たいわんほそ道~新竹県北埔、受け継ぎ生み出す、客家の街をあるく : 廟前街~北埔街

文化 歴史

道とすべきは常の道にあらず。いにしえに生まれた道をさまよいつつ、往来した無数の人生を想う。時間という永遠の旅人がもたらした様々な経験を、ひとつの街道はいかに迎え入れ、その記憶を今、どう遺しているのだろう? 100年の歴史をもつ旧道をあるく連載紀行エッセー、今回は台湾新竹県の山あいにある客家のまち「北埔」をあるき、先達の残したものを新たな創造に繋げていく人々に出会う。

重なる台湾と青森の写真

ちかごろ知り合った青森出身の方が、お父上の写真集を出版されたという。なんでも、押し入れから出てきた大量のネガフィルムを現像しSNS「Instagram」(@shoichi_kudo_aomori)にあげたところ、世界中からフォロワーが集まり大きな反響を得たのがきっかけらしい。

写真を見て驚いた。1950年代の青森を「呼吸」していた人々が70年を超えてそこに「いる」。地面を埋め尽くす絨毯のようなリンゴの中で笑うリンゴ農家の女性。未舗装の土の道に立ちならぶ電信柱や家屋の前でゴム玉のように弾む子供たち。足元に転がってきたボールを拾って投げ返すぐらいの距離感で、笑い声まで聞こえてきそうだ。生命力に充ちた風土の活写は、日本統治時代の台湾画家らの絵を彷彿とさせる。

写真家の名前は工藤正市氏(1929―2014)。仕事の合間に地元・青森を撮りつづけていたが、家族にさえ写真のことは知らせぬまま生涯を終えた。

工藤正市さんが、1950年代の青森で撮った1枚。リンゴの収穫作業中の女性たち。(@shoichi_kudo_aomori)
『青森 1950-1962 工藤正市写真集』より リンゴの収穫作業中の女性たち(@shoichi_kudo_aomori)

工藤正市氏のエピソードから連想したのが、日本統治期から戦後にかけての重要な写真家として知られる鄧南光である。ちょうど雑誌『東京人』(2022年3月号)に寄稿するため、息子の鄧世光さんにインタビューしたばかりだった。世光さんが大量の未現像ネガフィルムを発見したのも、鄧南光が1971年に亡くなったあとのことだ。現像してみると、思いがけず何百枚にも上る未発表の東京留学時代の写真が出てきた。鄧南光が戦前の東京をそんなにも多く写真に収めていたとは露知らず、世光さんも驚いたという。

鄧南光の長男、鄧世光さん。台北郊外の自宅にて。
鄧南光の長男、鄧世光さん。台北郊外の自宅にて。

そこから台湾人写真家の簡永彬氏が60枚を選び、台北と東京で写真展が開催されたのは台湾民主化後の1990年代だった。そして最近ふたたび、かの作品たちは歴史研究者らの手でカラー写真として甦り、あらためて鄧南光という写真家の再評価が進んでいる。

新竹客家の北埔姜家

鄧南光が生まれ育ったのは、客家文化ゆたかな新竹県北埔。17世紀ごろから台湾西部の平地を開拓した河洛(ホーロー)人より遅れて渡ってきた客家の人々は、原住民族が暮らす山あいの丘陵地に生きる空間を求めた。もともとサイシャット族やタイヤル族が暮らしていた北埔に、1835年、開拓武装組織の拠点「金廣福」が置かれ、その周辺の北埔郷や寶山郷、蛾眉郷、苗栗県南庄の開拓を進めたのである。

「金廣福」のリーダー格だった広東恵州出身の客家・姜秀鑾の子孫はその後、アヘン戦争や清仏戦争、抗日戦争「乙未戦争」に参戦したほか、日本統治期より本格化した台湾茶葉産業に関わるなど新竹苗栗エリアの経済や政治に絶大な影響力をもち、激動の台湾史に深く関わったことから「北埔姜家」と呼ばれる。

鄧南光もそうした北埔姜家の流れを汲むが、父・鄧瑞坤が母方の鄧家を継いだため鄧姓となる。北埔にある鄧南光の記念館「鄧南光影像紀念館」の建物はかつて「世源醫院」という診療所で、鄧南光の甥(兄の息子)が開いたものだ。

