若林正丈の「私の台湾研究人生」

私の台湾研究人生:『台湾日記』—史上初の総統直接選挙のフィールドワーク(上)

政治・外交

台湾にとって歴史的な瞬間となる1996年の総統直接選挙を控え、筆者は大学でサバティカル休暇を取り、選挙の長期観察のため、台湾に渡った。中央研究院を拠点として、人々との交流の中での体験や言葉を「台湾日記」に記し続けた。後日、その日記は一冊の本になる。

歴史的選挙観察のサバティカル

1993年春には、国会全面改選実現を受けた李登輝のまた再びの党内闘争の勝利を経て、96年春の第1回総統直接選挙の挙行はほぼ確定した政治日程となった。台湾にとってこの選挙が文字通りの歴史的選挙になることは、誰の目にも明白であった。私は何とかこの選挙の投票日までの過程を長期に台湾に滞在して観察したいと考えた。職場の状況はそろそろサバティカル(長期研究休暇)の順番が回ってきてもよい頃であった。同僚に諮って95年度(95年4月〜96年3月)の順番にしてもらった。

台湾での受け入れ先は、中央研究院民族学研究所で、そこの研究員だった社会学者の張茂桂さんの世話で、同研究所の「訪問学者」にしていただいた。民族学研究所に社会学者というと変に聞こえるかもしれないが、当時中央研究院にまだ社会学研究所は設立されていなくて、この回想録にもすでに登場した蕭新煌さん、呉乃徳さん、柯志明さん(元政治犯の柯旗化先生の息子)、当時台湾「族群」問題の実証的研究で注目されていた王甫昌さんなど有力な少壮学者が民族学研究所に「身を寄せて」いた。

民族学研究所の当時の所長は徐正光さんだった。彼も社会学者で当時は台湾の労働問題を研究していて、訪日した時に講演の通訳をした記憶がある。彼は台湾の「客家」でもあり、後に客家研究の推進に努めている。

台湾人のナショナル・アイデンティティー研究に取り組む人々

実は、私が滞在していた年に社会学研究所の準備処が設立されており、中央研究院の規定によりその10年後の2005年にめでたく正式の社会学研究所に衣替えしている。以前にも触れたが、私の台湾政治研究の最初の専著『台湾 分裂国家と民主化』の内容は、1980年代から始まっていた、いわば学知の「中華民国台湾化」の成果を吸収して可能となったものだが、上記の学者たちはその先頭に立っていた人たちであった。

先頭に立っていたといっても、見方によっては、何も特別なことを彼らがしていたわけではない。学術的には、当時の台湾社会の現実を見て、センシティブな問題であった外省人対本省人の問題や台湾人のナショナル・アイデンティティーの問題を、彼らが米国で身に付けてきた分析方法と概念とでもって調査し分析して社会に向かって発信したというだけであった。

ただ、そのようなセンシティブな問題を明確に取り上げ学術的な課題、ひいては社会的アジェンダとして提起することそのものに反発する「国際左派」と称する人々もいて、学界に軋轢(あつれき)が生じていた。私はこのことに大した自覚もなく、軋轢の一方の陣営で「訪問学者」を始めたことになる。別に何の後悔もしていないが、帰国後私に少しばかり苦い思いを残すこととなった。

1995年9月民族学研究所設立40周年のパーティで。前列右が著者、著者の後ろの白シャツ姿が王甫昌、左のネクタイ姿が社会学者瞿海源教授。瞿教授は1990年3月の「野の百合運動」の時に李登輝と会見したハンストの学生に付き添って総統府に入ったことのある人(写真出所:中央研究院社会學研究所『我與社会所:中央研究院社会學研究所成立二十周年紀念專刊』、2015年)(筆者提供)
1995年9月民族学研究所設立40周年のパーティで。前列右が著者、著者の後ろの白シャツ姿が王甫昌、左のネクタイ姿が社会学者瞿海源教授。瞿教授は1990年3月の「野の百合運動」の時に李登輝と会見したハンストの学生に付き添って総統府に入ったことのある人(写真出所:中央研究院社会學研究所『我與社会所:中央研究院社会學研究所成立二十周年紀念專刊』、2015年)(筆者提供)

『台湾日記』をつける

所長の徐正光先生のお世話で、宿舎は中央研究院活動センターの一室を、研究室は研究所内の空いている研究室を使わせてもらえることとなった。宿舎から研究室まで歩いて7〜8分、憧れていた職住接近がこの1年だけ実現した。活動センターというだけあってプールがあり、朝一番でよく通った。テニスコートには張茂桂さん、呉乃徳さんらに誘われて時々顔を出した。

研究室にはパソコンも1台支給された。当時はちょうどインターネットの普及が進んでいた頃で、中央研究院にもシステムができていて、私もメールアドレスをもらい、試しにちょうどドイツに行っていた張茂桂さんに到着のあいさつも兼ねてメールして返事をもらった。これが私のインターネット事始めであったように思う。ただ、そのシステムではまだ日本語を書くのが面倒なので、自分の仕事では日本から持参の富士通のワープロを使った。余談だが、サバティカルを終えて帰国すると、東大の職場では同僚が盛んにインターネットを使い始めていて、私も大慌てでワープロ派からパソコン派に転向した。

