ジーコ・インタビュー(下):「日本には、本当に感謝しかない」

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アジアカップ連覇を達成し、中田英寿、中村俊輔、稲本潤一、高原直泰、中田浩二ら欧州組の多彩な戦力を擁し、過去最強の呼び声も高かったジーコジャパン。2006年のドイツワールドカップは、前回日韓大会のベスト16を上回ることを期待されたが、結果はグループリーグ敗退に終わった。ドイツ大会をジーコはどう思っていたのか。そして、長きにわたって関わった日本サッカーへの思いとは?

ジーコ ZICO

鹿島アントラーズ・クラブアドバイザー。「ジーコ」とは少年時代からの愛称で、本名はアルトゥール・アントゥネス・コインブラ。1953年3月3日、ブラジル・リオ・デ・ジャネイロ州生まれ。13歳でフラメンゴのユースチームに入団。18歳でトップチームに昇格。81年にはリベルタドーレス杯、トヨタカップに優勝し世界ナンバーワンに輝く。22歳でブラジル代表選出、ワールドカップには78年アルゼンチン大会から3度出場。82年スペイン大会では「黄金のカルテット」の一員として活躍。海外ではイタリアのウディネーゼに在籍し、91年に日本リーグ2部の住友金属と契約。93年Jリーグで鹿島アントラーズを初代ファーストステージ優勝に導く。94年41歳で現役引退。鹿島、ブラジル代表のテクニカル・ディレクターなどを経て2002年から06年まで日本代表監督。その後、トルコやウズベキスタン、ロシア、ギリシャといった国々のクラブチーム監督やイラク代表監督を歴任。18年から21年まで鹿島のテクニカルディレクター。22年から現職。

「史上最強チーム」に膨らんだ期待

「世界を驚かす」――。

2006年のドイツワールドカップに向けて、ジーコジャパンが掲げたこのキャッチフレーズは代表チームの自負の表れとともに、周囲からの期待の大きさを物語っていた。

個性豊かな面々がそろい、何しろ「日本サッカー史上最強」の呼び声も高かった。

円熟味を増す中田英寿を筆頭に、エースナンバーの10番を背負う中村俊輔、黄金世代と称される稲本潤一、高原直泰、中田浩二など、海外組がずいぶん増え、ヨーロッパでのプレーを経て、Jリーグに復帰していた柳沢敦や小野伸二も代表メンバーに名を連ねていた。

06年5月15日、ドイツワールドカップに臨む登録23選手を発表したジーコ監督は、本大会が近づくにつれ、こう言って自信をのぞかせていた。

「これまで自分たちが積み上げてきたものを全て出し切るだけだ。ワールドカップの開幕が待ち遠しいよ」

絵空事ではない、本当に、世界を驚かすのではないか。大会直前の5月30日に行われた開催国ドイツとのテストマッチで善戦(2-2)したこともあって、ジーコジャパンへの期待に拍車がかかった。

「ボールがよく動いていたし、チャンスも多く作っていた。強豪のドイツにこれだけのパフォーマンスが見せられたことをポジティブにとらえたい。結果はともかく、内容には満足している」

W杯ドイツ大会直前に行われたドイツとの親善試合前、集合写真に収まる日本代表先発メンバー(2006年5月30日、ドイツ レバークーゼン)Reuters
W杯ドイツ大会直前に行われたドイツとの親善試合前、集合写真に収まる日本代表先発メンバー(2006年5月30日、ドイツ レバークーゼン)Reuters

当時、ジーコ監督はますます、自信を深めていたに違いない。彼のサッカーに対する考え方はいたってシンプルだ。

「日本のように身体的な強さや高さが劣っていても、対戦相手のそれが同等以下なら弱点にはならない。空中戦が得意な相手に対しても、それを繰り返すような状況を作らせないことで、自分たちの弱点を隠せる。逆に、どんなに身体的な強さや高さに自信があっても、それを上回る相手がきたら、それが弱点になりかねない。チームの強みや弱みはいつでも相対的なものなんだ」

相手の土俵ではなく、いかに自分たちの土俵に引き込んで戦えるか。それが一つの勝負の分かれ目になると、常々、語っていた。

「日本には高い技術がある。ボールを動かす力は強豪国にも引けを取らない。一人一人が献身的に、粘り強く戦えることも日本人の美徳。自分たちの持ち味を発揮できれば、どんな相手がきても十分に勝機を見出せる」

待ち受けていた衝撃的な現実

ドイツワールドカップの目標を聞かれるたびに「グループリーグ突破」と、現実的なコメントに終始していたジーコ監督だが、その一方で「ワールドカップに出る以上、頂点を目指す。それが当然」という考え方の持ち主でもあった。

