「大」相撲を彩る「小」兵力士——舞の海が語る「技」の極意【前編】

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巨漢力士ひしめく大相撲にあって、一服の清涼剤といえるのが小兵力士たちの奮闘ぶり。最大衝撃力1トンともいわれる立ち合いの当たり、さらに直径4.55メートル(15尺)という限られた空間での戦いは、本来彼らにとっては不利なはずだが、丸い土俵をうまく使い多彩な技で立ち向かう。小よく大を制す——その極意と心持ちを、「平成の牛若丸」の異名でお茶の間を沸かせた舞の海さんに聞いた。

舞の海 秀平 MAINOUMI Shūhei

元大相撲の力士で現在はNHK大相撲解説者。1968年生まれ。青森県鰺ヶ沢町出身。本名は長尾秀平。日本大学卒業後、山形県での高校教員の内定を辞退して角界入りを決意。身長が足りずに一度は新弟子検査に落ちたものの、頭にシリコンを入れて再受検し合格。出羽海部屋に入門した。しこ名の由来は、生家のある鰺ヶ沢町舞戸地区の海から。小柄な体格(169cm・97kg)を駆使して猫だましや八艘飛びなど多彩な技を繰り出し、「技のデパート」「平成の牛若丸」の異名を取る。最高位は小結。技能賞5回。1999年九州場所を最後に現役引退、2000年からNHK専属の大相撲解説者を務めている。

両足を固定すれば相手を倒せる——小兵だからできた「三所攻め」

大相撲の数ある奇手・珍手の中に「三所(みところ)攻め」がある。内掛け、または外掛けで攻め、相手のもう一方の足を手で抱え込みながら、頭を相手の胸に突きつけて仰向けに倒す。日本相撲協会が1955年に正式に決まり手を制定して以降、50年代後半に那智ノ山が十両で4回決めているが、幕内では試みる者さえいなかった。半ば“幻の技”だったこの技に再びスポットライトを当てたのが舞の海さん。まずはこの話から始めよう。

——舞の海さんが三所攻めを本場所で初めて繰り出したのは、1991年九州場所11日目の曙戦。曙の巨体を見事に裏返しましたが、相撲協会はなぜか三所攻めが外れたあとの内掛けを決まり手としました。その後、琴富士と巴富士を相手に成功していますが、あの曙戦が最高傑作だという専門家は多いです。あれは、初顔合わせとなる曙戦のための秘策だったのでしょうか?

舞の海 いえ、大学の頃からちょくちょくやっていました。ただ、三所攻めという決まり手がはじめから頭の中にあったのではなく、あくまで相撲の流れ。小さい体を逆に生かして相手の懐に潜り込み、両足の自由を奪って押し込めば、相手は身動きが取れなくなる。マジックテープとか接着剤の上に立って押されたら、足を後ろに運べないから転ぶしかないじゃないですか(笑)。そんなイメージです。

曙に三所攻めを仕掛ける舞の海。文字通り、相手の両足と胸を同時に攻める技で、「身長差があり、できれば足が長い相手だとやりやすい。あんこ型(魚のアンコウのように丸い体型の力士)相手には無理」という(1991年11月20日、福岡国際センター) 時事
曙に三所攻めを仕掛ける舞の海。文字通り、相手の両足と胸を同時に攻める技で、「身長差があり、できれば足が長い相手だとやりやすい。あんこ型(魚のアンコウのように丸い体型の力士)相手には無理」という(1991年11月20日、福岡国際センター) 時事

——なるほど、そういう発想からですか。1961年から大相撲を見続けてきた自分にとっても、相撲雑誌でそういう技があるのは知っていましたが、まさか本場所の土俵で見られるとは思いもしませんでした。

舞の海 両足を固定すれば相手を倒せます。では、そのためにどうするか。太ももを攻めても無理。太ももの力には負ける。腰に食い付いても自分の腕力では勝てない。でも、膝とかふくらはぎだったら何とかなる。というわけで、まず相手の右足を内掛けにいく。すると相手は転ばないように左足を引こうとする。そこで左足も逃げないように押さえて固定し、頭と肩で押し込んでいく。その結果が「三所攻め」だったんです。

「相撲の勝負は、端的に言えば“バランスの崩し合い”で決まる」と舞の海さん。重心の低さを生かした「足取り」も巨漢力士には効果的だった。1993年春場所の水戸泉戦(1993年3月17日、大阪府立体育会館) 時事
「相撲の勝負は、端的に言えば“バランスの崩し合い”で決まる」と舞の海さん。重心の低さを生かした「足取り」も巨漢力士には効果的だった。1993年春場所の水戸泉戦(1993年3月17日、大阪府立体育会館) 時事

「伝家の宝刀」切り返し——自ら倒れ込みながら貴乃花を破る

舞の海さんが最も得意とした技は、左を深く差しての下手投げ。そこからの切り返しは、まさに「伝家の宝刀」だった。切り返しとは、相手の膝の裏側に自分の膝を当て、相手を後方に倒す技。柔道の小外刈りに相当する。だが、舞の海さんの切り返しにはさらに工夫が凝らされていた。

