若林正丈の「私の台湾研究人生」

私の台湾研究人生:「私はバランサーですよ」――初めて総統府に入り、初めて李登輝に会う

政治・外交

1990年代初頭、台湾の総統として権力基盤を固めつつあった李登輝と筆者は初めての直接対話を経験する。その場で李登輝が語った言葉は、当時、熾烈な党内権力闘争の最中にあった「綱渡り的」状況を如実に示すものだった。

開いた「パンドラの箱」

前回紹介した1989年12月の選挙後の思いがけない「間接対話」の後、1991年7月第3回アジア・オープン・フォーラムに日本側メンバーの一員として参加した私は、李登輝本人と初めて直接に対面し言葉を交わすこととなった。この間の約1年半、台湾政治は大きく動いていた。この時までに李登輝は、党内闘争に初歩的に勝利して「実権総統」になり、その中道改革路線の下で、3度の憲法修正を経て民主体制の構築に至る「憲政改革」が動き始めていた。

簡単に振り返っておくと、1990年2月の次期正副総統の国民党公認候補を決める党中央委員会総会では、党組織に影響力が強い李煥行政院長(首相に相当)らの妨害を排して自身が指名した副総統候補を受け入れさせ、3月の国民大会で林洋港監察院長(本省人政治家中の李登輝のライバル)と蒋緯国国家安全会議秘書長(蒋経国の異母弟)を正副総統に擁立する動きも抑え込んで総統続投を決め、蒋経国の残任期間ではない自分自身の以後6年の任期を手に入れた。

台北市中央部の蒋介石記念広場(中正紀念堂)で展開されていた学生・市民の民主化要求のハンストと座り込み(野百合運動)に対しても、民主改革のためのコンセンサス形成のための「国是会議」の招集および5月の総統就任の際に政治改革の時間表を提示することを約束して、抗議活動の平和的解散を導いた。

さらに、1991年4月に国民大会(旧制度)が招集され、「反乱動員時期臨時条項」の廃止を決定し、かつ「万年国会」全面改選の選挙方法の大枠をも決定する憲法の「増修条文」を制定した(第一次憲政改革)。

この「臨時条項」とは、中国共産党との内戦状態にあることを理由に1948年に国民大会が制定した一種の憲法棚上法令である。政治犯摘発に威力を発揮した特別刑法(「懲治叛乱条例」など)の法源でもあり、いわゆる「万年国会」全面改選阻止の法源でもあったから、政治的自由化と民主化の実現に避けて通れない措置であった。

ただ、私は当時、この措置で別の流れも強まるのではないかとの予感があった。この条項の名称に言う「反乱」とは中国共産党の中華民国に対する反乱を指す。中国共産党は反乱団体であり、中華人民共和国は不法な政治体であり、中華民国こそが正統な中国である、という論理によって、「反乱動員時期臨時条項」は台湾にある中華民国に法的に明確なアイデンティティーを与えていたことになる。

これを廃棄した今、中国大陸に存在する政治体とは反乱団体でなければ何なのか、翻って、台湾に存在する中華民国とは何なのか、という台湾の政治アイデンティティーについての根本的問いが、中国との現実的関係のマネジメントと法的枠組形成とからんで湧き上がるに違いない。この措置は、「党外」の「民主自決」のスローガンとともに80年代から兆していた台湾のアイデンティティーの政治の「パンドラの箱」を本格的に開けてしまうものになるのではないか。こういう予感を当時の時事評論にも書いた。実際にも台湾政治はそのような展開になり、李登輝こそその最大のプレーヤーとなっていったのだった。

アジア・オープン・フォーラム

話を元に戻そう。アジア・オープン・フォーラムは、李登輝が旧知の中嶋嶺雄・東京外国語大学教授(当時)と一緒に始めたセカンド・トラック(民間外交)の大規模な日台交流のプラットフォームである。台湾側では政治大学国際関係研究センターが主催団体となり、日本側は「日本アジア・オープン・フォーラム」の名義で運営された。世界の主要国と公式の外交関係を持てない台湾にとっては、こうしたプラットフォームはとりわけ重要であった。

フォーラムの第1回は1989年台北で幕を切り、第2回は東京で、以後台湾を日本とで交互に開催され、2000年10月の第10回で終了となった。日本での開催時に李登輝総統の参加を実現するのが中嶋先生の、また台湾側の悲願でもあったが、実現しなかった。総統在任中はともかく、総統退任(2000年5月)後の中嶋先生の故郷で開催となった長野県松本市での大会にも出席はかなわなかった。中嶋先生はさぞ無念であったと思う。

