台湾の温泉郷をゆく(前編)――北投温泉開発秘話

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台湾は全国130カ所以上で温泉が湧き出る、温泉パラダイスだ。日本統治時代に温泉郷として整備されたところも多い。歴史、文化、自然、観光などの側面から台湾温泉の魅力を2回にわたって紹介する。前編では台北の奥座敷として知られる北投温泉について、郷土史研究家の楊燁氏へのインタビューも交えながら100年を超える歴史と魅力に迫る。

台湾温泉史の通説を覆した楊燁氏の論考

台湾の温泉郷は、日本統治開始直後の1896年、大阪出身の平田源吾が台北郊外の北投に開いた温泉旅館「天狗庵」(実際には1901年開業)が始まりというのが長年の通説だった。しかし、最近この説に異論を唱えた人物がいる。北投在住の郷土史研究家、楊燁氏だ。

北投在住の郷土史研究家の楊燁氏(筆者撮影)
北投在住の郷土史研究家の楊燁氏(筆者撮影)

「北投で一番早く温泉旅館を開業したのは、実は松濤園(1896年開業)です。平田源吾自身もその著書『北投温泉誌』(1909年)で、『實に松濤園は北投溫泉場に於ける唯一の旅館である』と述懐しています」

松濤園に関する上記の一文は、その文脈から平田源吾が天狗庵を開業する以前で、楊燁氏は、平田が1896年に北投に自宅を購入していることから、これが「天狗庵」開業の時期との誤解を招いたのだろうと推察する。1899年の『台湾日日新報』の平田へのインタビュー記事にも「天狗庵」についての記述は一切無く、この旅館の名が文献に登場するのは1900年以降のことだ。

楊氏のこの論考は、2020年11月に開催された『第10屆臺北學:宏觀與微觀下的臺北百年發展(第10回台北学-マクロとミクロの視点から見た台北百年の発展)』シンポジウム(台北市立文献館主催)にて、「台灣最豪華溫泉文化地景的誕生--日本時代初期北投溫泉史新考(台湾で最も豪華な温泉文化シーンの誕生〜日本時代初期の北投温泉史新考〜)」として発表された。こうして、北投の歴史の一部が塗り替えられることとなった。

主に警察や軍の保養所として発展した温泉郷

しかしながら、北投が台湾の温泉郷の発祥地であること自体に異論を挟む余地はないだろう。台湾縦貫鉄道開通を記念して1910年に作られた『台湾周遊唱歌』には、次の一節が見られる。

硫黄を出(いだ)す 北投は
音に聞ゆる 温泉場
浴(ゆあ)みする人 遊ぶひと  
常に絶えずと 聞くぞかし

日本統治が始まってから15年たった明治末期には、北投は温泉郷として、相当にぎわっていたことが分かる。

台湾の温泉郷は日本統治時代に警察や軍の保養所として発展した場所も少なくない。北投温泉は日露戦争の傷病兵の療養地でもあり、現在の「北投文物館」、かつての「佳山旅館」は終戦まで陸軍士官倶楽部として使われていた。また台湾各地の温泉郷に「警光山荘」という警察の保養施設が今でも存在するのは、日本統治時代の警察療養所が、戦後もそのまま引き継がれたためである。苗栗の泰安、台中の谷関、台南の関子嶺、南投の東埔、および盧山(ただし盧山は2021年1月1日に営業停止)、台東の知本の各地の「警光山荘」がそれに当たる。

日本時代に当時皇太子だった昭和天皇も訪れた「北投温泉公共浴場」。現在は「北投温泉博物」として観光スポットにもなっている(筆者撮影)
日本時代に当時皇太子だった昭和天皇も訪れた「北投温泉公共浴場」。現在は「北投温泉博物」として観光スポットにもなっている(筆者撮影)

また、日本統治時代には、北投、草山(現在の陽明山)、台南の関子嶺、屏東の四重渓は「台湾四大名泉」と呼ばれるようになった。泥温泉として名高い関子嶺には、南部の拠点の警察の療養所があり、四重渓には高松宮親王が新婚旅行で訪れ、今もその宿泊先だった旅館には「太子の湯」の名が残っている。このほか、明治温泉(現在の谷関)、桜温泉(現在の春陽)、富士温泉(現在の盧山、ただし2008年の台風13号の被害により、2012年、南投県政府が温泉街廃業、住民移転を勧告)を指して「台湾中部三大温泉」とも言った。

先住民族が名付けた地名

台湾の温泉の多くは日本統治時代に日本人によって「発見」されたこととなっているが、それは文献上のことに過ぎない。台湾の先住民族は、昔から温泉の存在や効能を知っていた。記録には残っていないものの、地名にはその証拠が刻まれている。

硫黄臭がする北投溪(筆者撮影)
硫黄臭がする北投溪(筆者撮影)