元・世源医院の建物、現在「鄧南光影像紀念館」のあるY字路。
元・世源医院の建物、現在「鄧南光影像紀念館」のあるY字路。

開催中の写真展が語る台湾の100年

ゆったりした敷地に大きなガジュマルが枝葉をのばす記念館では、カラー写真集《彩繪鄧南光:還原時代瑰麗的色彩》を手掛けた作家の王佐榮さんがキュレーションし、台湾郷土史家の王子碩さんが彩色した鄧南光の写真展「時代之眼」がちょうど開催されていた。関東大震災の復興から近代都市文明の開化、モダニズム文化の爛熟と戦争の足音、更には台湾の皇民化運動や台湾人名士の出征パレード。故郷北埔の人々の記録と共に、約100年前の日本が繁栄と熱狂を経て破滅にむかう姿と、戦後に台湾が迎える大きな混乱への予感が生々しく浮かび上がる。

《武運昂然》1945年中壢の名士、呉鴻麒・呉鴻煎兄弟の出征を祝うパレード。呉鴻麒はこの二年後に二二八事件で虐殺される。(《彩繪鄧南光:還原時代瑰麗的色彩》より)
《武運昂然》1945年中壢の名士、呉鴻麒・呉鴻煎兄弟の出征を祝うパレード。呉鴻麒はこの二年後に二二八事件で虐殺される。(《彩繪鄧南光:還原時代瑰麗的色彩》より)

記念館をあとにし、街の中心部にある北埔慈天宮にむかう。開拓に際して伝統領域を侵された原住民族からの報復で亡くなった人々の供養のため、1840年姜秀鑾が建立した廟で、観音菩薩や客家の守護神「三山国王」が祀られ、北埔の人々の信仰の拠り所となっている。

鄧家の本家は慈天宮前にのびる北埔街沿いにあったといい、鄧南光も息子の世光さんもそこで産まれた。台北育ちの世光さんにとって、夏休みや春休みのたびに長期滞在した北埔は少年時代の思い出が詰まった場所だ。実家の二階から撮影したと思われる鄧南光の作品にあるとおり、中元節といった大きな祭りの度に、慈天宮前での伝統劇の興行を見るため近隣から多くの人が詰めかけ、露天が立ち並び賑やかであったという。

《平安大戲》北埔街廟前街口の秋祭りの伝統劇(《彩繪鄧南光:還原時代瑰麗的色彩》より)
《平安大戲》北埔街廟前街口の秋祭りの伝統劇(《彩繪鄧南光:還原時代瑰麗的色彩》より)

茶業の栄枯盛衰

慈天宮の廟前街の並びには、2021年に台湾で話題となった歴史ドラマ「茶金」のモデルとして一躍脚光を浴びた伝説的茶商・姜阿新の洋館があり、その向こうに伝統的な四合院家屋の金廣福公館(国定古跡)がみえる。姜阿新の洋館をとり囲む石塀は、清朝統治期に建てられた台北城と同じく北投唭哩岸から切り出された石と思われ、建設当時の姜阿新の財力のほどがうかがえる。

姜阿新の洋館の前には桜が花盛りだった。永光公司が破産して人手に渡ったが、後に子孫が買い戻し、現在は一般公開される。
姜阿新の洋館の前には桜が花盛りだった。永光公司が破産して人手に渡ったが、後に子孫が買い戻し、現在は一般公開される。

台湾茶の歴史はふるく、清朝統治期には中国大陸からの移民が台湾各地で栽培していた。樟脳の調査にやってきたイギリス商人がこれに着目し、台湾の茶葉は国際市場にデビュー。日本統治期にはインドのアッサム種を改良した紅茶の生産が研究され、三井財閥が資本を投入して台湾各地に茶園と工場を作り、紅茶産業の基礎ができる。西洋の「リプトン」に対抗して日式紅茶ブランド「日東紅茶(三井紅茶)」も生まれ、最高級の茶葉は天皇献上品ともされた。

そこで茶葉生産インフラに戦前から関わり、戦後は一手に引き継いで大成功させたのが、北埔の姜阿新そのひとである。インドやインドネシアなど茶葉の主要生産国の生産が回復していない戦後の混乱期に、姜阿新の「永光公司」は烏龍茶や緑茶、紅茶の九割を海外に輸出して台湾茶の黄金時代を築き、木材や砂糖、運輸の経営でも成功する。

