、VLBIとして運用することで、巨大な仮想電波望遠鏡の一翼を担うこととなる。この仮想電波望遠鏡の口径に相当する「基線」の距離が、最長で約9000キロメートルにも達することから「超長基線」と呼ばれている。この距離は地球の直径(1万2740キロメートル)の70%に相当する。

そして、この仮想巨大電波望遠鏡を用いて、射手座AスターやM87といったブラックホールを撮像し、その謎の解明を推進しているのが、国際研究グループ、イベント・ホライズン・テレスコープ(Event Horizon Telescope、以下「EHT」と略称)である。EHTは世界各地の約350人のメンバーから構成され、台湾からは約50人が参加し、松下はその代表を務めている。

「このプロジェクトの成功は、地球サイズの巨大な電波望遠鏡ができることを意味します。解像度も飛躍的に上がり、これまで謎に包まれていたブラックホールの境界面の解明にも、飛躍的に近づくこととなります」

こうして17年12月に、松下とその同僚らはGLTが仮設置されたグリーンランドの米軍のトゥーレ空軍基地に派遣された。マイナス30度の極寒の地にありながら、松下らは2カ月という異例の速さでGLTを科学観測可能な状態に仕上げた。超寒冷地仕様の電波望遠鏡の開発にも、約20年にわたって蓄積された台湾の技術が生かされていたことは特筆しておこう。

将来、GLTを移設する予定のグリーンランド山頂基地を訪れた時の松下聡樹氏
将来、GLTを移設する予定のグリーンランド山頂基地を訪れた時の松下聡樹氏

19年目を迎えた台湾での研究生活

それから1年半後の2019年4月10日は、天文物理学にとって歴史的な1日となった。VLBIの技術を使って集められた膨大なデータを解析することにより、EHTは史上初めてM87巨大ブラックホールのシャドウの撮像に成功し、その画像を公表したのだ。東京、台北、上海、ワシントンDC、ブリュッセル、サンティアゴの世界6カ所で同時記者会見を開くと、このニュースは瞬く間に世界中を駆け巡った。SMA、ALMA、GLTといった新規計画の立ち上げを請け負い続けてきた松下も、この快挙の主要な功労者の一人だった。

「写真上でオレンジ色に見えるブラックホールの縁の部分は、高熱のプラズマを可視化したもの。ブラックホール境界面と共に、プラズマがブラックホールの中に落ち込んでいる成分と、磁場エネルギーによって外に向かって放出されている成分があると考えられています。GLTをグリーンランド山頂に移設して解像度を上げることで、これらを空間的に分解し、研究することが次の課題です」

国際共同研究プロジェクトEHTが史上初めて撮影に成功したブラックホールの映像と並ぶ松下聡樹氏
国際共同研究プロジェクトEHTが史上初めて撮影に成功したブラックホールの映像と並ぶ松下聡樹氏

松下の台湾での研究生活も19年目を迎えた。台湾の電波天文学の研究とそれを支える技術の両輪は、共に世界でもトップクラスだ。松下はより多くの台湾の人々にこの事実を知ってもらいたいと願っている。と同時に、台湾の税金を使っている研究者の一人として、自分たちの研究がどのように台湾の社会に還元できるのか、その仕組みも常に考え続けていきたいと言う。

「台湾のメーカーが観測装置の製作を10年、20年単位で続けてくれたことによって、自分たちの研究は支えられてきました。一方、台湾のメーカーにとっても、毎年1億台湾元(約4億円)単位のビジネスにつながっただけではなく、手元に技術が蓄積されたことで、メイド・イン・タイワンの底力を世界に示すことができました。自分たちの研究結果だけではなく、実はこのような形で台湾社会にその成果は還元されているのです」

松下たちのプロジェクトは、次にどんな驚きを私たちにもたらしてくれるのだろう。「苦労も楽しさ」と言い切る松下の天文談義の続編を、かつての天文少年だった筆者も楽しみにしている。(敬称略)

写真は全て松下聡樹氏提供。

本シリーズは今回で終了します。

バナー写真=松下聡樹氏の右側に見える小さな電波望遠鏡がSMA。ハワイ島のマウナケア山頂に位置する。これらのうち、2台が台湾製。

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