例えば「北投」の台湾語の発音「パッタウ」は、かつてこの地に暮らしていた先住民族ケタガラン族の言葉の「巫女」に由来する。湯煙がもうもうと立ち昇る様からの連想であろう。北投からほど近く、台北最大の夜市で有名な士林の旧称「八芝蘭(パーツーラン)」も、「温泉」を意味するケタガラン族の言葉だ。また、新北市郊外の温泉地「烏来」の華語(台湾の中国語)の音「ウーライ」は、タイヤル族の言葉で「熱い泉」を意味し、花蓮県玉里鎮の温泉地「安通」の華語の音「アントン」は、アミ族の言葉で「硫黄臭」を表す。

戦後に「台湾のハリウッド」となった北投

話を戦後の北投に移そう。1960年代になると、ここで多くの台湾語の映画が撮影されたことから、北投は「台湾のハリウッド」と呼ばれるようになった。北村豊晴監督と蕭力修監督が共同でメガホンを取り、第9回大阪アジアン映画祭でも上映された台湾映画『阿嬤的夢中情人(邦題:おばあちゃんの夢中恋人)』(2013年)は、まさにこの時代をオマージュした作品だ。では、なぜ北投で盛んに映画が撮られるようになったのか。楊燁氏が解説してくれた。

「当時、映画製作会社はほとんど台北にありました。台北に近く、陽明山や淡水にも近い北投は、山や海のシーンを撮影するのに最も適した近場のロケ地だったのです。また、スタッフや俳優たちが寝泊まりするのにも北投はピッタリの条件でした」

この時代の映画に『溫泉鄉的吉他(温泉郷のギター)』(周信一監督、1966年)というヒット作がある。近江俊郎が歌った「湯の町エレジー」をモチーフとしている。台湾語でカバーされた映画と同名の主題歌も大ヒットした。

実は台湾語にカバーされた日本の歌謡曲は少なくない。中でも「快樂的出帆(原曲:「初めての出航」、歌:曽根史郎)」、「媽媽請妳也保重(原曲:「俺(おい)らは東京へ来たけれど」、歌:藤島恒夫)」など、日本ではほぼ忘れ去られてしまった曲が、今でも台湾で歌い継がれている事実は特筆しておきたい。

台湾「流し」発祥の地

北投温泉を語るうえでもう一つ欠かせない要素に、「流し」がある。日本統治時代には、芸妓が三味線を伴奏に歌うお座敷唄と二胡などの中国楽器を伴奏に歌う「賣唱」が共存していた。これらは時代が下るにつれ衰退し、戦後の台湾ハリウッド時代と前後して、客からのリクエストに応じ、ギターやアコーディオンでの弾き語りや客の伴奏を務める「流し」が登場。多くの人が日本の流行歌やその台湾語のカバー曲を酒場で歌って楽しんだ。台湾の流しの起源についても、楊燁氏の教えを請うた。

「台北の士林出身の李釣鯨が、台湾の流しの始祖です。音楽好きで日本に留学したことのある彼が、1956年に北投の酒場でギターの弾き語りをしたことが評判となって広まりました」

1970年代の北投の流しバンド(楊燁氏提供)
1970年代の北投の流しバンド(楊燁氏提供)

また、流し全盛期の1960年代後半から1970年代後半には、陳淑樺、江蕙、黃乙玲といった流し出身の歌手が、次々とスターへの階段を上っていった。

一方、北投は日本統治時代から色街として栄えた。1956年に公娼制度が敷かれたこともあり、戦後も歓楽街としてにぎわった。しかし、1969年に『TIME』誌の北投温泉特集号で米兵が2人の女性と混浴中の写真が掲載され物議を醸し、国際的な心証を損ねるとの理由で政府の規制が入った。この結果、北投温泉は健全化、観光地化の方向へと舵を切ることとなった。1979年に北投の公娼が非合法化、1997年には台北市の公娼制度そのものが廃止となり、今では家族連れも安心して訪れることのできる温泉街となった。

現在、北投では「台湾温泉博物館」「北投文物館」「凱達格蘭(ケタガラン)文化館」「新北投站」等、公営、民営を問わずさまざまな文化施設で土地の記憶を後世に伝え、新たな文化の創造が進んでいる。そして、何より北投の魅力は、泉質にある。活火山である大屯山系の出で湯は、強酸性硫黄泉の「青硫黄泉」、酸性硫酸塩泉の「白硫黄泉」、中性炭酸塩泉で鉄分を含む「鉄硫黄泉」の3種類を楽しめる。個人的には秋田の玉川温泉の泉質に近く、天然ラジウム泉の「青硫黄泉」が好みである。

久し振りに北投公園を散策してみた。かつてのにぎわいはそのままだ。百年以上続く台北の奥座敷は今日も健在である。

後編へ続く

バナー写真=もうもうと湯煙が立ち込める北投温泉地熱谷の前に立つ筆者(馬場克樹氏提供)

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