ウンカという虫に咬まれた茶葉を手摘みし、ウンカの唾液が発酵することで蜜のような独特の甘さと薫りを持つようになった「東方美人」(膨風茶/白毫烏龍)も評判となり、北埔発の高級茶葉ブランド「Ho-ppo tea」(北埔茶)の名は国際市場に轟いた。しかし主要生産国が復活してきた1950年以降にはマーケットにおけるアドバンテージを失い、永光公司は経営難に陥りほどなく破産。この栄光と没落を記したのが姜阿新の娘婿にあたる廖運潘(1928~)氏で、1996年より20年以上の歳月をかけて130万字におよぶ姜阿新の伝記をしたため、ドラマ「茶金」の原型ともなった。

歴史の痛みを伝える作家の言葉

北埔街を進むと、中正路とのY字路の脇に古い建築をリノベーションした独立書店がある。台湾固有種の美しい鳥ヤマムスメの名を冠した「藍鵲書房」で、隣にはカフェ「Lost and Found ―拾樂坊」も併設される。

オーナーの陳萬成さんと高美玉さんは、北埔の南側にある五指山に暮らす野良犬のモカ(摩卡)を可愛がり、家族の一員に迎えいれようと決めた。しかしある台風が過ぎ去ったあと、いくら五指山を探してもモカは見つからない。モカを探しているうちに辿り着いたのが北埔である。結局モカは見つからなかったものの、北埔の雰囲気に惚れ込み、売り出し中の診療所の建物と出会い購入した。それがカフェと書店に生まれ変わり、今や北埔コミュニティの貴重な文化スペースとして機能している。カフェの英語名「Lost and Found」は「失ったものを取り戻す」を意味し、この店が出来たのも、モカが繋いでくれたご縁と高美玉さんは言う。陳萬成さんは、1895年乙未戦争における新竹の古戦場や地域の郷土史家に取材し、義民として抗日戦争に立ち上がった当時の人々の心情に思いを寄せるドキュメンタリー映像も制作している。

「藍鵲書房」「拾樂坊」を経営する高美玉さん(左)と陳萬成さん(右)
「藍鵲書房」「拾樂坊」を経営する高美玉さん(左)と陳萬成さん(右)

「藍鵲書房」からほど近い場所には、1911年に北埔で生まれ、日本統治期に台湾人として初めて日本の有名総合雑誌『改造』で佳作推薦賞を獲得した小説家、龍瑛宗を記念した文学館がある。1937年に文学界にデビューするきっかけとなった『パパイヤのある街』はじめ、日本語で創作した台湾人作家の代表的なひとりで『臺灣日日新報』の編集も担った。戦後は日本語創作の機会を奪われるも、1980年代には中国語を使った創作を開始し、自分の言葉を紡ぐことを生涯諦めなかった不屈の作家といえるだろう。こんな言葉を龍瑛宗は残している。

「私が書き続ける理由は、ただ歴史の断片を空白にしたくないというだけだ。異民族に支配されるこの言いようのない屈辱と痛みを我々の子孫が理解できるよう、このゴツゴツとした道のりを書き記す、その責任が私にはある」。

日本統治期に龍瑛宗も通った公学校の教員宿舎を修復した「龍瑛宗文学館」は、龍瑛宗の孫娘にあたる劉抒苑さんらによって運営されている。文学館の前には地域の人々の手で、作品にちなみ一本のパパイヤの樹が植えられた。

輝かしい生と、かならず訪れる死。その循環は創るエネルギーによって繋がれ、支えられている。一見、死によって失われたかに見えたとしても、遺された人々の創造は失われたときを幾度も甦らせ、作品は新たな時間を生き直す。

日本統治時代の公学校教員宿舎を修復した「龍瑛宗文学館」の前にはパパイヤの樹が植えられている。
日本統治時代の公学校教員宿舎を修復した「龍瑛宗文学館」の前にはパパイヤの樹が植えられている。

バナー写真:龍瑛宗の孫娘にあたり、「龍瑛宗文学芸術教育基金会」を運営する劉抒苑さん

※写真は工藤正市氏、鄧南光氏撮影のものを除き著者撮影

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