麻生幾 特別寄稿エッセイ:サイバー戦争の最前線に立つ「公安調査庁」

政治・外交

冷戦時代と現代で情報機関の果たす役割が決定的に異なるのは、サイバー空間での攻防の有無だ。現代はロシアや中国、北朝鮮といった権威主義国家に代表されるように、軍隊の中にサイバー部隊を組織し、相手国の国家機密を抜き取るだけでなく、ネットワークの破壊やデマゴーグの流布を策動する勢力が拡大している。エスカレートする一方のサイバー攻撃に対処するため、公安調査庁はいち早く対サイバー攻撃の体制を構築、最前線で対峙している。

寺田技術研究所

1952年に設立されてから2022年に70年目を迎える公安調査庁に「秘録」が存在するとすれば、そこには、非公開とする活動を記録した膨大な書類や電子ファイルが含まれているはずだ。例えば、同年9月5日、練馬区内に発足した公安調査庁の秘密機関「寺田技術研究所」の活動も「秘録」につづられるべき任務の一つであろう。

任務はソ連(当時)や中国、そして国内の過激派の通信傍受だった。そもそもは中国で戦闘任務についていた旧日本軍の通信傍受と暗号解読のプロフェッショナルが結集したコミント(通信傍受インテリジェンス)機関であり、76年8月に解散するまで受信した件数は計381万件に及び、暗号解読から得たクリティカル(真に価値のある)情報も370件に上った。

寺田技術研究所の成果は、破壊行為を行っていた過激派組織が使っていた無線の傍受により、その計画を事前に察知して警察に通報することで暴力行為を抑止できたことや、ロシアのスパイ作戦の解明など数多い。現在活発に行われている公安調査庁と主要国の情報機関との膨大な「シークレット・センシティブ」(機密情報)のシェア(共有)の礎(いしずえ)となるなど、大きく寄与した。情報機関にとって重要なギブ・アンド・テイク(情報の交換)が実行できたからだ。

新たな任務「バーチャル・ヒューミント」

設立から65年後、秘録に新たなページが密かに加わることとなった。これまで指摘してきた通り、公安調査庁は協力者工作(獲得、運営と育成)と分析が主任務で、組織全体がそれを支え、そこから得られる情報をディシジョンメーカー(最終政治決定者)にサービス(提供)している。つまりインテリジェンスの世界で言われる「ヒューミント」(人的情報)を行う機関である。

その公安調査庁に新たなプロジェクトが立ち上げられた。「バーチャル・ヒューミント」──秘録の中に加えられた極秘任務がそれである。ごく簡単に言えば、ネット空間という現実社会では可視化されない仮想空間でのヒューミントだ。日本を取り巻く安全保障環境の大きな変化によって必然的に任務に加わることとなった。

その変化とは、爆撃機やミサイルといったハードな攻撃手段ではなく、サイバー攻撃という新たな「見えない戦争」が開始されたからであり、それに対抗するためのカウンター・サイバー・アタック(対サイバー攻撃活動)を公安調査庁は開始した。

ネット空間のブラックサイト(裏サイト)の中で、サイバー攻撃組織の中枢にアクセス権限があるメンバーの特定やサイバー攻撃の中心人物を突き止めるための協力者獲得工作がそれだ。具体的には、日本に仕掛けてくるサイバー攻撃部隊の中枢へ辿り着き、USBを差して情報を抜き取る、もしくはマルウエア(プログラム)を仕込んで欺瞞工作、破壊工作を行わせる協力者獲得工作を開始したのである。

サイバー攻撃に対しては、防衛省や警察は、日本の法体系からしてこれまで「守り」しかできないと判断されていた。侵入されないための防御しかできないという認識があったのだ。しかし、世界のインテリジェンスの流れでは、アクティブな活動、攻める活動の最大化が要求され始めた。公安調査庁はそれに追随することになったのだ。

バーチャル・ヒューミントにおける攻撃は、あくまでもインテリジェンスという秘められた世界の中だけで行うものであり、公安調査庁は日本で初めて活動を開始することになった。

マレーシア航空機撃墜事件

その活動の実態を知るには、海外の事例ではあるが、2014年7月17日、マレーシア航空370便に起きた惨劇を思い出す必要がある。オランダのアムステルダムからマレーシアのクアラルンプールへ向かっていたボーイング777-200ERがウクライナの上空を飛行中に撃墜され、乗客と乗務員合わせて298人全員が死亡するという痛ましい事件が発生した。

米国、ドイツ、英国の政府機関は、ウクライナの親ロシア勢力が支配する地域で、ロシア領内から運ばれた地対空ミサイル「ブーク」が撃墜した、と相次いで主張。その後、オランダ主導の合同調査団も同様の結論を導き出した。2020年にはオランダの検察庁は撃墜に関与したとして、元ロシア軍将校などを殺人罪で起訴している(ロシア政府は嫌疑を否定)。

この事件で今でも謎となっていることがある。米国の情報機関が事件直後、ロシア軍が関与しているとの情報をオランダ政府機関とシェアしていたことだ。

それには明白な理由があった。米国の情報機関がブラックサイト内でヒューミントを使って運営していた「ブーク」部隊内の協力者が、マレーシア機を撃墜した兵士を捕捉していたのだ。その兵士は撃墜したと同時に、ブラックサイト内で「撃墜してやった!」と自慢していたのだが、常にその兵士の言動をチェックしていた情報機関のアバター(分身=身分偽変)がキャッチしたのである。

