100年の時空を越えて――1枚の写真が語った私と台北の物語

歴史

私が台湾への移住を決意したのは、3年半の駐在期間で台湾の自然の美しさや人の温かさにすっかり魅せられたからだと思っていた。しかし、今から3年半ほど前、台湾史の研究者から見せられた古い写真には、台湾総督府の礼服を着た人物が女性と並んで写っていた。100年以上前から台湾とつながっていたファミリーヒストリーをたどり、台湾に暮らす運命をかみしめる。「台湾で根を下ろした日本人シリーズ」の筆者による番外編。

湾生だった祖母

ここに1枚の写真がある。3年前に入手したものだ。そこには日本人の夫婦と思しき男女が写っている。男性は詰め襟の制服にサーベル、女性は和服姿だ。100年以上も前に撮られたとされるこの写真の主は、いったい誰なのだろうか。

台湾総督府の礼服を着た男性とその妻と思われる女性(『台湾史档案資源システム』提供)
台湾総督府の礼服を着た男性とその妻と思われる女性(『台湾史档案資源システム』提供)

話はいったん8年ほど前に遡る。

「お前のばあさん、俺のおふくろは台湾で生まれた」

2013年の暮れに、台北に旅行で訪れていた父が突然言い出した。まさに寝耳に水。これには驚いた。自分たちの一族が台湾と関わりがあったなどという話は、それまで誰からも聞いたことがなかった。曽祖父・梛野尚猪(なぎの なおい)は山形市内出身の貿易商で、祖母・花子は尚猪が台北滞在中に授かった子だという。

記録が残っていれば何か面白い事実が分かるかもしれない。淡い期待を寄せながら、ウェブで曽祖父の名を検索してみた。しかし、何もヒットしない。無理もない、100年以上も前の話だ。歴史に名を残した人物でもない限り、そうそう史料などあるはずがない。結局、祖母が「湾生」だったことは自分の記憶に鮮明に刻まれたものの、曽祖父について詳しく知ることはできなかった。

それから4年ほど経過した2018年2月初めのことだった。日本の実家から珍しく電話があり、何の話かと思えば、父の夢枕に祖母が立ったという。その日は祖母の命日だった。脳裏にふと4年前の父の言葉がよみがえった。そして、何かに突き動かされるようにパソコンの電源を入れると、改めて曽祖父の名前を打ち込み、検索してみた。次の瞬間、自分の目は画面にくぎ付けとなった。

総督府文書にあった曽祖父の名前

なんと曽祖父・梛野尚猪は台湾総督府文書課の文官だった。日本の統治が始まった翌年の1896年5月に海を渡り、1906年5月までの10年間にわたって台湾総督府に勤めていたのだ。初代総督の樺山資紀とは一瞬だけ重なり、以下、桂太郎、乃木希典、児玉源太郎、佐久間佐馬太まで、5人の総督に仕えたこととなる。もちろん、児玉総督時代の後藤新平民政長官も直属の上司に当たる。

『台湾総督府職員録』明治三十三年度(1900年)版
『台湾総督府職員録』明治三十三年度(1900年)版

かつては非公開扱いだった台湾総督府文書が、時を経て一般公開されていたのだ。なぜ父は曽祖父が貿易商だと勘違いしていたのだろうか。その答えは意外と早く知ることができた。それから間もなく、友人を介して知り合った日本統治時代が専門の歴史研究者、陳力航さんが突き止めてくれたのだ。

台湾で活躍した親族たちの人間模様

「馬場さんの曽祖母・梛野トメさんのお兄さんは有名な方でした。堤林数衛(つつみばやし かずえ)さんです。台北の貿易の中心地だった大稻埕の茶商、郭春秧氏の下で働いていました」

あらかじめ日本の実家から祖母の戸籍謄本の写しを手に入れておいたのが幸いした。曽祖母・トメの旧姓は堤林で、結婚前の戸主は兄の堤林数衛だったのだ。

堤林は山形県新庄の出身で、曽祖父・梛野尚猪と同じ1896年に台湾に渡り、最初は台北の監獄で看守の仕事をしていたらしい。その後は地元の塾に通って台湾語を習得し、上述の郭春秧の片腕として活躍した人物だ。郭が会長を務めていた台北茶商組合の書記長兼通訳でもあった。京都大学人文科学研究所と台湾の中央研究院台湾史研究所の共同研究の対象となるほどの著名人で、史料も残っていたことから、点と点が一気につながった。

『堤林數衛關係文書選輯』(筆者撮影)
『堤林數衛關係文書選輯』(筆者撮影)

堤林は1907年に台湾から故郷の新庄にいったん戻り、態勢を立て直してから、1909年に今度はジャワに赴き南洋商会を興した。日本の雑貨を扱う貿易商としてその名を馳せることとなる。貿易商だったのは曽祖父・尚猪ではなく、実はその義兄に当たる堤林数衛だったのだ。父は上の世代の親戚から、この辺りが錯綜(さくそう)した情報を伝え聞いていたらしい。

