ジーコ・インタビュー(上):「鹿島との出会いが私のサッカー人生を豊かにしてくれた」

スポーツ People

1993年のJリーグ開幕戦のハットトリックから始まり、鹿島アントラーズを常勝軍団に導いた実績、日本代表監督としてドイツW杯出場と、来日した外国人の中でジーコほど、日本サッカー界に大きな足跡を残した人物はいない。日本のサッカーファンに愛され、自身も「第二の故郷」と呼ぶほど日本に深い愛着を持つジーコは、2021年をもって鹿島のテクニカルディレクターを退任、22年からはクラブアドバイザーとしてブラジルからチームをサポートすることになった。そんなジーコに離日前、日本サッカーとのかかわりについて(リモート)インタビューした。

ジーコ ZICO

鹿島アントラーズ・クラブアドバイザー。「ジーコ」とは少年時代からの愛称で、本名はアルトゥール・アントゥネス・コインブラ。1953年3月3日、ブラジル・リオ・デ・ジャネイロ州生まれ。13歳でフラメンゴのユースチームに入団。18歳でトップチームに昇格。81年にはリベルタドーレス杯、トヨタカップに優勝し世界ナンバーワンに輝く。22歳でブラジル代表選出、ワールドカップには78年アルゼンチン大会から3度出場。82年スペイン大会では「黄金のカルテット」の一員として活躍。海外ではイタリアのウディネーゼに在籍し、91年に日本リーグ2部の住友金属と契約。93年Jリーグで鹿島アントラーズを初代ファーストステージ優勝に導く。94年41歳で現役引退。鹿島、ブラジル代表のテクニカル・ディレクターなどを経て2002年から06年まで日本代表監督。その後、トルコやウズベキスタン、ロシア、ギリシャといった国々のクラブチーム監督やイラク代表監督を歴任。18年から21年まで鹿島のテクニカルディレクター。22年から現職。

2体の銅像が意味するもの

茨城県鹿嶋市内には、ジーコの銅像が2体ある。

1体は1994年、ショッピングセンター内の「ジーコ広場」と称されるスペースに、もう1体は96年、“聖地”カシマサッカースタジアムに隣接するカシマスポーツセンターの敷地内に建てられた。

「自分の銅像を作ってもらえるとは思いもしなかった。大変、名誉なことだ」

ジーコは感謝の意を表しつつ、こう続ける。

「ジーコのおかげで今の鹿島がある、と言われることがある。が、もちろん私一人の力ではない。今から30年前、サッカーを通した町おこしという壮大なプロジェクトに賛同し、クラブの立ち上げから力を尽くしてくれた監督や選手、チームスタッフをはじめ、親会社、周辺地域の自治体、スポンサー、応援してくれるファンやサポーターの皆さんがいたからこそ。光栄にも私が銅像のモデルになったが、あの2体の銅像は鹿島に関わるすべての人たちの努力の証し、結晶だと思っている」

鹿島アントラーズはJ1最多の20冠を誇る、自他共に認める名門チーム。2体の銅像は、その礎を築く上で決定的な役割を果たしたレジェンドの功績をたたえてのことにほかならない。

ジーコ広場にある銅像はボールに右足を乗せ、両手を腰に当てた立ちポーズ。現役時代の写真や両手・両足の型、サインなども一緒に展示され、レジェンドの偉大さに触れられる空間になっている。

1994年10月に行われた「ジーコ・カーニバル」と題した引退イベントでお披露目されたジーコの銅像と写真に収まるジーコ ©KASHIMA ANTLERS
1994年10月に行われた「ジーコ・カーニバル」と題した引退イベントでお披露目されたジーコの銅像と写真に収まるジーコ ©KASHIMA ANTLERS

実はこのジーコ像の製作は当の本人にだけ内緒にして進められた。クラブ関係者が周到に準備し、実現したサプライズ企画だった。

「ある日、都内の撮影スタジオに連れていかれて、いろいろなポーズの写真を撮ったんだけれど、それが銅像の元になっていたというのを後から聞かされた。“こうしてほしい、ああしてほしい”と随分、長い撮影だったので、途中からイライラしてしまってね(苦笑)。“いつまでかかるんだ?”と尋ねたら、これは大事な写真だから協力してほしいと。仕方がないなと思いながら撮影に付き合った覚えがあるよ」

引退イベントで銅像の除幕式 

お披露目は1994年10月。同年の夏にスパイクを脱いだクラブレジェンドの労をねぎらい、およそ10日間におよぶ「ジーコカーニバル」と題した引退イベントが行われ、その期間中にジーコ像が公開された。

