西の国境を船でつなぐ : 与那国・台湾の「111キロ」は縮まるか

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日本で最も西にある与那国島から台湾までは最短で111キロである。この海を船で直接結ぼうという試みが与那国島と台湾の双方で行われている。与那国島は、日本統治下にあった台湾に依存する形で暮らしや経済を成り立たせてきた歴史的経緯がある。近年長期的な人口減少が続くなか、台湾につながる海上ルートを活性化の起爆剤とできるか。

東京~宇都宮 大阪~舞鶴

111キロとはどれくらいの距離なのか。イメージするには手掛かりが必要だ。

東京から約100キロの宇都宮まで東北新幹線で約50分。大阪を起点に考えると、日本海側の京都府舞鶴市が約100キロの地点にあり、JRで2時間半前後だ。

与那国~台湾間の111キロは船で6時間程度はかかると考えられている。

さらに、与那国~台湾間には定期的に往来する交通手段がなく、那覇や石垣、台湾の桃園を経由しなければならない。ちなみに、与那国~那覇間は約500キロ離れている。東京から約500キロ離れた伊丹空港へ飛び、そこからあらためて関東方面に戻って宇都宮に向かわなければならないとしたらどうだろうか。

蘇澳港=2022年4月24日、台湾.宜蘭県蘇澳鎮
蘇澳港=2022年4月24日、台湾.宜蘭県蘇澳鎮

日本と外国の「結節点」

与那国島と台湾の間では、沖縄が本土に復帰し、日台が断交した1972年以降、定期的な交通ルートが確立されたことはない。船や飛行機で直接往来したケースは、チャーター便にとどまっている。

与那国町は国境に位置する島の特性を、日本と外国の「結節点」と位置付け、台湾との間で高速船を運航し、人の流れを生み出す「高速船活用国境交流事業」を2019年度に打ち出した。台湾から観光客を呼び込み、近隣の石垣島や沖縄本島などに通じるルートも構築する構想もある。しかし、新型コロナウイルスの感染拡大に伴って海外との往来が大幅に縮小し、事業は足踏み状態だ。運航に必要な船舶を確保する見通しも立っていない。

20年前の交流事業で手をつないで踊る台湾.花蓮市と与那国町の人たち。姉妹都市関係はことしで40周年の節目を迎える=2002年10月17日、花蓮市
20年前の交流事業で手をつないで踊る台湾.花蓮市と与那国町の人たち。姉妹都市関係はことしで40周年の節目を迎える=2002年10月17日、花蓮市

船は台湾で調達?

花蓮が位置する台湾の東海岸には、宜蘭県蘇澳鎮があり、与那国町と同じ八重山地域にある石垣市が姉妹都市の関係を結んでいる。蘇澳鎮にある蘇澳港(南方澳漁港)は地理的に近いだけでなく、台湾が日本統治期だったころを中心に歴史的なつながりも深い。

花蓮、宜蘭に台東を加えた台湾の東海岸は「後山」と呼ばれるが、後山の首長やその経験者らが5月3日、与那国島直航大連盟を発足させた。「国境と国境を合わせることで、新たなコアを創造することができる」という理念を掲げ、ともに中央から離れた地域が手を携え、新たな価値を見出そうとしている。

元花蓮市長の魏木村氏は、「与那国島では病気で入院する場合には石垣島へ行かなければならず、不便。暮らしや経済、医療で協力することができる」と航路開設の意義を強調する。

一方、元蘇澳鎮長の林棋山氏は「東京から石垣、与那国を訪れた観光客が、さらに台湾へ足を延ばすこともできる」と、直航航路の活用で台湾に誘客に意欲を示した。台東市長や立法委員を務めた賴坤成氏はこれまでの調査の結果として「蘇澳港や花蓮港では、税関・入管・植防(CIQ)の対応は可能だと確認している」と、積極姿勢を示した。

姉妹都市30周年の2012年に花蓮市で行われた意見交換会では、台湾と八重山の間で観光客が相互に往来する必要性が花蓮側から指摘されている。当時は航空路線という違いはあるものの、交通ルートは互いの行き来があって維持される点は現在も同じ。台湾からの農産物や生活物資を輸出すれば、与那国島の物価を抑えられるといった提案もあった。

