「二刀流」大谷翔平の源流(中):謙虚な努力家を生んだ伸びやかな環境

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主砲マイク・トラウトをはじめ、米大リーグ(MLB)・エンゼルスのチームメイトの誰からも愛されるだけでなく、他チームの選手からも気さくに声をかけられるなど、「愛されキャラ」も注目を集める大谷翔平。謙虚で大らか、常に精進を怠らず全力でプレーする優れた人間性は、どのように形成されたのか。

誠実さを育んだ広大で閉じられた世界

本州最大の面積を誇る岩手という地で家族と過ごした時間は、大谷翔平にとってかけがえのないものだった。風光明媚(めいび)な田舎で生まれ育ったことは、彼の真っすぐな性格と何かに向かって突き進むエネルギー、つまりは彼の人格形成と歩みに深く影響したと言えるかもしれない。

岩手での時間は楽しく、少年時代はその環境で穏やかな日々を過ごした。野球に関しては「おそらく、そういう環境のほうが性に合っていたと思う」と語り、翔平はこう言葉を付け加える。

「たとえば関東や関西などには、厳しい指導者の下で統率の取れたチーム、言わば高校野球の強豪校みたいなものが少年野球の年代からある。だからこそ強いんだろうなとは思うんですけど、個人的には、子供の頃に楽しく、のんびりと野球ができたことはよかったと思っています。楽しくできたおかげで、一回も野球を嫌いになることはなかったですから」

地元の水沢南中学校に通い、実家からほど近い一関市にあるリトルシニアチームに所属していた頃は、自らの力量を客観的に推し量る物差しは限られたものだった。チーム内や岩手県内といった小さな世界が、翔平にとっての唯一の基準だった。

試合となれば活躍する、少なからず自信も芽生える。ただ、大きな世界、つまりは日本全国という視点で考えた時、それらの成長がどれだけのものなのか、全国で通用する実力なのか、翔平自身に確かな判断材料はなかった。

自らの目ではうかがいしれない、遠い世界があった。だが、そうした地平をすべて見渡しきれない環境が逆によかった。若き俊才が陥りやすい“過信”が芽生えて、翔平の成長を妨げることはなかった。「野球が楽しい」という感覚が土台となりながら、どんな時でも謙虚に「まだまだやるべきことがある」という思いがふつふつとわき上がった。野球へのモチベーションを常に保つことができた。彼はこんな言葉を残したことがある。

「中学までは、自分はあまり大したことのない選手なんだろうなと思っていました。全国にどれだけすごい選手がいるのかも分からなかったですし。だから、『もっとうまくなりたい』と思ってやっていたところはありましたね」

ワクワク感と向上心

それゆえ、毎日が新鮮だった。知らないものや、見たことがないものに心が躍った。さらに言葉を継ぐ。

「知らない所でやる時はワクワクしますね。プロ野球の世界に入る時もそうでした。もっともっと自分よりすごい選手がいるんだろうなと思って、ワクワクしたのを覚えています。知らない場所に行ってみないと、自分の実力が分からないことがあります。自分のイメージしていたものよりも低いのか、高いのか。それは実際にやってみないと分からない」

自らを「高過ぎるところを想像する性格」だと話す翔平は、常に未来の自分を見据えて練習を重ねる。試合で課題が見つかれば、そのマイナス要素をプラスに変えようと励む。反省して試す。さらに課題と向き合い、自らを磨く。いつだって、その繰り返しだ。

食事にしても睡眠にしても、24時間という限りのある一日の時間を野球のために惜しみなく費やす姿は、メジャーリーガーとなった今も変わらない。ワクワクしながら、楽しい感覚もありながら、歩みを止めない。そこにあるのは「圧倒的な向上心」だ。翔平の根幹にあるその感覚は、岩手で生まれ育った来歴と無関係ではないような気がしてならない。

居心地の良い家庭が真っ直ぐな人間性を培った

彼の純粋で真っすぐな性格、透き通ったガラスに覆われているような、曇りのない度量の大きな人格が形成された源流もまた、少年時代の環境にある。両親の下で育まれた思考と感性は、自然と身についていったものだ。

両親共に「特別なことは何もしていないですよ」と笑うように、大谷家の教育方針や家庭内における独自のルールといったものは格別存在しなかった。父の徹さんは、かつてのリビングの風景を思い浮かべながら、こんな話をしてくれたことがある。

