世界から愛されたプリンシパル吉田都の新たなる挑戦

People 文化

英国ロイヤルバレエのプリンシパル(最高位ダンサー)を長く務めるなどトップに君臨した吉田都は、世界にその名を知られたバレリーナ。その繊細かつ技巧に優れた、表現力豊かな踊りで多くのバレエファンを魅了した。2019年に惜しまれながら引退したが、その翌年、吉田は新国立劇場の舞踊芸術監督に就任、新たなスタートを切った。

吉田 都 YOSHIDA Miyako

新国立劇場舞踊芸術監督。1983年、ローザンヌ国際バレエコンクールでローザンヌ賞受賞。同年、英国ロイヤルバレエ学校に留学。84年、サドラーズウェルズ・ロイヤルバレエ(現バーミンガム・ロイヤルバレエ)へ入団。88年にプリンシパル昇格。95年に英国ロイヤルバレエへプリンシパルとして移籍、2010年に退団するまで英国で計22年にわたり最高位プリンシパルを務める。日本国内では1997年の新国立劇場開場記念公演『眠れる森の美女』をはじめ、数多くの公演に主演。ローザンヌ国際バレエコンクール審査員を務める他、後進の育成にも力を注いでいる。04年「ユネスコ平和芸術家」、12年には国連UNHCR協会国連難民親善アーティストに任命。06年英国最優秀女性ダンサー賞、07年紫綬褒章並びに大英帝国勲章(OBE)、17年文化功労者など受賞・表彰多数。

踊ること以上にすべてを注げるもの

「踊ること以上に情熱を持てるものは、自分の人生には現れない。子どもの頃からそう思ってきました。でも今、もしかすると自分が踊る以上に、すべてを注げるものに出会えたのかもしれません」

世界三大バレエ団の一つ、英国ロイヤルバレエのプリンシパルを15年間務めるなど、長年にわたり舞踊シーンのトップを走り続けたバレリーナ、吉田都。誰よりもストイックに身体と技術を磨き続け、正確無比でありながらほろりとくる叙情性をたたえた踊りで世界に愛された彼女は今、自身のバレエ人生の第2幕を歩み始めている。

2019年8月に現役を引退し、20年9月、新国立劇場バレエ団の芸術監督(新国立劇場舞踊芸術監督)に就任した。

「ずっと踊り続けたいと思う一方で、身体的にはすでに限界を超えていました。また、日本のバレエ界の現状を見るにつけ、『何とかしなくては』という気持ちが芽生えてもいました。新国立劇場から『舞踊芸術監督に』とオファーをいただいたのは、これ以上ないタイミングだったと感謝しています」

パンデミックの嵐の中での幕開け

その新たな挑戦はしかし、パンデミックの嵐の中で幕を開けることになった。吉田は芸術監督としての最初のシーズンを、バレエ団初演となるピーター・ライト版『白鳥の湖』で華やかにスタートさせる予定だった。古典バレエの不朽の名作でありながらドラマティックな演出で知られるライト版――それは「新国立劇場バレエ団は、常にトップレベルの古典バレエを上演するカンパニーでありたい。そして今後はダンサーの表現力の醸成に力を入れたい」という、新監督のヴィジョンを明確に示した選択だった。

ところが、リハーサルなど準備を本格化せねばならない、まさにそのタイミングで緊急事態宣言が発出。劇場は閉鎖され、ダンサーたちは“ステイホーム”を強いられ、招聘(しょうへい)するはずだった海外の指導者たちも来日できなくなり、吉田はさっそく演目変更を余儀なくされた。

「芸術監督という仕事の大変さや責任の重さは覚悟していましたけれど、最大の困難は想像もしなかったところからやってきました。どれだけ万全に準備を整えたつもりでも、想定外のことが次々と起こってしまう。公演が中止になり、チケットの払い戻しに追われ、2020年度の新国立劇場の入場料収入は前年度に比べ約13億円減少。そのため芸術的な見地からすればぜひ上演すべき作品も、予算的に見送らざるを得ないという事態も起こっています」

