「二刀流」大谷翔平の源流(上):伝説を育んだ父との「野球ノート」

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「二刀流」を引っ提げて大リーグに渡ってから4年、過去3年は故障や手術、リハビリもあって、大谷翔平はシーズンを通して二刀流を貫くことができなかった。しかし、2021年はレギュラーシーズンの開幕から終盤まで投打に全開、打っては46本塁打、投げては9勝と、ついに大リーグでも二刀流を完遂した。「野球の神様」ベーブ・ルースを生んだ米国人をも驚愕させた、大谷の傑出した才能はどのようにして形成されたのか。3回にわたって辿るその源流と軌跡。

両親はともに元アスリート

東京から約2時間半。東北新幹線の「やまびこ」で北へ向かうと、岩手県の最南端にある一関市に着く。そこからさらに東北本線の下り列車に乗り換え、車窓に広がる田園風景を眺めて約30分揺られると、岩手県の内陸に位置する水沢駅に到着する。大谷翔平の実家に近い、その場所に立つと、夏ともなれば方々から虫の音が聞こえてくる。夜風とともに流れる音色は、いつの時代も心に安らぎを与えてくれる。

父・徹さん、母・加代子さんの記憶によれば、「猛暑日が続いた年」、1994年の7月の夜、大谷家に末っ子がやってきた。次男坊の翔平が水沢市(現・奥州市)の平間産婦人科で産声を上げる。3400グラムの新生児だった。かつて、当時の記憶を辿りながら母が語ったことがある。

「親の私にしてみれば、普通(の体格)の子が生まれてきたという感じでしたね。私自身は三姉妹で、3人とも生まれた時は3000グラムの後半。今は私と妹が同じぐらいの身長、姉も私より2センチ低いぐらいで、3人ともに身長が170センチ前後あります。そんな私の子供ですから、もっと大きい子が生まれると思っていたんですけど、意外と普通でしたね。それでも、翔平もある程度の身長まで成長するとは思っていました」

そうほほ笑む母と、身長182センチの父のDNAを受け継いだ末っ子は、生後11カ月ほどで歩き始めた。大きく成長することを宿命づけられた翔平がスポーツと出会い、その道を歩み続けたいと思うことは自然の流れだったのかもしれない。両親はともに、若い頃にはアスリートとしての人生を歩んだ。母は言う。

「私がバドミントンをやっていたので、はじめは練習日に翔平を一緒に連れていって遊ばせていました。野球での投げたり、打ったりする動きはバドミントンのスイングと似ている部分があるのか、翔平は最初から上手にバドミントンをやっていましたね。特別に私が教えたわけでもないのに、自然とできていました」

花巻東高校卒業式に参列後、報道陣の質問に笑顔で答える日本ハム大谷翔平の父徹さん(左)と母加代子さん=2013年3月2日 日刊スポーツ/アフロ
花巻東高校卒業式に参列後、報道陣の質問に笑顔で答える日本ハム(当時)大谷翔平の父徹さん(左)と母加代子さん=2013年3月2日 日刊スポーツ/アフロ

父が監督を務めるリトルリーグでプレー

翔平自身も「バドミントンがその後の野球に役立ったかどうかは分からない」と言いつつも、「もともと体を動かすことは好きでしたし、子供の頃にいろんなスポーツや遊びをやれたことはよかったと思います」と、自らの原風景を回想してくれたことがある。幼稚園の年長から小学校5年生までスクール通いをしていた水泳もまた、翔平少年にとっては体を動かす楽しみの一つだった。

野球を始めてから翔平は、その肩、肘や肩甲骨周りのやわらかさに注目されていくのだが、少年時代のバドミントンや水泳がやわらかさを生み出す一つの要因となったのだろうか。関東の社会人野球チームでプレーした経験を持つ父は言う。

「水泳は体全体を使うスポーツなので、関節のやわらかさや肩の可動域などに関しては影響があったと思います。まあ、もともと翔平の体が硬いと思ったことはなくて、ボールを持ってもバットを持っても、どちらかというとはじめから“やわらかい”プレイスタイルだったと思います」

そんな末っ子が野球チームに入ったのは、小学3年生に上がる直前だった。2年生の秋頃、地元にある硬式リトルリーグのチーム体験会へ行ったのがきっかけだ。ただ、翔平にとっての「野球の原点」は、父とのキャッチボール。チームに所属する前から、息子と父は白球を通して会話をしたものだった。

父は後にリトルリーグチームの監督を務め、翔平が水沢南中時代に所属した、一関市にあるシニアリーグのチームではコーチを務めた。翔平にとって、父は指導者でもあり続けた。選手と指導者の関係でもあった当時のことを、翔平はこう振り返ったことがある。