私は、80年代末頃から現代台湾研究会と称する月1回の勉強会を職場である東大駒場の部屋を借りて開いていた。確か第2回のフォーラムが行われた後だったと思うが、台湾の新聞でこのフォーラムの存在を知り、おそるおそる中嶋先生に勉強会講師のお願いの電話を入れたところ、快諾していただき、フォーラムに関するお話を勉強会で伺ったことがある。おそらくそんな縁もあり、第3回の台湾での会議の際にメンバーに加えていただいたけたのであろう。

第3回アジア・オープン・フォーラムのパンフレット(筆者撮影)
第3回アジア・オープン・フォーラムのパンフレット(筆者撮影)

手元にこの時のパンフレット(写真)がある。巻末の日台参加者の名簿を今めくってみると、この間に流れた一世代の時間の速さに感慨を覚える。中嶋先生は李登輝よりも一足早く鬼籍に入られた。若手で言えば、例えば、その後「九二年コンセンサス」なるマジックワードを発明して、陳水扁民進党政権第二期(2004-08年)から馬英九国民党政権(2008-16年)にかけての中台関係に大きな影響を与えた蘇起氏が当時は主催団体の国際関係研究センター研究員をしていて、会議運営スタッフの一人として名を連ねていた。また名簿の末尾には、今や八面六臂の活躍をしている国際政治学者の松田康博東大教授の名も見える。当時は慶應義塾大学の大学院生で通訳として会議のスタッフだったのだ。

「総統のお成ーり!」

今となっては自分でも判読困難な部分の多い当時のメモには「17:40」と記してある。日本側メンバーは7月19日午後台北に到着するや、翌日からの会議に先だって総統府に呼ばれたのである。もちろん私にとっては総統府(日本植民地時代の台湾総督府)の建物に入るのは初めてであった。

会見室に入り儀典官の指示の順に並んで待っていると、まもなく入口付近に直立していた儀典官が「總統蒞臨!」と声を張り上げた。日本語にすればまさに「総統のお成ーり!」である。蒋家父子二代の宮廷政治の匂いを一瞬嗅いだ気がした。

総統は随員を伴って笑顔で入ってくると、中嶋先生が付き添って日本側のメンバーの紹介が始まった。私の番が来て中嶋先生が紹介すると、「あなたの論文は読んでますよ」と大きな声で言われてビックリした。意外ではなかったが、こういう場で大きな声で言われたのに驚いた。後で考えるに、これが彼のお客さんへのサービス精神の発揮だったのかもしれない。

その後総統からの歓迎のあいさつがあった。内容はこのフォーラムの意義を強調するもので、中国語の原稿を型通り読み上げ、それを当時は行政院新聞局員だった筑波大学出身の邱榮金さんが型通り通訳した。それからは日本側メンバーが質問してよろしい、ということになって、以後全部通訳なしの日本語での会話になってしまった。総統は、日本語で話すほうがリラックスした感じだった。すぐ横には日本語が分からないはずの総統府参軍長の蒋仲苓将軍が控えているのだが、それは意に介しない様子だった。

「私はバランサーですよ」

しばらくシニアなメンバーと総統との会話が続いた後、中嶋先生が私に質問の順番を振ってくれたので、冒頭に記したような経緯を念頭において、おおよそ次のような質問をした:

「民主化が始まりマスメディアでも台北の街頭でも、台湾の政治の未来について様々な主張がなされ、また争われている。総統は国民党主席でもあり、野球で言えば、プレーヤーとアンパイアを一人で同時にやらなければならないように見えるが、ご自身はどのようにお考えであるか?」

これに対して李登輝は、開口一番「私はバランサーですよ」と語った。まさに日本語でこのように述べたと、これだけははっきりと記憶している。その言わんとしたところは、先の心もとないメモを元に敷衍すると、現状は既得利益や伝統的考え方と新しい主張とが争っており、民主政治は民意を基礎とするのが原則だが、100パーセントそのようにはできない。改革は最初からこうあらねばと決めてやるより、模索しながらやればそのプロセスの中から適切なものが出てくる――といった趣旨の発言だったと思う。メモにはまた「本当の綱渡り」という言葉も記してあるので、流動化が見られる政治バランスのなかでリーダーシップの確立に苦心していることもうかがわれた。

これが李登輝との直接に言葉を交わした最初の経験だった。本人から「バランサーですよ」との言葉を聞いたことは、すでに始まっていた「憲政改革」の観察にとっては大きな収穫だった。

ただ、この話には後日譚がある。翌年単独で会う機会ができ、李登輝本人から「あなたの本は正確でないところがある」といって、自身が進めた国民党内権力闘争の経緯の一部を説明されたからである。この点ついて、次回で詳しく書きたい。

バナー写真=台中市を訪れ、市民から地震の話を聞く李登輝総統、1999年9月30日(共同)

台湾 研究 若林正丈