たいわんほそ道~桃園・大渓の時空をあるく(上):慈湖から康荘路へ

文化 歴史

道とすべきは常の道にあらず。いにしえに生まれた道をさまよいつつ、往来した無数の人生を想う。時間という永遠の旅人がもたらした様々な経験を、ひとつの街道はいかに迎え入れ、その記憶を今、どう遺しているのだろう? 100年の歴史をもつ旧道をあるく連載紀行エッセー、今回は台湾・桃園市で最も古くから栄えた町・大渓を、蒋介石の眠る「慈湖」からトロッコ道に沿って歩く。

蔣介石の故郷に似た場所

ここ「慈湖陵寝」を訪れるのは、これで4度目だろうか。来るたびに蒋介石像が増えている。日本時代までは「牛角湳」と呼ばれていたこのあたりを「慈湖」と改名したのは蒋介石で、今は湖のそばに眠っている。それは墓ではない。中国大陸を武力で奪還する「反攻大陸」を掲げた蔣介石親子は、いつの日か戦争に打ち勝って故郷である中国大陸にもどり埋葬されることを望んだ。二人の遺体には防腐処理が施され、棺と「台湾」の大地とのあいだは石の台座によって隔てられ、今なお遠く中国の地に眠る日を夢見ているという。

大渓は、淡水側の主流である大漢渓の地の利をえて、台湾北部は桃園市のなかで最も古くから栄えた地域である。この地に富をもたらしたのは水運のほか、木材と樟脳、そして石炭であった。中央山脈の最も北西側にあたる「加里山脈」には石炭の鉱脈が血管のようにめぐり、それは基隆まで延びている。慈湖のある草嶺山一帯も「加里山脈」の一部で、日本時代の1906年に炭鉱として開発される。その後炭鉱は台中の霧峰林家と並んで「天下に二つの林家あり」と称された富豪、板橋林家の所有となった。

第二次世界大戦で日本が敗戦し台湾を去ってから、1949年に中華民国政府を台湾に移した蔣介石は、風光明媚な台湾のあちこちに「行館」と呼ばれる自分用の別邸をつくった。故郷の寧波奉化の風景によく似た大渓にとりわけ愛着をもった蔣介石は、板橋林家からここ草嶺山を無償で借り上げ、行館のみならず軍事施設を置き、自分の死後の栖(すみか)としたのである。

慈湖でみた白昼夢

ところが台湾の民主化以降、ここ慈湖に奇妙な役割が生まれた。戦後に台湾各地に設置された蒋介石像(孫文像や蒋経国像も含む)が、民主化後に独裁と権威主義の象徴として次々に撤去され、行き場を失った像たちが集まってきたのである。

蔣介石像が蒋介石像を尋問するように取り囲む。
蔣介石像が蒋介石像を尋問するように取り囲む。

公共の場に置かれる銅像=彫刻は、その共同体の目指す「夢」をあらわす。だから独裁国家は、独裁者の姿をより大きく強く表現しようとするのだろう。共同体が同じ「夢」を見続けることが出来なくなったとき、像は破壊され、引き倒される運命にある。近年、世界のいたるところで政治家の像が破壊されているが、彼らに比べれば台湾の蒋介石像は行く場所があるだけ幸せといえるかもしれない。

像のあいだを歩きながら、一番はじめに蒋介石像を制作したのが台湾を代表する彫刻家の蒲添生であった事を思いだす。義父の陳澄波に推薦され、60歳の誕生日を記念して1946年に蒋介石像をつくった蒲添生だが、まさかその義父がその後の二二八事件(1947年)で銃殺されてしまうのだから、運命とはなんと皮肉なことだろうか。

ふと銅像の配置に法則があることを発見した。8、9体の蒋介石像が、中心の蒋介石像を見つめるようにサークル状に取り囲んでいるのだ。皆で中心の像を責めているようにも、これからの身の振り方を相談しあっているようにも見える。モンシロチョウがひらひらと像と像のあいだを飛びまわる。一体一体の顔が微笑んでいるのも不気味だ。大道芸人のおじさんがのどかに奏でるアニメ「ドラえもん」のテーマソングのメロディーが、駐車場から響いてくる。

こんなこといいな
できたらいいな
あんな夢こんな夢いっぱいあるけど (作詞 : 楠部工)

毛沢東のライバルだった蔣介石だが、近年では中国で再評価が進んでいるらしい。中国観光客の人気の観光スポットとなり、公園の入り口に「法輪功」の看板もあるが、近年は中国からの観光客も減ったうえ、コロナ禍も重なって閑散としている。

かつてのトロッコ道をゆく

慈湖から大渓市街の方面にのびる「慈康路」をしばらく歩くと蒋介石の息子、蒋経国の眠る「大渓陵寝」が右側に見えてきた。平日とはいえ蒋介石の慈湖陵寝よりも人出は多い。1921年の日本時代の地図でこの慈康路を見ると「手押し台車軌道」と書かれている。そう、ここには石炭や樟脳、木材、そして人を運ぶためのトロッコ鉄道が走っていたのだ。大渓と角板山を結ぶトロッコ鉄道で「角板山線」という。

1921年日治二萬五千分之一地形圖を見ると、まん中左あたりに「手押台車軌道」とある(提供:中央研究院人文社會科學研究中心地理資訊科學研究專題中心)
1921年の日本統治時代に作られた2万5000分の1の地形図を見ると、まん中左あたりに「手押台車軌道」とある(提供:中央研究院人文社會科學研究中心地理資訊科學研究專題中心)