「父親は中学まではずっと監督やコーチだったので、グラウンドで接している時間のほうが長かったですね。監督やコーチはチーム全体を見ないといけないですし、息子だからといって特別扱いするわけにもいかない。だから、僕も父親という観点ではあまり見ていなかったですね」

大谷翔平のリトルリーグ時代 @LittleLeagueのTwitterより

その頃から翔平は自分を客観視し、律する性格を持ち合わせていた。

「僕が監督になったとしても、同い歳ぐらいの子が自分の息子と同じ実力だったら、息子ではない、違う子を試合で使わないといけないと思います。それは当たり前のことというか。だから、息子である自分が試合に出るためには、圧倒的な実力がなければいけない。チームのみんなに納得してもらえる実力がなければいけない。まだ小さかったですけど、それは僕にも分かりました。だから、ちゃんとやらなきゃいけないという思いは、ずっと持ち続けていました」

周囲を驚かせた打球の飛距離と奪三振数

岩手県奥州市と胆沢(いさわ)郡金ケ崎町(かねがさきちょう)の境界には、一級河川の胆沢川が流れる。小学生だった翔平は、その河川敷にあるグラウンドで何度となく打球を川へ運んだ。細身ながらボールを遠くへ飛ばす技術に、チームメイトはもちろん周囲の大人たちも驚いたという。

さらに、リトルリーグ最後の年には、6イニング制で行われた東北大会決勝で17奪三振という快投を見せる。翔平少年の実力を語るエピソードは数知れず。ただ、その背景にあった子供ながらの日々の努力を見逃してはならない。監督である父親に認められたい、周囲の期待に応えたい。常にそういう思いを抱きながら、翔平少年は「圧倒的な実力」を追い求めた。

息子と父の関係は、キャンパスノートでもつながっていた。表紙に「野球ノート」と記されたミニサイズのノートは、二人だけの野球における交換日記のようなものだった。父の回想だ。

「小学校5年生ぐらいまで続けましたので、2~3冊にはなったと思います。そのノートには、『今日はこういうプレーができた』『3回までは良いピッチングができた』、あるいは『高めのボール球に手を出した』『ボール球を打ってフライを上げた』。そういった試合での良かったことや悪かったことなどを書かせていました」

それにはこんな狙いがあった。

「そこで大切なのは、悪かった時に次に何をすれば課題を克服できるのかを考えて行動に移すことだと思っていました。試合になれば、エラーや三振はつきものです。その反省から、自分がどういう取り組みをしていくのか。それらを言葉で書き残すことによって、やるべきことを頭に入れてほしかったんです。つまりは、練習や試合を通しながら日々の意識付けをしっかりとしてほしかった。野球ノートを始めたきっかけは、そこにありました」

野球ノートに綴られた父のメッセージ

息子と父を結ぶノートには、多くのページに父のこんな言葉が書き込まれている。

一つ目は、「大きな声を出して、元気よくプレーする」

ただやみくもに声を出すのではない。選手間でアウトカウントやストライクカウント、あるいは各打者の打球傾向を大きな声で確認し合う。そして、元気にプレーする中で、チームメイトとのコミュニケーションを大事にしてほしいという思いが込められていた。

二つ目は、「キャッチボールを一生懸命に練習する」。

肩を温めるだけのキャッチボールではなく、指にかかった縦回転のスピンが効いたボールを自分が意図する所に投げられるようにする。つまりは、キャッチボールの段階から丁寧に、そして意識を高く持って投げることを求めた。

三つ目は、「一生懸命に走る」。

野球は走るスポーツでもある。力を抜かずに最後まで全力で走ることの大切さを伝えた。

「野球をやっている以上は、この三つのことを大事にしながら進んでほしい。そういう思いを込めてノートに書き続けました」

そんな父の思いは今でも息子の脳裏に刻みこまれている。

「父親の教えは基本的なものですが、今でも覚えています。それは、いつ、どのステージに行っても、言われ続けることだと思います。特に全力疾走は、そのこと自体に意味がありますけど、その取り組む姿勢にも大きな意味合いがあると思っています」

メジャーリーグを席巻する大谷翔平には、投げて打つ、そしてそれらの準備、さらに走ることでも常に「全力」を貫く姿がある。それは少年時代に父から送られたメッセージを受け止め、真摯(しんし)に野球に取り組んできたことと、決して無関係ではないだろう。

バナー写真:ついにMLBのシーズンを通して二刀流を完遂し、全米に衝撃を与えた大谷翔平 時事

以下、「二刀流」大谷翔平の源流(中):謙虚な努力家を生んだ伸びやかな環境に続く。

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