せっせと日記を付けることにした。夜が苦手なタイプなので、もっぱら次の日の朝に研究室でワープロに向かった。結構詳しく記したので、時に午前中いっぱい日記書きで終わることも少なくなかった。歴史的総統選挙に向かう台湾の密接観察が台湾滞在の主目的だったが、選挙で民主化が一段落つけばまた歴史研究に戻ろう、あわよくば滞在中にその下勉強もしておこうなどとの下心もあったが、全くの捕らぬたぬきの皮算用となった。歴史的一年を目撃してやろうというのが主目的だったのだから、それもやむを得ないところだった。

朝は忙しかった。プールで泳いだり研究院付近の散歩を楽しんだりもしたが、朝食を取りながら宿舎で購読している『中国時報』と『聯合報』に目を通し、テレビニュースを見た。その後、研究室に出て、日記を書いたり、研究作業をして、昼以降は、こちらからアポを取ったり、声を掛けられたりして、台北市内に出かけることも多かった。

路線を覚えて主にバスで出掛けた。正式にインタビューという形で会いにいくことは少なかったので、その場でメモを取ることも少なく、興味深い見聞は、忘れないように帰りのバスやタクシーの中であり合わせの紙にメモを走り書きすることも度々であった。もちろん日々接する民族学研究所やその他の研究所の知り合いとはなるべく言葉を交わし、時事問題も含めて彼らの見方、感じ方を知るように努めた。夜は、台北に来てから知り合った産経新聞支局長の小澤昇さんとエアーニッポン(全日空の子会社)台北支社長の池本好伸さんと、「台独聯盟」(台北独身者聯盟)と称してときどき一杯やったりもした。

インタビューと言えば、李登輝総統のインタビューを試みたが実現しなかった。私は岩波書店の「現代アジアの肖像」という叢書に『蒋経国と李登輝』と題する一冊を書くことになっていた。あわよくばサバティカルの間に李登輝にインタビューしてそれを生かしたいと、春から人を介して意向を伝えていたが、まずは時局柄、李登輝自身が個人的な事柄を書かれることに神経質になっている、という話が伝わってきて、さらに7月に入って中国軍のミサイル威嚇などの緊張が高まると、いつの間にか立ち消えとなった。ただ、本のほうは少しずつ書き継いで、帰国後の翌年6月には出版することができた。

思い出の三人旅

台湾のあちこちに出掛けたことも楽しい思い出である。当時台北郊外の木柵に住んでいた葉國興さんが日曜になるとよく連れ出してくれた。葉さんとは、90年代初めの頃、彼が国策研究院という民間のシンクタンクの副執行長をしている時に知り合った。木柵の山歩きから北部の金山跡や1895年日本軍上陸地などにも連れて行ってもらった。

作家の李喬さんと引き合わせてくれたのも葉さんであった。私は助手時代にすでに彼の台湾歴史の大河小説『寒流三部作』を読んでいた。葉さんは高雄出身の福佬人(編注:17世紀ごろ主に中国大陸南部から台湾西部にやってきて平地を開拓した人々)、李さんは今も苗粟に住む客家人で母語が違うのだが、その頃はどうやら「文化台独」の同志という関係だったらしい。一度葉さんの運転する車に乗って3人で南部に2泊3日で旅行した。今でもよく思い出すのは、1915年の噍吧哖(タパニー)事件の現場だった台南県(当時)の玉井を訪れたことだった。

この事件は日本植民地時期、1930年の有名な霧社事件を除けば漢人主体の最後の武装蜂起事件で、首謀者の名をとって余清芳事件と呼ばれることもあるが、噍吧哖事件というのは、台湾総督府警察隊と蜂起農民との最も激しい戦闘があった場所の名を付けているのである。総督府の法院は悪名高い「匪徒刑罰令」(編注:台湾総督府により1898年に発布された日本に反抗する武装集団らを処罰するための刑罰法規)により2000人弱の逮捕者に死刑判決を下したが、国内でも批判が高まり、大正天皇の即位時の恩赦を口実に大量減刑を余儀なくされたのだった。

玉井の街中で葉さんが事件の無縁仏を祀(まつ)る廟があることを聞き出してくれて訪ねた。事件後地元の農民が畑を耕していると骨が出てくる。警察隊との戦闘で戦死した蜂起農民のものだった。それらを集めてこっそり祀っていたのだという。「この件は記憶の帳面に付けておこう」と李さんが言ったのが印象深かった。それから20年後、成功大学(台南)歴史学科教授になっていた元ゼミ生の陳文松さんの案内で同じ廟を再訪して記憶を新たにした。

2016年再訪した噍吧哖事件犠牲者を祀る廟。再訪時にこんな門ができていた(筆者撮影)
2016年再訪した噍吧哖事件犠牲者を祀る廟。再訪時にこんな門ができていた(筆者撮影)

廟の内部。1915年蜂起の3人のリーダー余清芳、羅俊、江定が神となっている(筆者撮影)
廟の内部。1915年蜂起の3人のリーダー余清芳、羅俊、江定が神となっている(筆者撮影)

『台湾の台湾語人・中国語人・日本語人』表紙(筆者提供)
『台湾の台湾語人・中国語人・日本語人』表紙(筆者提供)

さて、書き終えて『台湾日記』と表書きした日記は、積もり積もって400字詰め原稿用紙1300枚の長さになった。後に朝日新聞社から『台湾の台湾語人・中国語人・日本語人』と題して出版していただいた。この日記に目を付けた出版編集部の岡恵里さんが約半分の分量に編集してくれたのである。見事な削り方だった。

バナー写真=台湾南部の高雄の市場で有権者と握手する李登輝氏、1996年3月22日(AP / アフロ)

台湾 研究 若林正丈