幕末に消えつつあった文化への愛情と執着 : 『守貞漫稿』(その15・最終回)

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『守貞漫稿』を読むと、江戸時代の文化・風習などが現代に残っていることに安堵する一方で、消え去ったものがあることもわかる。『守貞漫稿』の著者・喜田川守貞が生きた時代(天保 /1831〜慶応期 / 1868)と現代の違いを見ていこう。

宝船と三河萬歳

「宝船」。 正月2日の夜、七福神が乗った宝船の絵を枕の下に敷いて寝ると、いい夢が見られる——これは江戸時代の庶民が好んだ風習だった。

寝る前に、以下の回文を唱える。回文とは、上から読んでも下から読んでも同じ文のこと。

「長き夜の遠の眠りのみな目覚め 波乗り船の音のよきかな」

なかきよの とおのねむりの みなめさめ なみのりふねの おとのよきかな——確かに同じだ。

随筆集『嬉遊笑覽』(きゆうしょうらん 文政13 / 1830年)はこの回文について、「其故(そのゆえ)をしらず」(起源は不明)と記す。

一方、『全浙兵制考』(ぜんせつへいせいこう 享和2 / 1802年)の付録『日本風土記』には、回文が掲載されているのを確認できる。

『全浙兵制考』は16世紀末頃までの日本の風俗・風習を記した書だ。つまり、少なくとも1500年代には、詠まれていた歌と考えてよさそうだ。

さて、この故事に則って実際に「やったことがある」という読者諸兄はいるだろうか?
皆無とは断言できないが、少なくても筆者はしたことがない。

『守貞漫稿』によると、「江戸ハ、今モ専ラ元日二日ノ宵(よい)ニ、小民コレヲ売リ巡ル」

宝船の絵は、正月2日の日暮れに売られていた。

バナーの画像は嘉永4(1851)年に守貞自身が購入した絵を模写したものである。

ちなみに、「いつ見る夢が初夢なのか?」は諸説ある。江戸では古くは大晦日の夢を指していたが、年越しの夜は寝ない習慣もあったため、天明(1781〜1789年)頃からは元日〜2日朝に見る夢を「初夢」といった。

その後、いつの頃からか2日の夜に見る夢を指すのが一般的になってきたという。守貞の時代は2日の日暮れ以降に絵を買い、枕の下に敷いて早朝までに見る夢を指していたと思われる。

「萬歳」(まんざい)も消えた風物詩だ。

漫才の起源となった芸能だが、江戸時代は二人一組の萬歳師が正月の都市部を巡り歩き、門付け(かどづけ / 民家や商店の前で演じること)していた。

これも起源は諸説あるが、そもそもは陰陽師の末裔(まつえい)たちが始めた「千秋万歳」(せんしゅうばんざい / 長寿を願う儀礼)が芸能に転化したものといわれる。平安時代には貴族の年中行事として定着し、それが尾張、三河へと伝わり、幕府統治下の江戸では「三河萬歳」として人気を博していた。

「江戸ニ来ル者ハ参(三)河ヲ第一トス」(『守貞漫稿』)

幕府の開祖・家康が三河出身であるため、特別に優遇されていたらしい。1996年に、「三河万歳」が国の重要無形民俗文化財に指定され、安城市などの保存会が公演や後継者育成に取り組んでいる。

正月に門戸をめぐり歩く萬歳師たちの姿は消えたが、正月のテレビ番組に演芸が多いのは、萬歳の名残かもしれない。

(左)『江戸府内絵本風俗往来』(国立国会図書館所蔵)の三河萬歳。この絵は屋敷に上がりこんでいる。(右)左が三河萬歳、右は大和萬歳のコンビ。大和(現在の奈良県)の萬歳は三河より起源は古いとされ、上方で演じられていた。
(左)『江戸府内絵本風俗往来』(国立国会図書館所蔵)の三河萬歳。この絵は屋敷に上がりこんでいる。(右)左が三河萬歳、右は大和萬歳のコンビ。大和(現在の奈良県)の萬歳は三河より起源は古いとされ、上方で演じられていた。

2月8日に広がっていた奇異な風景

元日を中心とする「大正月(おおしょうがつ)」に対し、正月15~16日の「小正月(こしょうがつ)」は当時としては当たり前の行事だった。この日に小豆粥(あずきがゆ)を食べる風習が今も一部の地方に残っているし、小正月を境に注連縄(しめなわ)やお飾りを外して燃やす「どんど焼き」と呼ばれる火祭りも、各地にある。

『守貞漫稿』は、小正月の時期に現代にはない面白い出来事があったことを記録している。

「十四、五日頃ニハ、小戸ノ男童ラ藁筵ノ両辺ニ竹ヲ付ケ、四人ニテコレヲ担ヒ、坊門諸戸ヲ巡リ門松・注連縄等ヲ乞フ也。多ク集ムヲ功トシ、少ナキヲ恥トス」(『守貞漫稿』)

どんど焼きに持って行くから、注連縄やお飾りをください——そういって子どもたちが町を練り歩く。ところが、集める数が少ないと「恥」となる。子どもたちなりの競争社会なわけで、少ないとメンツが立たない。

そこで注連縄などを盗む不埒(ふらち)者が現れる。

「九、十日頃ヨリ、夜中ニ忍ビテコレヲ取ル。故ニ官ヨリコレヲ禁ジ、下ノゴトク木戸他ニモ張リ紙セリ」(『守貞漫稿』)

