強権に立ち向かった「もう一人の李登輝」彭明敏氏が死去、日本からも追悼の声

国際・海外

2022年4月8日、台湾の独立運動家、国際政治学者、元総統府資政(上級顧問)などとして、李登輝氏とともに戦後の台湾政界をけん引してきた彭明敏(ほう・めいびん)氏が、98歳でこの世を去った。生前、彭氏と交流のあった筆者が、その波乱に満ちた人生を紹介する。

台湾の先駆的な独立運動家として知られ、現民主進歩党政権からも長老格の扱いを受けてきた国際政治学者の彭明敏氏が8日、死去した。98歳だった。蒋介石率いる中国国民党の独裁政権に反抗した彭氏は、国民党の中から台湾の民主化、本土化を目指した李登輝元総統と対比されることも多く、1996年の初の総統直接選では民進党の総統候補として、李氏に挑んだ好敵手でもあった。日本国内でも台湾との民間交流団体や知人らが「一昨年の李氏の死去とともに日台交流の現場にとっては大きな絆の喪失」だとして深く哀悼の意を示す声が相次いだ。

ウクライナ侵攻に「彭氏の抵抗」想起

「8月15日は彭先生の99歳の誕生日なので、8月9日にオンラインで彭先生の自宅と大阪の会場を結び、白寿を祝う会を開催しようと会員らと準備していた矢先でした」

こう語るのは彭氏と15年余の親交があったという、台湾との民間交流団体・大阪日台交流協会の野口一会長だ。

彭氏宅にも何度も訪れた経験があり、「米国が台湾関係法を整備する礎を築いた人物だと思います。心からの弔意を示したい。予定していた白寿の会は、そのまましのぶ会に変えて開催したい」と肩を落とした。

また、ロシアのウクライナ侵攻で「台湾有事」に対する危機感も高まる中、昨年『彭明敏 蒋介石と闘った台湾人』(白水社)を著したジャーナリストで関西学院大学非常勤講師の近藤伸二氏は、「折しも圧倒的な戦力を持つロシア軍の前にひとたまりもないと思われたウクライナ軍がすさまじい抵抗を見せつけ、経済的な豊かさや表面的な安定よりも大切なものがあるということを多くの人が意識させられている真っ最中。アジアにおいても、半世紀も前に身命を賭して強大な権力に立ち向かった人がいたということは想起されていい。最後まで揺るがず、その姿勢を貫いた人だった」と語り、哀悼の意を表した。

機銃掃射、原爆…壮絶な人生

李登輝氏に比べ、日本社会では地味な印象の彭氏だが、台湾では国際法学者、元台湾大学教授、元総統府資政(上級顧問)といった経歴以上に、国民党の独裁と闘い続けたその激烈な半生で知られている。

彭氏は李登輝氏と同じ1923(大正12)年生まれ。日本統治時代の台湾で裕福な医師、かつ敬虔(けいけん)なクリスチャンの家庭に育った。台湾南部の高雄中学や日本の関西学院中学部、旧制第三高等学校(京都大学などの前身)に学び、最終的に東京帝大法学部に進学。当時台湾出身者は内地人から一段低く見られることも多かったが、同時期に京都帝大農学部に学んだ李氏同様、日本統治時代の台湾出身者としてはエリート中のエリートだった。

当時、彼らの青春は戦争の真っただ中にあった。文系学生への兵役免除は廃止され、台湾人にも兵役志願制度を施行。李氏が制度に応じて陸軍高射砲部隊に見習士官として配属されたのとは対照的に、日本の台湾統治に反発していた彭氏は兵役を志願しなかった。日本での生活に困窮し、長野県松本への移住を経て1945年4月末、長崎の親類宅に身を寄せようとしたが、その際、渡船上で米軍機の機銃弾に左腕を貫かれ、気を失ったという。

地獄絵図の中で意識はすぐに戻ったが、自身の左腕は肩の付け根からちぎれかけており、先述の近藤氏の著書によると「自分はここで死ぬのか」と覚悟。しかし、ぶら下がった左腕を右手でつかんで死地を脱し、埠頭(ふとう)近くの小さな診療所で切断手術を受け、以後は隻腕となった。