それでも――「逆にコロナ禍だったからこそサポートしていただけたこともたくさんあって、新任の私にはそれが大きな助けになりました」。

吉田都新国立劇場舞踊芸術監督 撮影:上平庸文
吉田都 新国立劇場舞踊芸術監督 撮影:上平庸文

例えば、上述の『白鳥の湖』に代わってシーズン開幕公演となった『ドン・キホーテ』では、本番の舞台やそこに至るまでのリハーサルの様子をNHKエンタープライズが配信するという企画が実現した。

「あの配信も、『コロナ禍でダメージを受けている劇場を何とかサポートしたい』というお気持ちからオファーしていただけたことでした。また、バレエファン、新国立劇場ファンのお客様からも、これまで以上にたくさんの温かいメッセージや寄付が寄せられて。そうしたサポートのおかげで、私たちは通常時であれば考えられなかったような新しいチャレンジをすることができたのです」

ツイッターのトレンド入りした無観客ライブ配信

実際、このコロナ下での新国立劇場バレエ団の動きは、どこよりも迅速で大胆だった。“こんな時だからこそ”の企画を次々と展開し、それらはファンを大いに驚かせ、喜ばせた。とくに度肝を抜かれたのは2021年5月のローラン・プティ版『コッペリア』公演だ。

ゴールデンウィーク期間中の人流抑制を目的とした緊急事態宣言および政府からの要請に応じて、いったんは全公演中止を発表。ところがなんと、予定されていた全4キャストの公演を4日間にわたり完全無観客上演して、すべてを無料でライブ配信したのである。この反響はバレエファン・舞台芸術ファンに止まらない広がりを見せ、4日間合計の同時視聴者数は16万7000人超という異例の数字を記録。配信時には「#コッペリア」がツイッターのトレンドに複数回入るなど、SNSでも大いに盛り上がった。

「新国立劇場がやるべきなのは、こういうことではないか」――この全日無料配信などの試みを通して、吉田はそう確信したという。

「みなさまが大変な思いをしている時にこそ、日常の不安を忘れられるような時間、喜んでいただける舞台を提供する。それが私たちの役割なのだと、あらためて視界がクリアになった気がします」

ダンサーへのサポート体制を強化

コロナ禍という非常事態は、1年目にしてスピーディかつ柔軟に決断する吉田監督の力強いリーダーシップを印象づけた。しかし彼女は同時に、もっと基礎的な部分にも改革のメスを入れ始めている。例えば「ダンサーの身体のケアをサポートする体制作り」もその一つだ。

バレエダンサーはアーティストであると同時にアスリートでもある。身体を極限まで使い切ることで美や感動を生み出していく彼らの職業は、常に負傷と隣り合わせにある。そのため海外のバレエ団では、専門の施設やトレーナー、フィジカルセラピストを備えるなど、負傷時のケアや舞台復帰のためのリハビリをサポートする体制を整えているのが普通である。ところが、その“普通”を日本のほとんどの団体は備えられずにいるのが現実で、それは新国立劇場ですら例外ではなかった。

「故障時のケアやリハビリ、舞台を休むか休まないかの判断も、これまではすべて『ダンサー任せ』になっていました。すると多くのダンサーは踊りたい一心で、けがを隠したり、無理をして舞台に立ったりしてしまう。しかし何より重要なのは、身体の状態を正確に把握して適切に判断し、休むべきならしっかり休むことです」

それが結果的にはスムーズな復帰につながり、長く踊り続けるためにも大切なことだと言う。

「現在は、何かあればすぐに病院と連携できるホットラインが整い、地方公演にはドクターが随行してくださるようにもなったので、やはり安心感が違います。また、ダンサーとスタッフ対象の医療セミナーを継続的に行ったり、体幹を鍛えバランスを整えるトレーニングを導入したりもしています」

