若林正丈の「私の台湾研究人生」

私の台湾研究人生:「あなたの本には正確でないところがある」——初めての李登輝単独会見

政治・外交

李登輝と初めて直接対話の機会を得た1991年7月、「私はバランサーですよ」という言葉を引き出せたのは、民主化をめぐる権力闘争に関する筆者の認識を裏付けるものであり、一つの収穫だった。だが、翌年、初めて単独で会見した際、李登輝本人から「あなたの本は正確ではないところがある」と指摘され、その内情についての彼の見方を聞くことができたのだった。

1時間半に及ぶ李登輝との単独会見

李登輝は、党内の政争を勝ち抜き、並行していた「野百合運動」(民主化推進要求の学生のハンストと市民の座り込み)を平和的に解散させて、1990年5月20日には6年任期の総統職に就いた。その後も「国是会議」を招集し、①「反乱鎮定動員時期臨時条項」の廃止、②それまで官選だった台湾省、台北市、高雄市の首長の民選化、さらに③総統の民選化(国民大会選出ではなく)などの重要なコンセンサスを得た。これは長期戒厳令解除後、蒋経国総統の晩年に国民党エリートが合意していた改革の枠を明白に破るものだった。時には慎重に、時には大胆に、民主化を推進していた李登輝との再会は、1992年7月にやってきた。

大学が夏休みに入ると私は早速台湾に出かけ、李登輝総統との単独会見が実現した。当日のメモには、「9:20-10:50」とある。1時間半もの間、ほぼ李登輝の独演会であった。それだけのことがその2、3年の台湾政治に起こっていたからだとも言える。

アジア・オープン・フォーラムで私が初めて李登輝に会ったあと、91年末に国民大会代表の初めての全面改選が挙行され、次いで92年春には全面改選を経た新制度の国民大会が招集され、第二次憲法修正として、国是会議コンセンサスの②と③の一部分とが確定した。③の一部分というのは、総統の「民選」は確定したものの、具体的方法は、さらに憲法修正を行って現職李登輝の任期の切れる1996年までに決定することとなったからである。

そうなったのには、総統直接選挙を推進しようとした李登輝の一時的挫折があった。第二次改憲国民大会招集に先立って行われた国民党中央委員会総会で「総統直接選挙」に党内の合意が得られなかったのである。単独会見で李登輝はこの点についても語ってくれた。

総統は私の評論を読み込んでいた

2度目の総統府。今度は正面玄関に車で乗り付けるのではなく、側門から荷物検査を受けて入ったのだったと思う。総統の公務ではないとの判断だろう。案内された小さな会見室で待っていると、李登輝は入ってきてあいさつが終わるなり、開口一番「あなたの本で正確でないところがある。あなたが来るから読み返してみたんだ」と言った。

後で点検して見るとその「本」というのは、1991年2月刊の『台湾海峡の政治』(田畑書店)で、当日の話に該当しそうなのは、「李登輝の持ち時間」という時事評論であったと思われる。原載は『世界』90年6月号だから、李登輝の新任期総統就任に合わせて書いたもので、まだ「国是会議」は開かれておらず、また李登輝が誘導した「憲政改革」(後述)の道筋も見えていないというタイミングで、李登輝の民主化リーダーシップのその後の展望を試みたものだった。

今読み返すと、「政治家李登輝は『権威主義的』現象(独裁者蒋経国の抜擢により統治エリートの仲間入りした)から生まれながら、その体制を否定する(民主化)ためにリーダーシップを発揮しなければならない」(136頁)と、1991年初対面時に李登輝の「バランサーですよ」の返答を引き出した質問(連載前回)に繋がる認識を語りつつも、90年2月から3月にかけての国民党内権力闘争と「野百合運動」については、触れてはいたがその経緯や背景については突っ込んだ分析はできていなかった。「国是会議」開催のアイデアについても「野百合運動」の要求に従ったものとしていた。

李登輝が「正確ではない」と言いたかったのは、権力闘争の内情や国是会議に対して、著書で示した私の認識だった。

この日李登輝がまず言及したのは、90年3月の国民大会での林洋港・蒋緯国擁立の一幕(「三月政争」)であった。要点は、その一幕が、李煥行政院長(当時)が仕組んだものだったというにあった。李煥は、前記2月の国民党中央委員会総会で李登輝に挑戦した要人(彼らはすぐさまメディアで「非主流派」と呼ばれるようになった)の1人で、党務系統に強い影響力があった。

国民大会で林洋港・蒋緯国の正副総統候補を擁立の旗振りをしたのは、政治警察出身の鄧某という国民大会代表だったが、李煥が裏で動員したのだという。ただ李登輝側(「主流派」と呼ばれた)にはすでに500人を超える代表の支持署名が集まっていた。実は林洋港も蒋緯国も立候補には積極的ではなく、李煥に引っ張り出されたのだ。最後は林洋港が国民党内の主立った本省人(「八大老」と称された)に説得され立候補を取り消す形で「三月政争」は決着したのだが、李登輝によれば、そもそも本人はやる気がなかったのだから、茶番劇に過ぎなかったのだという。