除幕式にはブラジルから招いたジーコの母親マチルデさんや姉や兄たちもそろって出席。皆、6人きょうだいの末っ子であるジーコの鹿島での輝かしい足跡に目を細めていた。

「ジーコ・カーニバル」に招かれ、ブラジルから来日し、イベントに参加したジーコの家族たち(前列右端からサンドラ夫人、兄、母、姉、次男) ©KASHIMA ANTLERS
「ジーコ・カーニバル」に招かれ、ブラジルから来日し、イベントに参加したジーコの家族たち(前列右端からサンドラ夫人、兄、母、姉、次男) ©KASHIMA ANTLERS

「父親はすでに他界していたので、引退イベントに来られなかったけれど、家族みんなが喜んでくれた。楽しいひとときを過ごすことができたし、日本でのいろいろな思い出がよみがえって感慨深いものがあったよ」

カシマサッカースタジアム前の広場に置かれた、もう一つのジーコ像はプレー中のワンシーンを模している。右足アウトサイドでボールに触れているポーズだが、今にも動き出しそうな雰囲気が漂う。

「一緒に撮ろう」

そう言いながら、ジーコ像の前で写真を撮る人たちが少なくない。試合観戦に訪れた鹿島のファンやサポーターはもちろん、時折アウェイチームのユニフォームを身にまとう人たちも見かける。鹿島の象徴であるジーコは、クラブの枠を超え、サッカーを愛するたくさんの人たちからリスペクトされる存在なのだろう。

ちなみに、ジーコの銅像はブラジルのリオデジャネイロ市内にも2体ある。

その一つがジャンピングボレーの瞬間を模した銅像だ。かつてはリオのマラカナンスタジアムに置かれていたが、現在はジーコの古巣フラメンゴに移設されている。そしてもう1体もフラメンゴのトレーニング施設のそばにある。

こうした事実一つとっても、彼は日本でもブラジルでもサッカー界に多大な貢献をしたレジェンドとして敬意を払われ、愛されていることがうかがえる。

1982年W杯スペイン大会の予選リーグ、ニュージーランド戦でゴールを決めて喜ぶジーコ(1982年6月23日) Reuters Marketplace -Action Images
1982年W杯スペイン大会の予選リーグ、ニュージーランド戦でゴールを決めて喜ぶジーコ(1982年6月23日) Reuters Marketplace -Action Images

スポーツ担当相を辞任し、現役復帰

世界の第一線で活躍したジーコが縁もゆかりもない茨城県の鹿島町(当時)にやってきたのは、今からさかのぼること31年前の1991年5月。すでに現役を引退し、ブラジルの初代スポーツ担当大臣の要職に就いていたが、再びピッチに戻ってきた。

日本サッカー界初のプロリーグの発足に大いなる可能性を感じ、オリジナル10(Jリーグ初年度の参入10チーム)に選ばれた企業チームの住友金属工業蹴球団(以下、住金)からのオファーを受け入れ、3年契約を結んだ。このとき38歳。当時の心境をジーコはこう打ち明ける。

1991年5月21日、住友金属に入団、新宮康男社長とともに背番号10を披露した 共同
1991年5月21日、住友金属に入団、新宮康男社長とともに背番号10を披露した 共同

「選手としてどれだけ貢献できるのか、正直、難しいだろうなと思っていた。だが、(住金と周辺自治体が推し進めていた)サッカーを通じた町おこしのプロジェクトに非常に共感したし、自分が長年、サッカー界で培ってきた知識や経験が一からプロ化を進めるチームの手助けになるだろうと考えていた。私のサッカー人生は挑戦の連続だが、このプロジェクトにやりがいを感じ、心を動かされるものがあった」

鹿島に注入したジーコイズム

1991年7月、一般公募によってクラブ名が鹿島アントラーズに決まった。10月1日に正式にクラブが法人化され、92年春にはロゴマークやエンブレムなども発表。クラブハウスやカシマサッカースタジアムの建設が始まり、クラブを取り巻く環境が着々と整えられていく。

勝負の世界の厳しさを知り尽くすジーコの提言や指摘はピッチ内外に及んだが、アマチュアからプロに変わっていく鹿島にまず植え付けようとしたのは「チームの勝利がすべてに優先される」というマインドだ。

「Jリーグの歴史を振り返る時、もし、各シーズンに1行ずつしか記載するスペースがなかったら、そこに書かれるのは優勝チームの名前だけだろう。2位や3位も素晴らしい結果かもしれないが、歴史に名を刻んでいくにはやはりタイトルが必要なんだ」

91年9月から92年3月にかけて行われた日本サッカーリーグ2部のラストシーズンを住金の一員として戦ったジーコは、リーグ得点王を獲得。2部優勝は果たせなかったものの、チームをリーグ2位に押し上げる原動力となった。