バナーの写真は堤林の研究史料の中の一枚だが、写っている人物が誰なのかは特定できないのだという。ここからは推測となるが、曽祖父・尚猪と堤林はともに故郷は山形だった。日本の統治が始まったばかりの当時の台北の日本人コミュニティーはそれほど大きくはなかっただろう。東北の、しかも山形の出身者はかなり限られていたはずだ。同郷の尚猪と堤林が台北の地で出会って意気投合したことは想像に難くない。そして、家長だった堤林は尚猪に自分の妹・トメを紹介し、嫁がせたと考えるのが自然だろう。あるいは二人は故郷の山形にいた頃から既に知己だった可能性もある。

陳力航さんはこの写真を指差しながらこう教えてくれた。

「この男性の服装は、台湾総督府文官の正装です」 

この写真が堤林の資料の中から出てきたものであることから、台湾総督府文官の礼服をまとっている男性は尚猪であり、その傍らの和服の女性がトメと推察するのは、極めて妥当だと思われる。否、それ以外の可能性を見出す方が難しいだろう。

台湾で亡くなった曽祖父

曽祖父・梛野尚猪は台湾総督府文書以外にも、当時の台湾総督府の機関紙にして台湾では数少ない邦字紙の一つだった『台湾日日新報(以下「新報」)』にも時折登場する。当時は「生蕃」と呼ばれた山地の先住民族の平定のため、従軍の救護班員として、桃園や新竹、また台東の山奥に出張したとの記事も見られる。そして、1906年に病気(台湾総督府文書の尚猪の退職願に記された医師の診断には「神経衰弱」とある)を理由に台湾総督府の官僚を辞した後も、日本赤十字社台湾支部の主任の肩書で台湾に留まっていたことまで新報の記事から分かった。赤十字に任用されたのは、総督府勤務時代に従軍の救護担当だった経歴とも無縁ではなかろう。

さらに衝撃的な事実も新報の記事から判明した。その5年後の1911年10月8日に、尚猪は台北で客死していたのだ。記事には台北医院(現在の台湾大学付属病院旧館)にて病気療養中のところ死去したとある。その翌々日には、台北郊外の板橋の祭儀場で荼毘(だび)に付されたことまで記されていた。また、同年10月15日付の新報には「梛野尚猪氏の事ども」と題し、次のような追悼文も載っていた。

「此程臺北醫院にて死去したる梛野尚猪氏は、先年退官以來久しく放浪の身たりし為め、窮困殆んど骨に徹し、家族をば曩(さき)に内地に歸し、單獨にて是より奮闘せんとし折柄、不幸不歸の客となりしことゝて、當地には縁故の者も少なき故、遺骨は郷里に送りて送葬する筈なるが、當地の友人等は日を卜し追悼會を催す筈。尚ほ同氏の家族は、未亡人の外に年少なる遺孤四名あり。差當たり路頭に迷ふの悲境に在れば、当地の友人等は出來得るだけ香資を集めて遺族に送る筈にて本社内、尾崎秀眞方にて之を纏めつゝあり。(旧字、旧仮名遣いのママ。振り仮名、句読点は筆者)」

尾崎秀真「梛野尚猪氏の事とも」『台湾日日新報』1911年10月15日7ページ
尾崎秀真「梛野尚猪氏の事とも」『台湾日日新報』1911年10月15日7ページ

台湾総督府を辞してからは、尚猪は相当困窮していたようだ。妻のトメと4人の子どもたち(3番目が祖母の花子)を先に故郷の山形に帰し、単身台北の地で人生の終焉(しゅうえん)を迎えたのだった。この記事を読み終えて胸が締め付けられるようだった。台北の下町である現在の万華区の桂林路と柳州街沿いの一角にあった台湾総督府の官舎が任官時の居所だったらしい。パソコンの画面に向かい、曽祖父・尚猪を思いながら静かに手を合わせた。

100年前から自分に続く台湾との縁

今回の自分のルーツ探しの旅はいったんここまでとなる。100年もの時空を越えて史料が残っていたことには感謝したい。一方、この長い歳月は、その先の探索を阻む壁としても立ちはだかっている。今後、曽祖父・尚猪に関する新たな史料が見つかる可能性は極めて低いだろう。ただ、一つだけはっきりと言えることは、自分と台湾との縁は、20年前に初めてこの地を訪れた際に結ばれたのではなかったということだ。100年以上も前に、曽祖父・尚猪の生きた時代から脈々と受け継がれ、今の自分にまでつながっていた。

2000年の夏。生まれて初めて台湾を訪れたとき、台北の下町、万華の裏通りを散策中に、既視感にも似た懐かしさを感じたことを思い出す。そのあと、自分が駐在員としてこの土地に派遣されたのも、その後もこの土地に留まり、表現者として活動しているのも、単なる偶然ではなかったのだ。

以前、ある座談会で司会者から「あなたはなぜ台湾で暮らすことを選んだのか」と聞かれたことがある。その際に、こう答えたことを今でも覚えている。

「自分が選んだのではありません。台湾から自分は選ばれたのです」

そう、自分はここにいるべくしているのだ。

バナー写真=台湾総督府の礼服を着た男性とその妻と思われる女性(『台湾史档案資源システム』提供)

台湾 後藤新平 台北 日本統治時代 児玉源太郎