つまり、その兵士は紛争中だったウクライナの軍用機とマレーシア機を間違えて攻撃したのでは、と即座に推定したのである。そのメッセージは数分で削除されたが、米国情報機関が即座にコピーしたことに、ロシア側はすぐには気付かなかった。バーチャル・ヒューミントはリアルタイムでの勝負なのだ。

ダーク・コミュニティーへの潜入

今、バーチャルの世界では、さまざまな「コミュニティ」がネット空間にできあがっている。SNSなどを通じてさらにその奥に、ごくごく内輪だけの、クローズド(閉鎖)された、インテリジェンスで言う「ダーク・コミュニティ」がある。表には絶対に出ない。そこへの入り口さえ見えない。そこへたどり着くためには特別なルートが必要だ。

現実の世界は人間関係の濃淡があって、信頼関係にもいくつもの階層がある。それはネットの世界、ダーク・コミュニティでもまったく同じだ。ネットの世界では、コミュニティ内でさまざまな情報が交換されている。

しかし、目標とするダーク・コミュニティへ到達し、潜入することは困難を極める。紹介がないと入れないとか、それぞれ入るための基準と厳重なセキュリティ・システムがあるからだ。そのため、公安調査庁のバーチャル・ヒューミントの担当官はまず、ダーク・コミュニティへ入ることに死に物狂いとなる。一度、入り込むことができれば、自分の架空のアバターのID(認証するための英数字)を作って、ダーク・コミュニティに潜入する。

そしてキーパーソンと──現実社会と同じように──年月をかけて接触し、また「世話焼き工作」(困っていることを解決してやるなど)を徹底的に行うことで、協力者として獲得、運営、育成する。そして秘密情報をアバターに提供させる。

ターゲットの人定にはSNSを活用

ターゲットの人定(じんてい=氏名・肩書きの特定)は、ツイッター、フェイスブックやインスタグラムなどのSNSを使う。いわば「人定情報の宝庫」から特定し、そのダーク・コミュニティで誰がキーパーソンなのかなど、ソーシャルネットワークやその奥のダーク・コミュニティのいろいろな参加者から、しらみつぶしに情報を捜す。

さらに、現実の世界で行うヒューミント工作の初期段階である「基礎調査」(ターゲットの生活を含め全人格的な把握)にしても、バーチャル・ヒューミントやSNSなどから収集することが多い。

公安調査庁は、CIA(米国中央情報局)をはじめとする欧米の情報機関ともバーチャル・ヒューミントで「JOOPE」(ジョイントオペレーション=共同作戦)を稼働中だ。バーチャル・ヒューミントを巡る情報機関の任務が重要性を増していることを物語るケースがある。

2015年5月、米国連邦大陪審は、米国企業にサイバー攻撃を行い、企業秘密を盗んだとして中国の人民解放軍関係者5名を訴追した。これこそ、CIAがバーチャル・ヒューミントの成果によって実際の刑事事件として立件できた最初のケースとなった。

CIAはターゲットとした人民解放軍の将校の5人の内の誰かが会員になっているダーク・コミュニティにアバターを送り込み、そこで情報を集め、ターゲットの人民解放軍将校を特定。そしてその将校とアバターを接触させた。

ターゲットにされた将校はダーク・コミュニティの中で、自分は人民解放軍の将校だと名乗っていなかったが、CIAが送り込んだアバターは、徐々に時間をかけて信頼を築き上げ、最終的には人定のための自分の顔写真まで将校から送らせていた。ネット空間という仮想な場でも、魂と魂が通い合う人間的な世界が存在するのだ。

情報分析官の悩み解消法

こうして活動の場を広げる公安調査庁の調査官や分析官には、共通した宿命的な「悩み」がある。彼ら同士は日々、互いに意見をぶつけあっているので、不満もあるし、グチもあり、そこには、民間の勤め人と同じく属人的な世界がある。

しかし、日々扱っていることがあまりにも機密性が高く、グチそのものが国家機密レベルとなる場合が多い。ゆえに、一般人の配偶者(もしくは交際中の相手)に対して、不満やグチの一つも漏らせない環境で生活することが強いられる。

誰にも吐き出すことができない、強大な心的ストレスに押し潰されることはないのか、そうしたストレスをどう発散しているのか、また、勤め先や仕事の内容について明かしているのか──それらが想像もできなかった私は、現職のベテラン分析官の女性を知る、ある知人にその質問を頼んだ。

すると彼女は軽い雰囲気でこう答えたという。

「今の彼氏には、“法務事務”の仕事をしているとだけ言っています。深夜残業や休日出勤もあるので、それが気になる人もいるでしょうが、私の経験上、そこまで追及してくる男性はいませんでしたね。不満やグチを我慢してストレス? たとえあっても乗り越えられます。なぜなら、業務上の不満やグチは、なんとかつじつまを合わせて、まったく別の、架空の出来事に置き換えて彼氏に話す。その、たった一回で気持をすべて発散できるんです。スッキリとね」

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