Jリーグ開幕を翌年に控え、その前哨戦ともいえる92年のナビスコカップ(現ルヴァンカップ)で、ジーコ率いる鹿島はベスト4にまで勝ち進んだ。負けず嫌いのカリスマはまったく満足していなかった。タイトルを獲れなかったことを心底、悔しがった。

そして迎えた93年5月16日、地元カシマスサッカータジアムで行われた記念すべきJリーグ開幕戦は、86年のメキシコワールドカップ得点王リネカーを擁する名古屋グランパスエイトと激突。ジーコはそのとき40歳ながら、Jリーグ第1号となるハットトリックを達成し、5-0の快勝の立役者となった。

1993年Jリーグ開幕戦の名古屋戦でハットトリックを達成し、アルシンドと抱き合って喜ぶジーコ 共同
1993年Jリーグ開幕戦の名古屋戦でハットトリックを達成し、アルシンドと抱き合って喜ぶジーコ 共同

日本サッカー界初のプロリーグであるJリーグの開幕に海外メディアも高い関心を寄せ、多くの取材陣が来訪。ジーコのハットトリックのニュースは世界中を駆け巡った。

1993年Jリーグ開幕戦の名古屋戦で86年W杯メキシコ大会得点王のゲリー・リネカー(右)と健闘をたたえあうジーコ(1993年5月16日) Reuters
1993年Jリーグ開幕戦の名古屋戦で86年W杯メキシコ大会得点王のゲリー・リネカー(右)と健闘をたたえあうジーコ(1993年5月16日) Reuters

Jリーグ初年度は2ステージ制で行われた。前期にあたるサントリーシリーズを制したのが鹿島だった。2試合を残し、初代ステージ王者の称号を得た。

チームの要であるジーコは度重なるケガによって3試合しか出場していない。だが、大黒柱を欠きながらもステージ優勝にたどり着いた事実を誰よりもジーコ自身が喜んだ。

「チームが一丸となって成し遂げた。それは私が理想とする姿でもある」

勝負に徹底的にこだわる「ジーコイズム」は鹿島の基盤だ。今もなおクラブの変わらぬ哲学として継承されている。

「ジーコは創造主」

「初めて鹿島に来た時から30年が経つが、これほど長く鹿島で仕事をするとは当時は思ってもみなかった。私の考え方やアドバイスを尊重し、受け入れてくれた鹿島の人たちに感謝している。おかげで揺るぎない信頼関係を築くことができた。それが何より大きい。鹿島との出会いが私のサッカー人生を本当に豊かにしてくれた」

1991年にジーコが企業チームの住金に加入した時、監督だったのが鹿島で強化部長、フットボールダイレクターなどを務めた鈴木満氏だ。プロとは何か、プロの選手とはどうあるべきか。鹿島が歩むべき道筋を、創造主ジーコが照らしてくれたと言う。鈴木氏は当時をこう振り返る。

「鹿島を強くしたいと本気で考えていたし、その情熱がヒシヒシと伝わってきた。ジーコが言わんとすることを聞き逃さないよう、すべてを吸収しようと思っていました」

今となってはにわかに信じられないエピソードがある。Jリーグ開幕前の話だ。都内に居を構えたジーコは鹿島での練習のために電車と高速バスを利用していたのだ。

「フラメンゴの下部組織にいた頃の感覚を思い出していたよ。(リオ郊外の)家から練習場まで電車やバスをよく利用していたから(笑)。私自身、電車に乗るのが好きなので、鹿島までずっと電車でもよかったけれど、自宅から東京駅まで電車で行って、そこから高速バスに乗っていた。通勤ラッシュの時間帯にぶつかることもあったけれど、こうした日本での生活を楽しんでいたよ(笑)」

94年の夏に現役を退いたジーコはいったんブラジルに戻っていたが、96年にテクニカルディレクターとして鹿島に復帰。同年のJリーグ初制覇を皮切りに次々にタイトルを積み重ねていく鹿島をピッチの外から支えた。

そして、2002年夏に新たな挑戦が始まることになった。

常勝軍団鹿島を育て上げた手腕を高く評価されたジーコは、日本代表監督に就任。2006年ドイツワールドカップを目指し、日本サッカー界の発展のために力を尽くすことになったのだ。

バナー写真:東京五輪2020の聖火ランナーを務め、自身の像の前で記念撮影するジーコ(中央)と元鹿島アントラーズの中田浩二、名良橋晃、本田泰人、鈴木隆行の各氏(右から)2021年7月4日、茨城県鹿嶋市 [代表撮影]時事

以下、ジーコ・インタビュー(中):「忘れられないのは、アジアカップのヨルダン戦」に続く。

参考サイト

鹿島アントラーズ長編ドキュメンタリー「FOOTBALL DREAM 鹿島アントラーズの栄光と苦悩」

Jリーグ ジーコ 鹿島アントラーズ 住友金属 ブラジルサッカー