ソ連崩壊から30年:その時、現地では何が起こっていたのか

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2021年からさかのぼること30年前の12月25日、ソビエト連邦大統領ゴルバチョフの辞任をもって、世界最大の帝国ソ連が崩壊した。その時、何が起こっていたのか? 国民の反応はどうだったのか? 日常生活はどう変わったのか? モスクワに在住し、歴史的転換期の目撃者となった国際関係アナリストの北野幸伯氏が当時を振り返る。

ソ連とは何だったのか?

「ソ連」と言われても、若い世代はイメージできないだろう。そこで、まずソ連について、簡単に触れておく。

1917年、ロシア革命が起こった。そして22年、ソビエト社会主義共和国連邦(略称ソ連)が成立した。ソ連はユダヤ系ドイツ人カール・マルクスの共産主義思想をベースに創られた最初の国である。

共産主義とは、何だろうか。いろいろ説明はあるが、「万民平等で豊かな世界を目指した思想」と言える。こう書くと、いい思想なのか?と思える。

しかし、共産主義は人類歴史を「階級闘争の歴史」とし、労働者階級が資本家階級を打倒することを歴史の必然ととらえていた。具体的には、資本主義が最も進んだ米国、英国打倒を歴史的使命と認識していた。だから、米英とソ連が争うのは、必然だったと言える。

ソ連は日本や米国とは「真逆」のシステムで動いていた。政体は現在の中国と同じく、共産党の一党独裁。経済は社会主義計画経済。これは、何だろうか? 共産主義は私有財産を否定する。それで、民間企業も存在しなかった。

石油会社のような大企業から、町の小さな食料品店まで、全て国営。社会人は全て公務員という驚愕(きょうがく)のシステムだったのだ。さらに、テレビ、新聞、雑誌も全て国営。当然、言論の自由はなかった。信教の自由もなく、宗教を信じる人は過酷な弾圧を受けた。

ソ連はなぜ崩壊したのか? さまざまな要因がある。だが、アフガニスタン戦争による戦費増大、米国との軍拡競争、80年代の原油価格低迷などで経済状況が極度に悪化したことが主な原因と見られている。

ソ連崩壊直前のモスクワの実態

筆者が日本人として初めて、ソ連外務省付属モスクワ国際関係大学に留学したのは、1990年9月のことだ。つまり、ソ連崩壊の1年3カ月前。当時のソ連はどんな様子だったのだろうか?

まず、目についたのは、物質的貧しさだった。モスクワは「共産主義の総本山」だが、車の数はとても少なかった。そして、走っているのは、ソ連の国産車ばかり。ソ連車はひどく時代遅れに見えた。

筆者はモスクワ国際関係大学のすぐ隣にある寮に住んでいた。テレビが白黒だったのは、大きな驚きだった。その後、いろいろなロシア人の家庭を訪れたが、洗濯機や掃除機がないところもあった。日本では当時、当たり前だったビデオデッキやファクスがある家は、全くなかった。

生活で最も厄介だったのは、食料品店前の長い行列だ。大抵は1時間、2時間並ばないと中に入れない。しかも、棚はガラガラで、買える物と言えば、パン、ジャガイモ、ニンジン、タマネギ、パスタ、ハムなど。

販売できる商品が何もない魚介類専門店で店員に詰め寄る市民たち(1990年11月22日、モスクワ) AFP=時事
販売できる商品が何もない魚介類専門店で店員に詰め寄る市民たち(1990年11月22日、モスクワ) AFP=時事

幸い、大学側が日本から来た青年を飢えさせるのは申し訳ないと、気を利かせてくれた。私は1週間に一度、大学の食堂から食材を買える「特権」を与えてもらったのだ。

とはいえ、買える物は食料品店とほとんど変わらない。貧弱だったが、店に並ぶ手間が省けたことは、ありがたかった。モスクワの冬は厳しい寒さで、行列に並ぶのは、日本人にとって生き地獄だったのだから。

崩壊後の熱狂と混乱

ソ連の情勢は確実に悪化していった。1989年11月、東西ドイツを隔てていたベルリンの壁が崩壊。これをきっかけに東欧民主革命が起こった。ゴルバチョフはこれを黙認している。

結果、ソ連15共和国は自分たちも独立できるのではないかと考え始めた。90年3月、バルト3国のリトアニア共和国が独立を宣言。その他の共和国も、続々と独立を宣言するようになっていった。

モスクワのソ連軍学校内にある共産党支部からレーニンの胸像を運び出す兵士(1991年08月25日 ) ロイター=共同
モスクワのソ連軍学校内にある共産党支部からレーニンの胸像を運び出す兵士(1991年08月25日 ) ロイター=共同

91年12月8日、ソ連の構成国だったロシア共和国、ウクライナ共和国、ベラルーシ共和国は、「ソ連消滅と独立国家共同体設立」を宣言する(ベロヴェーシ合意)。

同年12月21日、新たに8カ国が独立国家共同体への参加を宣言。12月25日、ゴルバチョフがソ連大統領を辞任し、ソ連は崩壊した。筆者は「引退表明=ソ連消滅表明」を大学寮のテレビで見ていた。

