忘れられた台湾人日本兵の生きた証を掘り起こす:台湾人研究家のライフワーク
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台湾史を学べなかった世代を引き寄せた「南洋」
陳さんは1983年生まれ。幼いころから歴史マニアで、『三国志』など中国史に関する本を読んだり、軍が制作したドキュメンタリーを見たりするのが好きだった。陳さんは小学校から高校にかけて、授業で「台湾史」を習ったことがない世代の一人だ。自国の歴史で学んだことと言えば、8年間にわたる抗日戦争の歴史や国軍の兵士がどれだけの犠牲を払ってきたかなど、中華民国の歴史だけ。日本統治時代の台湾について習ったのは、1915年に漢民族が中心となった抗日武装事件「タバニー事件」などで、それ以外の出来事についてはほとんど触れる機会がなく、陳さん自身も日本統治時代について特段意識したことはなかったという。
そんな中、台湾の歴史に興味を抱き、大学院進学に向けて研究テーマを考えた際に思い浮かんだのが「南洋」だった。それまでにもテレビ番組で南洋という言葉を聞いたり、親族がかつて南洋に行っていた話を聞いていた。実際にどういう場所なのか知らないながらも、漠然と神秘的でエキゾチックな印象があり、台湾人がなぜ、どうやって南洋に赴き、何をしたのか、新聞や雑誌など当時の出版物にあたって調べてみることにした。
図書館や資料館のマイクロフィルムなどに残されていた記事は陳さんを魅了した。熱帯性気候、山地や森林の中など過酷な環境下でも高い能力を発揮した台湾人日本兵の勇敢さを伝える報道は「ストーリー性があり、もっと他に記事はないのか、それは事実だったのか、さらに知りたくなるようなものだった」という。だが、実際に調査を重ねて分かったのは、記事は日本軍や台湾総督府とメディアによって操作されたプロパガンダの性格が強く、事実とは全く違っていたということだ。
また、台湾人日本兵の多くは志願兵で、自らの意志で国のために奉公したとされていたが、実際には半ば強制的な動員があった。もちろん、自ら志願した人がいたのも事実だが、台湾の若者が日本兵になったのには、それぞれの事情と決断があり、彼らを一括りにしたり、レッテルを貼ったりすることはできないと感じた。「『日本に洗脳された』と断定するのは、公正さを欠くと思った」とも。
こうして、陳さんの台湾人日本兵の実態についてさらに深く研究する日々が始まった。
取材活動は時間との戦い
戦後、60年以上が経過し、日本統治時代を知る人は少なくなっている。初めはどのようにして台湾人日本兵を探そうかと悩んだが、幸運にも義理の叔父の父親が海軍志願兵で、話を聞くことができた。また曽祖父の弟が1944年11月に米軍の魚雷攻撃を受けて沈没した護国丸の生還者だったことが判明。研究対象は意外にも自分の身近にいた。その後、曽祖父の弟の紹介や30〜40年前に作成された戦友名簿などを頼りに、多くの台湾人日本兵や少年工、家族に会うことができた。2007年からこれまでに取材をしたのは100人以上に上る。
戦友名簿にある住所を訪ね、その場で取材交渉することもあったが、たいていは本人もその家族も、熱心に話をしてくれたという。彼らはそれまで自分の経験を誰かに話す機会がなく、「もし聞いてくれる人がいれば、話をしたかった」ということだ。参戦によって忘れることのできないつらい経験をし、涙ながらに思いを語った人もいた。陳さんは、「話をすることは彼らにとって、一種の癒しになったようだ」と語る。
取材対象者に会うため、台湾全土を駆け回った。交通費や滞在費は基本的に自己負担だ。相手はいずれも高齢者なので、健康状態や取材による肉体疲労をも考慮しなければならず、どれだけ多くの情報を得られるか、時間との戦いが続いた。ある年の5、6月に取材を始めた対象者が、その年の11月に亡くなってしまい、聴き取りが終えられないケースもあった。
やっとの思いで書き上げた修士論文は、2013年に『軍艦旗下:臺灣海軍特別志願兵(1943-1945)』として書籍化された。また18年には護国丸に乗船していた台湾人日本兵に焦点を当てた『護國丸:被遺忘的二戰臺籍日本海軍史』を出版し、台湾で忘れ去られていた彼らの存在を改めて多くの人に知ってもらう契機となった。

台湾人日本兵についてまとめられた陳さんの著書。そのほか複数の媒体にも寄稿している
研究を続ける中で、思いがけない貢献もできた。戦死した台湾人日本兵の子供たちが、父親がどこに出征し、どんな最期を迎えたのか、陳さんの研究成果を通じてようやく知ることができたというのだ。大黒柱を失った家庭では戦後、父親の話をすることがタブーとなっていたところも少なくなかった。子供たちは何十年にもわたって父親について多くの情報を得ることはできなかったが、父親に関する具体的な証言を得られ、ようやく心残りを晴らすことができた。陳さんは「役に立ってよかった」と喜ぶ。
当時の様子を伝える資料も収集
また、陳さんは取材を続けると同時に、台湾人日本兵や少年工に関連する写真や手紙、日記、出版物などの収集にも取り組んでいる。私費を投じてこれらを収集する理由は、台湾には中華民国の軍事博物館はあるものの、日本統治時代の視点から見た戦争博物館がなく、価値のある資料が散逸してしまっていることにある。台湾を中華民国が統治している以上、公的機関が台湾人日本兵などに関する専門の博物館や資料館を開設するのは、現段階では実現性に乏しい。それゆえ、陳さんのような個人による収集は、台湾人日本兵の歴史を伝える上で欠かせない貴重なものとなっている。
軍服に身を包んだ凛々しい姿を記念に残そうと、戦友と一緒に写真館で撮影したポートレートや、家族への思いを日本語ではがきいっぱいに書き記した手紙からは、当時の若者の実像がリアルに伝わってくる。あどけない顔や手書きの文字を見れば、台湾人日本兵や少年工にも、われわれ同様に青春があり、家族がいて、生活があったことを現実のものとして思い起こさせてくれる。陳さんが資料収集のためにこれまでに投じた額は「家族に怒られるから言えない」と笑うが、貴重な資料をきちんと残しておきたいという切実な願いから収集を続けている。

台湾人日本兵関連の資料の収集に、個人収集家は重要な役割を果たしている
陳さんは、さらに多くの日本人にも台湾人日本兵の存在を知ってもらいたいと語る。
「もしかしたら、今の若い人たちは興味がないかもしれない。でも彼らは終始日本を忘れることはなかった。彼らが若い時は日本を信じ、命を犠牲にした人もいたのに、戦後は孤児のようになってしまった」
さらに、戦後は国民党から元敵国の軍人とみなされ、肩身の狭い思いをした人たちも多く、その後の人生に大きな影響を与えたと陳さんは言う。
陳さんは現在、開館準備が進む国家(国立)鉄道博物館の研究助手として働きながら、国立台湾師範大学歴史学部の博士課程に進学し、自身の研究を続ける。修士論文に書ききれなかった多くの口述歴史がある他、書籍の出版を機に、さらに多くの台湾人日本兵やその家族とつながりができた。
「まだまだ取材できる人がおり、歴史に埋もれた物語を掘り起こすことができる」として、今後は台湾人日本兵と家族の戦後の人生について調査を進める計画がある。台湾人日本兵一人一人にスポットを当てることで、彼らが確かに存在したことを明らかにし、彼らを取り巻く誤解を解きたいと考えている。
写真は全て陳柏棕さん提供
バナー写真=元台湾人日本兵を取材する陳柏棕さん(右)


