神戸新聞記者が語る阪神淡路(3):取材か救助か、迷う時間はなかった・社会部記者(当時)浜田豊彦

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【神戸新聞】震災当日の早朝、同僚と一緒に向かった神戸・三宮の繁華街は、異様な静けさに包まれていた。倒れた雑居ビルが、メインストリートの生田新道をふさぐ。くぐもった非常ベルの音が聞こえる。脇道に入る。傾いた建物、垂れ下がった電線、ガスの臭い…。身の危険を感じた。

鉄骨の山の中で、人を引っ張り出そうとしている男性がいた。「ビルの中にいたら、突然たたきつけられた」。そう話していたように思う。ぐったりした人を運び出すのは容易ではない。救出を手伝った。運び出した負傷者の上半身には、細かいガラスの破片とほこりがびっしり。体に触ると痛そうにうめいた。

当時は記者1年目。前年春の入社時に社会部に配属され、神戸市内の警察署を担当していた。「火災や事故現場での救出取材は鉄則」と教わった。だが、その現場にいたのは自分を含め数人。息も絶え絶えの負傷者を前に、「取材」か「救助」か選ぶ余地はなかった。

毛布を担架代わりに、車の通る南の幹線道路を目指す。それでも負傷者を運びながら、取材に徹し切れない後ろめたさがあった。持っていた毛布の端を同僚に託し、一団を離れてシャッターを数回押した。何とか幹線道路までたどり着き、一般の車に負傷者を託した。

神戸の市街地の取材を続けた。長田区一番町2の市立西市民病院は5階部分がつぶれ、多くの入院患者が取り残されていた。5階に到着して進むと、フロアの天井が徐々に低くなっていった。その先の小さなすきまで、救助隊が不明者を捜していた。柱はつぶれ鉄筋がむきだしに。

時々建物が揺れると、白い粉が舞う。怖い。多くの人がヘルメットをかぶっている。無防備だったと後悔した。万が一のときは身が隠せるように、倒れたロッカーのそばにしゃがみ、カメラを構えた。患者が運び出されるたびに大きな声が響く。夢中でシャッターを切った。

深夜、歩いて臨時編集局に戻る途中、他県の母親に連絡していないことに気づいた。心配していると思い、公衆電話でかけた。そっけない反応で拍子抜けした。だが実はその日、母は勤め先を早退し、テレビに映る神戸の街をずっと見ていた。知ったのは、しばらく後のことだった。

記事・浜田豊彦
バナー写真:三宮のビル倒壊現場での救出作業=神戸市中央区(撮影・神戸新聞社)
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