ロシア国民はソ連消滅をどう捉えていたのか? 抵抗はほとんどなかった。ロシア共和国大統領エリツィンは当時大人気で、国民は「民主主義と自由を得ることができる。すべてうまくいく」と信じていたのだ。

ソ連国が消滅して、何が変わったのだろう。目に見える状況は、驚くほど何も変わらなかった。大学の授業は普段通り続けられていたし、試験の準備もしなければならなかった。

目に見える変化が起きたのは、翌92年に入ってからだ。ロシア市場が開放され、外国からさまざまな製品が流れ込んできた。ソ連時代末期に深刻だった物不足は、アッという間に解消された。

しかし、ひどいインフレがやってきた。92年のインフレ率は2600%だったと言われる。つまり、1年で物価が26倍になったということだ。そして、銀行に預金していたお金の価値は、1年で26分の1になってしまった。ほとんどのロシア人が一文無し同然になった。

93年になると、すでに国民は民主主義に幻滅していた。経済が破綻したことと民主主義の導入は、本来は全く関係がない。しかし、国民は「民主主義のせいで一文無しになった」と勘違いしたのだ。

そして、93年には、すでに強いロシアを復活させてくれる独裁者を求める機運が高まってきた。この年の連邦議会選挙では、極右ジリノフスキーの自民党が第1党になっている。96年の大統領選挙では、ロシア軍の英雄レベジ中将が3位に付けた。

留学先のモスクワ国際関係大学の同級生と筆者(中央)1996年 筆者提供
留学先のモスクワ国際関係大学の同級生と筆者(中央)1996年 筆者提供

そして、2000年にKGB(ソ連国家保安委員会)出身のプーチンが大統領になった。この時すでに、ロシア国民は民主主義を望まなくなっていた。

プーチンは幸運に恵まれていた。彼が大統領になると、ロシアの主要輸出品である原油価格が上がり始めたからだ。

原油は1998年時点で、1バレル10ドルほどだった。それが新世紀に入ると、ほぼ右肩上がりで上昇し続け、2008年夏には140ドルを突破している。これがロシアに莫大な利益をもたらした。

プーチンの1期目・2期目(2000年~08年)、ロシアの国内総生産(GDP)は年平均7%の成長を続けた。エリツィン時代、大不況に苦しんだロシア国民がプーチンを熱狂的に支持したのは当然だろう。

今のロシアとソ連に通底するもの

では、今のロシアはどうなのだろうか? これはかなり厳しい状況と言わざるを得ない。経済成長が止まったからだ。理由は大きく2つある。

1つは「経済制裁」だ。ロシアは2014年3月、ウクライナのクリミアを併合した。これにより、欧米日はロシアに経済制裁を科し、現在まで7年間続いている。

もう1つは、2010年代に「シェール革命(シェール層からの石油や天然ガス抽出の事業化)」が進行し、原油価格が08年ほどには上がらなくなったこと。現状、原油価格は80ドル台で高いと言われている。しかし、既述のように、08年は140ドル台だったのだ。

「シェール革命」による供給増で、以前のような原油の超高値は期待できない。この2つの理由で、ロシア経済は低迷し続けている。 

IMF(国際通貨基金)によると、ロシアのGDP成長率はクリミアを併合した14年が0.74%。その後、15年はマイナス1.97%、16年は0.19%、17年は1.83%、18年は2.81%、19年は2.03%、20年はマイナス2.95%。7年間の平均成長率は0.38%だ。 

客観的に見て、ロシアは危機的状況にある。どうやってプーチンは国内の安定を保っているのだろうか。いろいろあるが、最も大きな要素は「情報統制」だ。

プーチンは2000年代にテレビ支配を完成させている。しかし、クレムリンはインターネットをさほど重視せず、比較的自由にさせてきた。だが、ここ数年、ユーチューバーの影響力が増大し、無視できなくなってきた。

「反汚職基金」の創設者ナワリヌイのユーチューブ・チャンネル登録者数は、644万人だ。彼は2021年1月に逮捕され、現在も収監されている。

言論統制を完成させたクレムリンは、国民にどんな情報を流しているのか?

まず、欧米はロシアを敵視しており、ロシア解体を狙っているという情報。

2つ目はナワリヌイなどの反プーチン派は、欧米に操られている「エージェント」(ロシア語でイナストランニーアゲント)であるという情報。

3つ目は欧米の内部は分裂していて、深刻な問題を抱えている。ロシアに住む者は幸福であるという情報。要するにかつての「ソ連化」しているのだ。

1952年生まれのプーチンは、幼少の頃から諜報員に憧れ、大学卒業と共にKGBに就職した。そしてソ連崩壊後は、KGBの後継機関であるFSB(ロシア連邦保安庁)の長官にまで昇りつめた男だ。

そんな彼が危機的状況にあって、慣れ親しみ、熟知している「ソ連式」に回帰したのは、ある面仕方のないことだろう。だが、破綻したソ連の結末を振り返れば明らかなように、ソ連式でロシアが発展する可能性は、ほとんどない。(敬称略)

バナー写真:モスクワのマネズ広場で、ソ連共産党強硬派によるクーデターが失敗したことを喜ぶ市民=1991年8月21日(ロイター=共同)

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