「勝負の世界では何が起こるか、全く分からない。優勝するなんて無理だ。そう自分たちで決め付けてしまったら何も起こせない。どこまで本気になって、高い目標にチャレンジできるか。そこが問われる。まずは自分たちの力を信じることだよ」

W杯ドイツ大会で記者会見に臨むジーコ(2006年6月17日、ドイツ ニュルンベルグ)Reuters
W杯ドイツ大会で記者会見に臨むジーコ(2006年6月17日、ドイツ ニュルンベルク)Reuters

しかしながら、勇んで臨んだドイツの地で、待ち受けていた現実はあまりにもショッキングなものだった。

2006年6月12日、灼熱(しゃくねつ)のカイザースラウテルン。グループリーグ初戦の豪州戦に臨んだジーコジャパンは26分に中村俊輔のラッキーゴールが決まり、1-0で試合を折り返したものの、終盤8分あまりの間に3点を奪われ、よもやの逆転負けを喫した。

空中戦を得意とする選手を次々に投入し、パワープレーを仕掛けてきた豪州。日本は追加点を奪おうと攻めに出たが、かえって中盤が間延びしてしまい、こぼれ球を拾えない。ボールを保持できず、日本の優位性が消えた。

ジーコ監督は「2点目を取るチャンスがなかったわけではない。そこを決めきれなかった」と、心底、悔やんだ。試合終盤の戦い方を統一できず、相手の土俵に引き込まれてしまったことも敗因だった。

黒星スタートの豪州戦から6日後。ニュルンベルクでのクロアチア戦では攻勢に出たが、健闘むなしくスコアレスドローに終わる。22分、PKのピンチを守護神の川口能活がスーパーセーブでしのいだ。52分、右サイドをワンツーパスで抜け出した加地亮からのクロスをゴール前の柳沢敦が正確にとらえられず、枠を外した。

1998年のフランスワールドカップでは0-1で惜敗しているクロアチアに対し、互角の戦いを見せたものの、勝ちきるまではいかなかった。

もうあとがない。

それでも3戦目のブラジル戦で2点差以上で勝てば、グループリーグ突破の可能性を残していた。6月22日、ドルトムントでのブラジル戦ではスタメンを大きく入れ替えた。

その2日前、代表チームの応援拠点としてボンに設置されていたG-JAMPSを訪れたジーコ監督は「崖っぷちに立たされた時、いかにはい上がっていくか。自分たちの力が試される。ファンやサポーターからの熱い応援メッセージを見て、感激した。この思いをブラジル戦につなげたい」と、決意を新たにした。

試合は34分に動く。

ブラジルの猛攻に耐えていた日本が何と先制したのだ。背後のスペースにタイミングよく抜け出した玉田圭司が豪快なシュートを突き刺し、“サッカー王国”の頬を引っぱたいた。

W杯ドイツ大会予選リーグ、対ブラジル戦で先制ゴールを決めた玉田(中央) 2006年6月22日(ドイツ ドルトムント)Reuters
W杯ドイツ大会予選リーグ、対ブラジル戦で先制ゴールを決めた玉田圭司(2006年6月22日 、ドイツ ドルトムント)Reuters

だが、喜びもつかの間。前半のアディショナルタイムに同点弾を決められ、後半さらに3失点し、万事休す。ロナウド、ロナウジーニョ、カカといった世界に名をとどろかすスーパースター軍団に力の差を見せつけられた。

日本対ブラジル戦、ゴールを決めるロナウド。GKは川口(2006年6月22日、ドイツ ドルトムント)Reuters
日本対ブラジル戦、ゴールを決めるロナウド。GKは川口能活(2006年6月22日、ドイツ ドルトムント)Reuters

ドイツW杯の1次リーグ対ブラジル戦。試合終了後、1次リーグ敗退にぼうぜんとするジーコ監督ら日本ベンチ(ドイツ・ドルトムント)2006年06月22日 時事
ブラジル戦は1-4で敗れ、グループリーグ敗退が決定。ぼうぜんとするジーコ監督ら日本ベンチ(2006年6月22日、ドイツ ドルトムント)時事

「結果の責任はすべて私にある」

試合後、中田英寿はピッチに倒れ込んだままだった。精魂尽き果てたかのように。いや、やるせない思いのほうがはるかに強かったかもしれない。

1分け2敗で、グループリーグ敗退。世界を驚かすというジーコジャパンの意気込みはむなしく打ち砕かれ、膨れに膨れ上がった期待がはじけた瞬間、大きな失望へと変わった。

「たら」「れば」が頭をよぎる。

豪州戦でのPKが見逃されていなければ(後半40分過ぎにペナルティエリア内で駒野友一が足を引っ掛けられたシーン)、クロアチア戦での最大の好機を逃していなければ――。