彭氏は、長崎原爆の被爆をも体験した。

長崎郊外の親類宅での療養に当たった8月9日朝、新聞に目を通していると飛行機が飛来する音に続いて部屋中が閃光(せんこう)に包まれる体験をした。

激しく揺れる家を飛び出すと長崎上空に巨大なきのこ雲が立ち上り、小雨が降ってきた。「何が起こったのか、全く分からなかった」という。

反乱容疑で逮捕、海外への脱出

日本の敗戦は彭氏の人生を一層数奇なものにした。戦後の台湾で国民党政権による本格的な台湾本省人弾圧の発火点となった1947年の2・28事件では、父親が捕らえられ、処刑寸前で解放される経験も。彭氏は国民党への憎悪と不信感を増幅させつつ、国際航空法専攻の法学研究者の道に進んだ。

カナダ、フランス留学を経て国際的に名の通った法学者となったが、国民党政権への反抗心は消えることなく、蒋介石が掲げた「大陸反攻」(大陸奪還)の虚構を暴こうと、一党独裁体制や権力内部の腐敗を厳しく指弾。「一つの中国、一つの台湾」を掲げた「台湾人民自救運動宣言」(自救宣言)を作成したため、反乱容疑で逮捕され、特赦で自宅に戻った後も長く軟禁状態に置かれた。

身の危険を感じた彭氏は1970年、在日台湾人や日本人記者・活動家、米国人牧師らの支援を得て、協力者の日本人のパスポートの写真を張り替えるなど映画さながらの手法で厳重な監視の目をかいくぐり、民間機でスウェーデンへ渡航。亡命を成功させた。

「ライバル」超越した李氏との友情

その後、彭氏は20年余の長い亡命生活の後、1996年の総統選挙で、野党・民進党の候補者となって、現職の国民党候補、李登輝氏に挑んだ。

台湾大学の同窓生でもある李氏は、蒋経国時代に副総統に抜てきされ、蒋経国の死去に伴い88年、台湾出身者ながら総統の地位に就いた。以後は台湾を民主化、本土化に導き、彭氏の指名手配も92年には解除。彭氏は台湾に帰郷し、95年に民進党に入党したのだ。

選挙は李陣営の勝利に終わり、次点で敗れた彭氏は、その後台湾独立の啓蒙(けいもう)運動を進める建国会を設立。一部派閥と肌の合わなかった民進党からは選挙の翌年離党し、現実の政治からは距離を置く立場となった。

初の直接総統選で戦った李氏と彭氏だが、台湾大学の学生・研究者時代には、毎週食事を共にしていたほどの深い付き合いがあった。

蒋経国の死で総統となった李氏は、当初は単に残りの任期を務めるだけの“ロボット総統”と見られたが、90年の総統選挙では党内の抵抗勢力を切り崩してライバル林洋港にも出馬を断念させるなど類まれな政治力を発揮。これに呼応するかのように彭氏も米ニューヨークの記者会見で「彼に代わる総統はいない」と、李氏を全面的に支援。李氏の力量に懐疑的だった台湾の反国民党勢力や世論を動かし、90年の李氏当選の後押しをした。

「10人集まれば…」言論の自由築いた先人の重い言葉

筆者が彭氏と初めて会ったのは産経新聞台北支局長として台湾に赴任した数カ月後の2011年秋。台北駐在時代は頻繁に、14年に日本に帰国した後も1~2年に1度くらいのペースで彭氏との交流を続けてきた。その激烈な経歴とは正反対の温厚さに魅了された。

最後に会ったのは19年8月。台北に近い新北市の自宅で、複数の関係者と共に彭氏を囲み、彼の足跡を話題に過ごした。

李登輝氏は生前、国民党による白色テロ時代を振り返って、「台湾人は『耳はあっても口はない』と、自身の発言には細心の注意を払ってきた」とよく語っていた。その話を引き合いに「よく生き延びられましたね」と問い掛けた際、それまで笑顔だった彭氏は一瞬険しい表情を浮かべ、「白色テロの時代は、どんな時でも油断ならなかった。10人集まれば1人はスパイだと肝に銘じていたからね」と振り返ったことを思い起こす。

李氏と共に、自由な発言ができる今日の台湾社会を築いた先人の重い言葉だった。

バナー写真=1996年、総統選に出馬した彭明敏氏、1996年3月22日(ロイター/アフロ)

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