台湾で与那国島直航大連盟を発足させたメンバー=2022年5月3日、台北市内
台湾で与那国島直航大連盟を発足させたメンバー=2022年5月3日、台北市内

台湾に依存してきた島

高速船活用事業は「かつての『繁栄する国境の町』という原点」を目指すと述べている。与那国島は、日本統治下にあった台湾に依存し、学校を出ると働き口や進学先を台湾に求める人は珍しくなかった。島にとどまって暮らすにしても、台湾との間を行き来しながら魚を捕ったり、台湾という大市場を当て込んでブタを養ったりした。

終戦で台湾と与那国島の間には国境線が引かれたが、それでもいわゆる「密貿易」で島はにぎわった。1950年に大規模な手入れがあり、「密貿易」は鳴りを潜めることになるが、人々の往来は細々と続いていく。

たとえば、団塊の世代に当たる与那国出身の男性から昨年11月に話を聞いたところ、1960年ごろまでは与那国の人がまだ台湾に残っており、船で与那国島の親戚を訪ねてくることがあったという。沖縄県公文書館が所蔵する琉球政府関係の資料には、税関当局が1965年12月に与那国島を調査した記録があり、島に駐在する警察官から聞き取った内容として「(台湾は)戦前は、沖縄以上に経済的関係は深く、与那国住民の約半数は台湾居住の経験者であり、台湾漁船の乗組員にも与那国住民の親戚、知人等が多い」と記されているほか、「(台湾と与那国の漁民による)小型の船による夜間の接触が考えられ、その目的は物々交換と思われる」との見方を示している。

与那国町が1982年に花蓮市との間で姉妹都市提携を結んだ際、町議会議長として調印式に立ち会った長浜一男氏(故人)は「密貿易」の経験者である。「かつての『繁栄する国境の町』」を体感した人たちがかかわる形で姉妹都市交流はスタートした。台湾との間に生まれた島のにぎわいは、行政レベルでもキャッチフレーズ的に引き継がれていく。この延長線上に高速船活用事業があるのである。

「密貿易」を経験し、のちに与那国町議会議長を務めた故長浜一男さん=2008年3月9日、与那国町久部良の自宅
「密貿易」を経験し、のちに与那国町議会議長を務めた故長浜一男さん=2008年3月9日、与那国町久部良の自宅

教育交流は定着

花蓮市との姉妹都市関係は、それまで節目ごとに訪問団が往来するといった儀礼的な交流として続けられてきたが、島の将来の活性化戦略に位置付けられた。

2008年度には、与那国町の国境交流事業が内閣府の「地方の元気再生事業」に採択されたとき、町は「過去、『生活圏』を共有した台湾との新しい交流圏の形成には国境を結ぶ交通手段確保が不可欠」と指摘している。「西の辺境」と化した島を再び西に開かれた玄関口にするには、どうしても交通手段が必要だという点を訴えているのだ。同事業では、花蓮との間を直接結ぶ船のチャーター運航を試み、国際基準を満たす船舶を台湾で確保するところまでこぎつけた。しかし、冬場の高い波など与那国島周辺の海況が高いハードルとなり、最終的には飛行機に変更して実施されている。

一方、定着したのは教育交流である。与那国町では2010年から中学校の修学旅行の行先を台湾とし、2011年から小学校6年生が台湾でホームステイを体験する教育プログラムを実施している。ただ、子どもたちは隣の石垣島に渡り、500キロ離れた那覇まで飛び、Uターンするようにしてあらためて台湾に向かう遠回りを強いられている。

花蓮港=2019年4月20日、台湾・花蓮市
花蓮港=2019年4月20日、台湾・花蓮市

深刻な人口減少

国勢調査によると、与那国町の人口は、2000年の1852人から20年の1676人へ9.5%(176人)減った。16年3月には陸上自衛隊与那国駐屯地が設置され、隊員とその家族が転入しているが、人口減少には歯止めがかかっていない。高速船活用事業は、島を活性化させる起爆剤のひとつとして、台湾の活力を呼び込みたいという考え方を基礎にしている。

今年は花蓮市との姉妹都市締結から40周年の節目である。記念事業に向けた取り組みはすでに始動している。コロナに伴う海外渡航の制限がどのように緩められていくかは未知数で、記念行事がどのように行われるかははっきりしないが、花蓮と与那国の双方で相手方への関心が高まるこのタイミングを船舶航路の開設実現に向けた好機としない手はないだろう。

※写真はすべて著者撮影

バナー写真:飛行機で与那国入りし、最西端の碑を訪れた台湾の観光客=2009年2月27日、与那国町久部良

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