「御法度 門松、注連縄、猥(みだり)に取はづすべからず」。幕府が張り出した禁止の札。守貞はこれに対し、「唯多キヲ功トス、興ズルノミ、銭等ヲ添加ニアラズ」(ただ数を競うだけの子どもの遊び、換金するわけでもあるまいし)と、少年たちの行為には寛容だ。
「御法度 門松、注連縄、猥(みだり)に取はづすべからず」。幕府が張り出した禁止の札。守貞はこれに対し、「唯多キヲ功トス、興ズルノミ、銭等ヲ添加ニアラズ」(ただ数を競うだけの子どもの遊び、換金するわけでもあるまいし)と、少年たちの行為には寛容だ。

つまり、幕府が「勝手に持って行くな」と盗みを禁じたわけだ。いつの時代も悪ガキは存在したということだろう。

2月になると、8日には「御事始」(おことはじめ)があった。正月も終わり、人々の日常が始まるという意味の年中行事だ。江戸時代は旧暦であるため、2月8日は3月初旬にあたる。つまり初春。農村では農作業が始まる時期でもあった。

こうした季節の変わり目は、魔がはびこる——そこで目籠(めかご)を竿(さお)の先に吊るし、民家の軒の上に掲げて魔除けとした。

(左)御事始には、このように先端に籠などを付けた竿がニョキニョキと立っていた。(右)竿と籠の詳細図。
(左)御事始には、このように先端に籠などを付けた竿がニョキニョキと立っていた。(右)竿と籠の詳細図。

なぜ目籠だったのかといえば、網目が「☆」のように見えたからという説がある。「☆」は陰陽師・安倍晴明(あべのせいめい)の家紋「清明桔梗」(五芒星)に似ていて、魔除けの効果があると信じられていたのである。

また、籠の代用品として味噌漉し(みそこし)を掲げる家もあった。味噌漉しの目は無数の方眼(四角)であり、これが「道教ノ秘呪トスル九字ニ似タリ」(『守貞漫稿』)だったからである。

道教の九字とは、「臨兵闘者皆陣列在前(りんびょうとうしゃかいじんれつざいぜん)」の9つの文字。この呪文を唱えながら、手刀をタテ・ヨコに何度も切ると、方眼の網目になるということらしい。

この風習はまったく廃れてしまったが、江戸の町に無数の籠や味噌漉しが掲げられた景色は、何とも奇異だったに違いない。

明治維新は民衆文化の分岐点

ちなみに御事始は2種類あり、神事(神を迎えること)は12月8日が事始、2月8日を事終(ことおわり)という場合もある。正月とは、神を迎える時期だったということになろう。庶民の場合は、神事が終わる2月8日から日常が戻ってきて、12月8日まで働いて事終となる。

だが、これまで見てきた通り、正月の行事は様変わりし、一部は廃れていった。

なぜ廃れたのか、その理由を探すことは簡単ではない。一つには幕末〜明治維新以降、急速に日本が西欧化し、特に江戸のような都市部の生活、住民の価値観が変化していったからだろう。

喜田川守貞は、幕末の激動期の真っ只中を生きた人物だ。本業は砂糖問屋だが(本連載第1回参照)、嘉永5(1852)年、経営が苦しくなり、「産ヲ破テ閑居ノママ筆ヲ採テ見ル」(『守貞漫稿』)。

つまり家業が破産し、閑居の身なので執筆を続けたと記す。

翌年の嘉永6(1853)年、浦賀に黒船が来航。守貞は黒船を恐れた。

「墨夷来タリテ恐ラク戦争ノコトアラント思ヒシニ、幕府無事ヲ旨トスルニヨリ、ソノ難ナシ。故ニ即時、川肥(越)ヨリコレヲ復シテ〜」と記している。

墨夷(墨色の船の夷狄 / いてき)が来た。戦争になるかもしれない。

幕府が無事であることを願いつつ、とりあえず川越(現在の埼玉県)に疎開したが、戦乱の危機は回避されたようなので復して(戻って)きた。

筆者の個人的な見解に過ぎないが、川越から戻った守貞は庶民文化が廃れていく姿を見てとったのではないだろうか。また、幕府が倒れることも、その後に欧米文化の浸透によって世の中が様変わりすることも、予見していたと思われる。

事実、守貞が愛した江戸文化は、急速に西洋化・効率化の波に押し流されていくことになる。

宝船や小正月、御事始などは、庶民の信仰に結びついたささやかな文化だった。
だが、こうした金運・健康・長寿運、さらに邪気を払って1年の仕事運を願う行事も、明治維新以降、神社仏閣への「初詣」に集約・簡略化されていった。
無駄と思われる文化や風習は、消し去られていったのである。

「上巳(桃の節句)」「端午」「七夕」などの節句は現代の生活にも根付いているが、9月9日の「重陽(ちょうよう)」は姿を消した。かつては無病息災を祈願し菊の花を浮かべた酒を飲んだ。『十二月遊び』国立国会図書館所蔵
「上巳(桃の節句)」「端午」「七夕」などの節句は現代の生活にも根付いているが、9月9日の「重陽(ちょうよう)」は姿を消した。かつては無病息災を祈願し菊の花を浮かべた酒を飲んだ。『十二月遊び』国立国会図書館所蔵

本当に無駄だったのか?

庶民が庶民らしく、風習や文化を身近に感じて愛した時代は、むしろ守貞が姿を消すまでの時代にあったのではないだろうか。

慶応3(1867)年、守貞は筆を折り、姿を消した。その後の行方は知れない。

シリーズ『守貞漫稿』は今回が最終回となります。ご愛読ありがとうございました。

バナー / 守貞が自ら購入した宝船の絵を模写したもの。絵の左右に回文が書かれている。国立国会図書館所蔵

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