「思い描いていた結果を残せなかったが、1試合1試合、全力を尽くした。そこについて後悔はないし、恥じることもない。評価するのは周りなので、“ジーコ監督ではダメだった”と言われれば、それを甘んじて受け止める。結果の責任はすべて私にある」

悲嘆に暮れたドイツ大会以降、日本は2010年の南アフリカ大会でベスト16、14年のブラジル大会でグループリーグ敗退、そして18年のロシア大会でベスト16と、ワールドカップ常連国になったとはいえ、世界の壁は厚い。

日本に必要なのは、問題解決能力と失点のとらえ方

「20年前、私が代表監督になった時、日本のトップレベルの選手たちにもっと考える力を身につけてほしいと思い、あまり細かいことを言わず、自由を与えた。なかなか理解されない部分があったかもしれないが、今では自分で考えるというのが当たり前になっているのではないか。サッカーは1回1回、プレーが止まらず、どんどん流れていくので、監督の指示をのんびりと待っている時間がなく、瞬時に対応しなければいけない。問題解決力というか、そういう力をどんどん磨いてほしいと思っていた」

そして、もう一つが「失点のとらえ方」だ。

「前回ロシア大会のベルギー戦がいい例かもしれない。日本は2点をリードしながら、その後、追いつかれ、アディショナルタイムに3点目を与えてしまった。2-1になった時点で、みんなが不安になっていたようだが、考えてみてほしい。試合の中で、失点というのは起こり得ること。相手のシュートがうまかったり、自分たちのミス絡みだったり、そこにはいくつかの理由があるだろうけどね。現実に起こり得ることに対して、いつまでも悔やむ必要はない。引きずっていたら、プレーが消極的になって、相手を勢いづかせてしまうだろう。ドイツ大会の豪州戦でも起こったが、失点後のメンタルコントロールはまだまだ改善の余地があるのではないかと感じているよ」

日本代表監督を退任したあと、トルコやウズベキスタン、ロシア、ギリシャといった国々のクラブチームで監督を歴任したジーコは、一時期イラク代表監督も務めていた。2014年のブラジル・ワールドカップに向けたアジア最終予選で、“古巣・日本代表”と同組となり、対戦しているのだから奇遇としか言うしかない。

「アジアの中で、日本は今、頭一つ抜け出た存在だ。海外でプレーする日本人選手も驚くほどに増えた。Jリーグが開幕して以降、日本サッカーの急速な進歩を明らかに示している。いろいろな国で仕事をしてきたけれど、勤勉で吸収力のある日本人の仕事ぶりにはいつも感服するばかりだ」

クラブアドバイザーとしてブラジルから鹿島をサポート

日本とジーコを結ぶストーリーは続く。

2018年夏に鹿島アントラーズのテクニカルディレクター(TD)として復帰。同年にAFCアジアチャンピオンズリーグ初制覇を飾っているが、クラブの悲願であるアジアの頂点に立つ瞬間を、現地イランで見届け、満面の笑みを浮かべた。

2019年AFCチャンピオンズリーグ、鹿島対済南(中国)戦の前日、ベンチで笑顔を見せるジーコ・鹿島テクニカルディレクター(2019年3月11日)Oriental Image via Reuters Connect
2019年AFCチャンピオンズリーグ、鹿島対山東魯能(中国)戦の前日、ベンチで笑顔を見せるジーコ鹿島テクニカルディレクター(2019年3月11日、済南オリンピックスポーツセンター)Oriental Image via Reuters Connect

「日本という国が私のサッカー人生を豊かなものにしてくれた。本当に感謝しかない」

21年シーズン終了をもって、鹿島のTDを退任。22年からは、クラブアドバイザーとしてブラジルから鹿島の側面支援を行う。日本から見れば、地球の真裏にあたるブラジルに戻ることになったが、鹿島との関係性が途切れるわけではない。異なる立ち位置で、チームをサポートしていく。

ジーコはどこにいようとも、日本サッカーの、鹿島の、さらなる発展を祈ってくれることだろう。そして、こう言うに違いない。

「何かあったら、いつでも呼んでくれ。ブラジルからすぐに飛んでいくよ!」

カメラマンに手を振るジーコ(2021年)©KASHIMA ANTLERS
カメラマンに手を振るジーコ(2021年)©KASHIMA ANTLERS

バナー写真: 中南米諸国外遊でブラジルを訪れた安倍首相から「感謝」と書かれた記念品を贈呈されたジーコ 2014年8月1日(ブラジリア)時事

ジーコ・インタビュー(上):「鹿島との出会いが私のサッカー人生を豊かにしてくれた」
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