「これといったしつけみたいなものはありませんでした。ごくごく普通でした。私たちが『おはようございます』『おやすみなさい』を言う。あるいは、自分が食べたものは自分で片づける。そんなごく当たり前の普通のことを親が率先してやれば、その姿を子供たちは見て自然とやるようになるのかなあとは思っていましたけど、思い当たるのはそれぐらいですね」

思春期を迎えた中学生の頃によくある、いわゆる反抗期というものが翔平にはなかったと教えてくれるのは、母の加代子さんだ。

「反抗期という反抗期はなかったような気がします。訳もなく反抗したり、態度が悪かったということは特になかったと思います。それは翔平だけでなく、子供たち三人ともそうでしたね。それぞれが自分の部屋にこもることもありませんでした。家族みんながものすごく仲がいいというわけでもなく、家にはテレビが1台しかなかったので、なんとなくみんなが同じ場所に集まって一緒にテレビを観たり、ゆっくり過ごしたり。そんな環境でしたね」

母の日に球場の電光掲示板に映し出された、少年時代のエンゼルス・大谷翔平と母・加代子さんの写真=2021年5月9日、エンゼル・スタジアム 時事
母の日に球場の電光掲示板に映し出された、少年時代のエンゼルス・大谷翔平と母・加代子さんの写真=2021年5月9日、エンゼル・スタジアム 時事

家族間にある風通しの良さが、翔平の人格形成に深く影響したと言える。いつでも両親は、末っ子である翔平を温かく見守った。どんな親にとっても、わが子というのは無条件で愛せる尊い存在だ。翔平の母もまた、三人の子供たちはそれぞれ「いつになっても可愛いものですよ」と言う。そして、こう言葉を付け加える。

「私もいろいろと子供たちには言います。でも子供って、やっぱり可愛いものなんです。何かをしてほしいと言われると、親としてはその期待に応えてあげたくなっちゃう。翔平に対しても、何かを聞かれたら、それに対して一生懸命に調べてあげたいと思っちゃうんですよね」

決して過保護というわけではない。あらゆる場面で「決断」は、決まって子供に委ねた。あくまでも子供の意思を尊重して、時にはそっと手を差し伸べながら、両親は愛情を持って見守り続けた。

コミュニケーションに腐心した両親の思い

母は翔平が小学校に入学したのと同時にパートタイムの仕事を始めた。子育てに少しだけ余裕が出てきた頃だ。それでも、子供たちに向けられる思いや視線はなんら変わらず、親子の時間を大切にした。

「翔平が幼稚園の時までは内職みたいなことをやっていました。子供との時間が欲しかったですからね。パートの仕事を始めてから外に出かけるようになっても、子供たちとのコミュニケーションは大切にしました。職場にお願いして、土日はお休みをもらったり。平日は子供が小学校から帰ってきたら、私のところに電話をさせたりもしましたね。『ただいま。今日のおやつは何?』みたいな話をしながら、そこでちょっとしたコミュニケーションを取る感じでした」

家族で食事を取る時も、食卓に流れる親子間の空気を大事にしたという。

「とにかく楽しい雰囲気で、できるだけ家族みんなで食べる。平日も、お父さんが仕事から帰るのを待って、みんなで夕飯を取ったり。お休みの日には、ホットプレートみたいなもので、家族みんなで楽しくワイワイと食べる」

今ではメジャーリーガーの中でも体格の良さが際立つ大谷だが、中学までは痩せ細っていたのだという。

「食べて鍛えて、今でこそ立派な体になりましたけど、高校に入る前までの翔平はガリガリで、食べ物の好き嫌いはそんなになかったんですが、食べる量が少なかったんです。だから、家族でワイワイと食べれば、少しは食べる量が増えるのかなあという思いもありました」

母はそう言って、家族だんらんの日々を思い浮かべる。

広大な大地、そこに流れる春夏秋冬の風に触れながら、翔平は若葉のようにみずみずしく伸びやかに少年時代を過ごした。そして、そこにあった両親の深い愛情。和気あいあいとした多くの時間を家族と過ごす中で、末っ子は温かく見守られながら健やかに成長していった。

大谷翔平の源流を辿れば、やはり生まれ育った自然豊かな岩手の地にたどり着くのだ。

バナー写真:試合前、チームメイトと談笑し、笑顔を見せるエンゼルスの大谷翔平(左端)2021年7月3日、エンゼル・スタジアム 時事

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