大渓陵寝を過ぎると慈康路は二手にわかれる。左手にすすみ、草嶺山から一気に大漢渓のほうへ山道を下る。この先は、かつてトロッコ列車の駅が設置された「内柵」である。

今回の散歩にあたり、大渓の郷土史家である黄建義さんにお会いしてお話を聞いた。1964年大渓うまれの黃さんは元々、行政院から免許を受けた室内設計デザイナーである。あちこちの公共設備の室内設計や施工にあたるうち、転機が訪れたのは1999年。集集(921)地震のあと、南投県による救援活動に公務員として参加した時の事である。

「そこでわかったのが、大きな災害から地方が復興していくのに、それまで蓄積してきた郷土史やフィールドワークの大切さでした。地域の文化調査っていうのは地方文化を存続させるだけじゃない。地方文化が何かしら危機に直面したときの生命線になるんだってね」

黃さんは地元の大渓に戻り、「大渓文化調査者」として活動をはじめる。現在は室内設計デザインのほか、桃園市各地のガイドや大渓文化協会の理事を務めながら、行政と地域と観光を繋げるお店「達文西瓜芸文館」を夫婦で経営。お店の奥にある部屋は、壁一面が歴史資料や本や写真で埋まっている。

「大渓文化調査者」黄建義さんのスタジオ
「大渓文化調査者」黄建義さんのスタジオ

そんな黃さんによれば、「内柵」とは大渓にもともと暮らしていたタイヤル族との境界の「内側」を意味するという。

つまり内柵の柵とは、かつて清朝の開墾者らによって作られた先住民(台湾での正式名称は「原住民族」)に対する包囲網――隘勇(あいゆう)線を指す。包囲網は清朝から日本の総督府に引き継がれ、第5代台湾総督・佐久間左馬太の時代には、高圧電線となって敷かれた。山の奥へ、奥へと交通網を延ばしてゆくトロッコ鉄道の敷設には、木材や石炭の運搬以外にもうひとつ、武力によって先住民を制圧する軍事行動を担う役割もあった。そう考えれば「内柵」という名前には、どれだけの悲しいドラマが秘められてきたことだろう。

内柵の美しい三合院

内柵橋を渡り、小川のカーブに沿って小路をゆく
内柵橋を渡り、小川のカーブに沿って小路をゆく

内柵小学校を通り過ぎれば小川が道を横切る。流れに沿って延びる路地に心を惹かれ進むと景色がひらけ、緑色のたんぼが連なる向こうに、曼殊沙華の花のように赤煉瓦が色づいている。近づけば、建物をコの字型に配した福佬(ホーロー)式の伝統的な住宅、三合院があり、「永安居」と名が付けられている。

簡送德の屋敷だった「永安居」は桃園市の文化財、中庭で音楽コンサートが開かれることも。
簡送德の屋敷だった「永安居」は桃園市の文化財、中庭で音楽コンサートが開かれることも。

台湾の田舎でこうした三合院は珍しくないけれど、この永安居はこれまで見たなかでも極めて状態が良く、美しく保存されている。なんでも大渓老街の和平通りで徳記商行という貿易会社をつくった豪商、簡送德の屋敷だそうで今は桃園市の文化財という。なんとなく違和感があるのは、建物の前の庭が芝生だからと気づいた。本来的に三合院の中庭は、洗濯物を干したり鶏を放し飼いしたり、地域の人が集まったりする生活感あふれる場所である。だから余計に、綺麗に刈り込まれた芝生の緑と赤煉瓦のコントラストが眩しく幻想的にみえるのかもしれない。

永安居から、内柵の街の中心にある廟「仁安宮」にむかった。廟のはす向かいに木桶の工房があり、あたりに爽やかな木の薫りが漂っている。廟の真向かいには、神様と向きあうように舞台がある。お祭りの日にはコアヒ(台湾オペラ)などが奉納されて、さぞかし賑やかに違いない。前述の黃建義さんが見せてくれた大渓老街のとある家庭の昔の家計簿に、「大正15年丙寅3月初2日 内柵に観劇にいく」とあった。今は人影ひとつ見えず人家も多くはない、閑散とした内柵の町。だが、かつては4キロ離れた大渓の中心部よりわざわざ観劇にひとが訪れるほど、活気ある町だったのだ。仁安宮のご本尊は財神である玄壇真君で、旧暦3月15日が誕生日だというから、お誕生日の前祝いの催しだったのかもしれない。

黄建義さんが見せてくれた大正15年の頃の、とある家庭の家計簿、右から4行目に「内柵で観劇」とある。
黄建義さんが見せてくれた大正15年の頃の、とある家庭の家計簿、右から4行目に「内柵で観劇」とある

仁安宮の源流は1846(清朝道光26)年。中国福建から台湾海峡を命からがら渡ってきた13人のホーロー人(中国の福建地方に居住する/していた漢民族の一派)が、淡水河を上って支流の大漢渓を遡り、内柵から距離にして2キロほど向こうの岸にたどり着いた。13人はこの地に根を張ることを決めて開墾の成功を祈り、玄壇真君を祀ったという。静かに流れる小川、渡る風、広がる平地の向こうに見えるなだらかな山並み。新天地を目指して荒ぶる海を越えた13人がかつて見た夢が、この風景のなかに息づいているようだ。

用水路の橋の向こうに「永安居」、その後ろの山を越えれば「慈湖」のある草嶺山がある
用水路の橋の向こうに「永安居」、その後ろの山を越えれば「慈湖」のある草嶺山がある

バナー写真=桃園慈湖公園に集まった蒋介石像

中央研究院提供の地形図を除き、文中写真は全て筆者撮影

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