近藤勇の「幻の甲冑」発見 : 富山県高岡市でなぜ?―6月まで初公開

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新選組の局長・近藤勇が身に着けた甲冑(かっちゅう)が富山県高岡市の禅寺に保管されていた。寄進したのは、徳川幕府と明治新政府の双方から重用された山岡鉄舟だという。その背景には、運命を分けた2人の深い縁が見えてくる。

私が住んでいる富山県高岡市に臨済宗国泰寺という寺がある。知る人ぞ知る日本有数の禅寺だ。臨済宗には15の総本山があるが、国泰寺派もその一つ。山中にひっそり佇(たたず)んでいるが、京都の妙心寺や天龍寺などと同格の寺である。日本を代表する思想家、西田幾多郎鈴木大拙が若き日、参禅した寺としても知られる。

国泰寺(PIXTA)
国泰寺(PIXTA)

国泰寺が今、注目されている。新選組の局長、近藤勇(1834-68年)が着用したとみられる甲冑(かっちゅう)が発見されたからだ。色鮮やかなよろいとかぶとを寄進したとされているのは、幕臣だった山岡鉄舟(1836-88年)。幕末に活躍した2人はどのような接点があったのか。なぜ、よろいとかぶとは、北陸の地で発見されたのか。

宝物台帳の発見で急展開

国泰寺では、このよろいとかぶとの存在は以前から知られていた。ただ、それが誰の物なのか、分からなかった。木の箱に入っていたが、誰も開けたことがなかった。「これまでおそらく1、2回開けただけでないか」。封印された箱だった。

事態が急展開したのは、2020年。宝物台帳が見つかったのだ。そこには、こんな記述があった。

「新選組隊長近藤勇ノ著セシモノニテ鉄舟居士寄進ノモノ一具」

国泰寺の「宝物什器控」(右)。近藤勇着用のものを、山岡鉄舟が寄進したと記録されている(筆者撮影)
国泰寺の「宝物什器控」(右)。近藤勇着用のものを、山岡鉄舟が寄進したと記録されている(筆者撮影)

「鉄舟居士」とは、山岡鉄舟を指す。山岡鉄舟が近藤勇のよろいとかぶとを寄進したと書いてあった。そこで、国泰寺の関係者はこの年の10月、射水市新湊博物館の協力を得て、箱を開けてみた。そこで初めて、よろいとかぶとを目にした。

山岡と国泰寺との関係は後述するが、寺が所蔵しているよろいとかぶとは、一式だけだった。また、専門家の鑑定では、室町時代の部品を使って、江戸時代に作られたとみられる。

近藤勇の兜(筆者撮影)
近藤勇の兜(筆者撮影)

こうした点を踏まえ、このよろいとかぶとは、近藤勇のものだと判断された。国泰寺によれば、近藤勇はよろいやかぶとを着けたがらなかった。生涯で1度だけ身に着けた可能性があるという。

新選組誕生と近藤の末路

山岡は実に、近藤勇とは深い縁がある。2人とも幕末を代表する剣豪だが、その接点は、新選組の前身、浪士組という組織だった。浪士組は、上洛(じょうらく)する第14代将軍・徳川家茂を警護するため編制された。幕臣の山岡は、その取締役だった。浪士組は、腕に覚えのある人なら誰でも参加でき、その中の一人が近藤だった。

その後、浪士組は解散し、江戸に戻ったが、近藤らは京都に残った。そこで、新選組と名前を変え、幕末の歴史を彩る。京都の治安維持を担ったのは、あまりに有名だ。

近藤が書いたとされる手紙の中には、山岡との交流が記載されている。

しかし、2人の人生は大きく変わる。薩摩・長州藩を中心とした新政府軍と旧幕府勢力が戦った戊辰戦争。その緒戦1868年1月末の鳥羽・伏見の戦いで、新政府軍が大勝したのだ。新選組は散り散りになり、近藤は新政府軍に捕まり、斬首された。35歳だった。

明治天皇に仕えた山岡

一方、山岡は維新後、西郷隆盛のたっての依頼で、明治天皇に侍従として仕えた。10年間の期限を設定し、若い明治天皇の教育係となったのだ。深夜2時、3時まで酒を飲む明治天皇をいさめたエピソードも残っている。わずか14歳で即位した明治天皇が尊敬される大帝と言われるようになったのは、山岡の教育があったからという指摘もある。

山岡は明治政府を辞めた後、東京の谷中に禅寺・全生庵を創建した。明治維新や倒幕で、殉じた人を弔うためだ。その全生庵は、中曽根康弘や安倍晋三らが座禅に通っていた。

富山県射水市新湊博物館の松山充宏・主査学芸員(日本中世史)は「晩年の山岡が戊辰戦争の記憶が薄らいだことを見計らって、近藤の活躍を記念するものとして、徳川家とゆかりがある国泰寺に奉納したのではないか」と指摘する。

近藤勇は当時逆賊とされ、山岡は、表立って供養できず、地方の寺に寄進した可能性もあるというわけだ。

甲冑を初公開

国泰寺は江戸時代、住職が江戸で将軍にあいさつができるほど格式が高かった。また、3代徳川家光以降の歴代将軍の位牌が安置され、徳川幕府と深いゆかりがあった。

それでは、山岡はなぜ、国泰寺と関係を持つようになったのか。きっかけは、明治天皇の北陸への巡幸だ。山岡は随行し、荒れ果てた国泰寺を目の当たりにした。全国に広がった廃仏毀釈の影響だ。

「由緒ある寺をこのまま放置できない」。書の達人でもあった山岡は、国泰寺を再興するため、自ら、1万枚以上の書を揮毫(きごう)し、広く資金を求めた。

江戸城無血開城は西郷と勝海舟の江戸における会談で決まったと言われる。しかし、西郷はその前に山岡の説得で腹を固めていた。山岡は無血開城の陰の立役者でもある。

山岡は西郷をしてこう言わしめた。「生命もいらぬ、名もいらぬ、金もいらぬ、といったような始末に困る人ですが、そのように始末の負えぬ人でなければ、天下の大事は語れないものです」

2歳違いの近藤勇と山岡鉄舟を結びつける甲冑。4月22日から6月26日まで富山県の射水市新湊博物館で初めて公開される。歴史ファンの熱視線が集まりそうだ。

バナー写真 : 富山県高岡市の国泰寺で保管されていた近藤勇が身に着けたとされる甲冑(筆者撮影)

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