「国是会議は無血革命だったんだ」

ハンスト学生との会見(3月21日夜)で約束した「国是会議」も、彼らが要求したから応じたというわけではなく、李登輝自身にその考えはすでにあった。3月17日、『中国時報』が国是会議の開催を求める意見広告を載せたので、総統府秘書長李元蔟(李登輝の副総統候補)を通じて社長の余紀忠(当時国民党中央常務委員)にその意があることを伝えていた、と李登輝は指摘した。

また、この国是会議の意義を、李登輝は強調した。私は1997年刊の『蒋経国と李登輝』(岩波書店)にその趣旨を引用している。

「政治改革十二人小組の副招集人をしていたとき、小組の年寄りたちには改革をやる気が全くないのがわかった。大衆は改革を望んでいた。だが、国民党内の力ではダメだった。だから、国是会議は、一種の無血革命だった」(同書、193ページ)

『蒋経国と李登輝』
『蒋経国と李登輝』

「政治改革十二人小組」とは、1986年3月長期戒厳令と「党禁」(新規政党結成禁止)などの政治的自由化断行を決断していた蒋経国が、国民党中央常務委員に作らせたタスク・フォースで、最長老の厳家淦元総統(蒋介石死去後副総統から就任し残任期間を務め蒋経国に譲った)を招集人に任命していた。副招集人を命ぜられていた李登輝は、厳家淦ら外省人要人の「やる気のなさ」を実感し、国民党の外の力を使わないと党は動かないとの判断を早くから持っていたのだ。

とはいえ、民進党や在野勢力の「広場の政治」の力のみでやれるとも見ていなかった。現行体制内で依然力を持つ国民党を動かすべく、前記のように国是会議の後は、政治改革を「憲政改革」と定義し、改憲案作りを国民党内に作った「憲政改革小組」に限定してしまった。その理由を、私との会見で李登輝は「国是会議のコンセンサスの実現は、国民党内でやらないと実現は無理だ。双方(民進党と党内「非主流派」)が不満だが、社会の安定のため体制内でやるのだ」と説明した。

だが、こうした妥協は党内の非主流派に利用されつつあった。そのため「憲政改革小組」では、総統「民選」方式の議論が「委任直選」に傾いた。これは、有権者の直接投票で選ぶ「総統直選」ではなく、何らかの方式で正副総統選挙人を選ぶという、なかなか分かりにくい案だった。

「委任直選」なるものがアメリカ式の直接選挙とほとんど変わらない選挙人選出方式になるのか、国民大会のような会議で選出する方式の変種になるのかそもそもはっきりしなかったが、党内の非主流派としては、「総統直選」にすると、総統はより実権を持つ総統となり、何よりも「台湾総統」になってしまうと恐れたのであろう。李登輝は党内のこの流れを嫌ったのだ。

前述のように、李登輝は92年1月に急きょ「総統直選」方式採用を提案したが、翌月の党中央委員総会で反対が噴出し決定を見送った。会見では、採決すれば勝つことは分かっていたがとした上で、「総統直選」を提案したのは、民衆は「直選」を支持しており「委任直選」という分かりにくい案では、年末に予定されている立法院議員の「全面改選」で負けてしまうからであり、その一方、あの時点で「直選」で押し通せば、党が分裂してしまう、来年になれば民意が変わってくるから、無理押ししないほうがよい、と判断したのだと、総統府での会見で私に語ったのである。

民意の「半歩先」を行くリーダーシップ

李登輝は、すでに起動してしまった「憲政改革」の展望については楽観的だったのだと思う。年末の立法院議員全面改選後には実際にそうなり、非主流派との力関係も李登輝有利に転じて、94年の第三次改憲ではさしたる紛糾もなしに「総統直選」が決定している。

この時の会見ではさらに、「反乱鎮定時期臨時条項」廃止後の「大陸(中国)政策」とナショナル・アイデンティティの問題について、90年夏に定めた「国家統一綱領」(中国側に台湾が政治実体であることの承認を求め、それに応じて段階的に中国との交流を拡大する)を引いて、自分の方針は「執中治国」(中道を執って国家を治める)だ、「急独」(中華民国を否定する急進的独立路線)も「急統」(今すぐ統一に向かうステップを開始する)の方向も取るべきではない、と中道路線を明言したのだった。

後知恵だが、慎重に民意を読み取り、急進せず、時に少々後退してでも変動する状況のなかで自分を「中道」の位置に保ち、そして可能と判断すれば民意の「半歩先」を提案して引っ張っていく。これが民主化期の李登輝のリーダーシップのスタイルだったと思う。

バナー写真=1996年3月23日の台湾総統選挙で当選を決め、台北の選挙本部前の特設ステージで、曾文恵夫人とともに支持者に手を振る李登輝氏(ロイター=共同)

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