新国立劇場バレエ団のプリンシパル米沢唯(右)に指導する吉田監督 撮影:鹿摩隆司
新国立劇場バレエ団のプリンシパル米沢唯(右)に指導する吉田監督 撮影:鹿摩隆司

一方、改善が必要な重要課題でありながら、なかなか進まないのが「リハーサルスタジオの増設」だ。彼女は広々とした劇場を見回しながら、ため息混じりにこう語る。「これだけスペースがあるのに、リハーサルできるスタジオが二つしかないのです」

「若手を育てるためにも新しいキャストをどんどん登用したいのに、スタジオが足りないためにリハーサル時間が取れず、結局その役をすでに踊ったことのあるダンサーに任せるしかない、という状況が続いています。あと一つでも二つでもスタジオがあれば、より多くのダンサーにチャンスを与え、みっちりリハーサルをしてあげることができるのです。それに値する若いダンサーはたくさんいるのに……残念でなりません」

それには莫大な費用がかかり、解決の糸口を見つけるのは困難だ。それでも「どんなに時間がかかっても、諦めずに探っていくつもり」と言う。

「例えば英国ロイヤルバレエでも、サドラーズ・ウェルズ・バレエ団(現バーミンガム・ロイヤルバレエ)でも、最初からあれだけの設備が整っていたわけではありません。私が英国にいた約30年の間に、大規模な改修工事や移転などが行われて、少しずつ理想的な環境に整えられていきました。ですから私も、これから20年、30年かけて変えていくつもりで取り組んでいます。自分が芸術監督であるうちには間に合わないかもしれません。それでも、少しずつでもそこに近づいていきたいと思っています」

観客を熱狂させた『ライモンダ』公演

吉田都芸術監督1年目のシーズンを締めくくった、2021年6月の『ライモンダ』公演。その舞台を観たバレエファンは息をのんだ。主役から群舞に至るまで、一人ひとりが素晴らしい精度と集中力で、真心のこもったステップやポーズを積み上げていく。これぞクラシック・バレエの粋。観客は文字通り割れんばかりの拍手でダンサーたちをたたえた。

「あの『ライモンダ』の最終舞台稽古を観た時、『ああ、この公演はきっとうまくいく』と思いました。なぜならばダンサーを指導するスタッフたちの姿勢が、大きく変わっていたからです。バレエで大切なのは、基本のポジションやステップを一つひとつ正確に行うこと。そしてそれを指導者が根気強く、最後の最後まで諦めずに、ダンサーたちに注意し続けることです。今回の『ライモンダ』の成功は、そうしたスタッフたちの指導と、その熱意に真摯(しんし)に応えたダンサーたちの力だったと思います。私たちのバレエ団は、こんなにも力強く成長している。そう感じられたことが、本当にうれしかった」

この9月から、吉田都監督の“2年目”が始まった。開幕作品は、一年越しに実現するライト版『白鳥の湖』。新シーズンのスタートにあたり、これから新国立劇場バレエ団をどんなカンパニーにしていきたいかと尋ねてみたところ、吉田からは「国民のみなさまに、『これは私たちのバレエ団だ』と思ってもらえる存在にしていきたい」と返ってきた。

「ダンサーたちには、いつもこう伝えています。ただ一回の公演でもお客様をがっかりさせてしまったら、その方はもう二度と劇場には足を運んでくださらない。だから一回一回の舞台が勝負であり、どんな時も本物の舞台をお見せするのが私たちの務めなのだと。コロナ禍の終息はまだ見通せませんが、私たちはただ毎公演、今できるベストを尽くす。何があろうとも歩みを止めずに進んでいく。新たなシーズンも、それをみんなで積み重ねていきたいと思います」

バナー写真:カリスマ性のある指導で新国立劇場バレエ団を変革しつつある吉田都監督   撮影:上平庸文

バレエ 吉田都 新国立劇場 新国立劇場バレエ団 プリンシパル