——舞の海さんは切り返しで大物を次々と破っています。中でも印象的だったのは1994年名古屋場所です。5日目の武双山戦では、土俵際で後ろに回られましたが目まぐるしく動き回り、切り返しから逆転勝ちを収めました(決まり手は外掛け)。

舞の海 学生時代は、相手の投げをしのぐ中で自然に膝が相手の足に押し込まれる形になっていましたが、プロに入って高崎親方(元関脇・初代小城ノ花)から「切り返す時は自分から倒れろ」とのコツを教わり、意識して決められるようになりました。

1991年秋場所、ともに軽量で人気者同士の一戦。寺尾に鮮やかな切り返しを決める舞の海(1991年9月10日、東京・両国国技館) 時事
1991年秋場所、ともに軽量で人気者同士の一戦。寺尾に鮮やかな切り返しを決める舞の海(1991年9月10日、東京・両国国技館) 時事

1994年名古屋場所、武双山に後ろに回られた舞の海。だが、ここから素早く体を入れ替えて逆転勝ち(1994年7月7日、愛知県体育館) 時事
1994年名古屋場所、武双山に後ろに回られた舞の海。だが、ここから素早く体を入れ替えて逆転勝ち(1994年7月7日、愛知県体育館) 時事

——2日目の貴乃花(当時貴ノ花)戦も見事でした。同場所の貴乃花はまだ大関でしたが、不運な横綱昇進見送りなどがあり実力的にはもう横綱クラス。それを見事に切り返しで撃破しましたね。

舞の海 唯一貴乃花関に勝った相撲です(笑)。立ったまま切り返そうとすると、膝と手だけの力になってしまうので、相手を抱き込んだら自分から倒れる。ただ、そのままだと負けるので、倒れながら相手を捻っていく―これがコツです。

自ら倒れ込みながら切り返しで貴乃花から初白星を挙げた舞の海。これで波に乗ると、琴錦、武双山、魁皇らの役力士を次々と撃破し、5度目の技能賞を獲得する(1994年7月4日、愛知県体育館) 共同
自ら倒れ込みながら切り返しで貴乃花から初白星を挙げた舞の海。これで波に乗ると、琴錦、武双山、魁皇らの役力士を次々と撃破し、5度目の技能賞を獲得する(1994年7月4日、愛知県体育館) 共同

——ところが、4日目の若乃花(当時若ノ花)戦では、きれいに切り返して「絶対に決まった」と思ったところを逆転されました。最後に空中で肩をドンと突かれて、舞の海さんの左肘が一瞬早く土俵についた。負けた瞬間のあぜんとした表情が印象的でした。

舞の海 あれはショックでした。自分が倒れながら(相手の体を)回していけば、必然的に相手が先に落ちることになっていますから……。

——互いに高レベルの技の応酬で、見ているほうも楽しかった。あの頃の上位陣は本当にレベルが高かったと思います。改めて振り返ると、あの名古屋場所の舞の海さんはすごかった。一番脂がのっていた時期でしたね。ところが、新小結に昇進した翌秋場所、貴闘力戦で左腕の腱を切る大けがに見舞われました。

舞の海 あれでもう終わりましたね……(笑)。

相手の目を回す珍戦法、名付けて「クルクル舞の海」

舞の海さんは「終わった」と言うものの、その後も業師ぶりをいかんなく発揮する。またも奇想天外な新技を考案して土俵を沸かせたのだ。

——舞の海さんは左下手を取ってからの技が生命線でしたから、左腕のけがは致命傷でした。でも、今度は右上手を取って「クルクル舞の海」を繰り出すなど、さまざまな工夫をしているように見えました。出し投げ気味の投げをしつこいほど連発し、相手を回転させて目を回し、体勢が崩れたところを押し出したり、寄り切ったり。これまで土俵の上であんなに回った人はいないと思います。あの技のきっかけは、テレビ番組で見たんですけど、誰かを相手に練習していましたよね。日大相撲部の同級生?

舞の海 はい、小野司さんという方です。彼いわく「何で投げて決まらなかったら一回でやめちゃうの? ずっと打ち続ければいいじゃない」と。

懐に潜り込むための間隔を測る「猫だまし」

舞の海さんは大相撲を変えた「革命児」といえる。33種類とバリエーションに富んだ決まり手はもちろん、決まり手には入っていない奇襲戦法にも事欠かなかった。その代表格が、相手の顔の前で手をパンとたたいて目つぶしする「猫だまし」と、立ち合いと同時に大きくジャンプして相手の背後に回り込む「八艘(はっそう)飛び」だ。

——まず猫だましですが、近畿大学出身の同期生で、学生横綱からプロ入りした大輝煌(だいきこう)に勝ちたい一心で思いついたと聞きましたが。

舞の海 そうです。学生時代から彼にはずっと勝てなくて。このマンネリした展開、流れを変えたいということで、猫だましから入っていこうと。

——ただ、猫だましだけではそんなに威力はないですよね。相手を脅かすだけ? 実際にどんな効果があるのでしょうか?

舞の海 狙いは二つありました。一つは相手の当たりを止めたい。もう一つは、手をたたくことで、次にしゃがみこんで潜っていくための相手との間隔をつくりたい。相手に近づきすぎても潜り込めないし、離れすぎても見透かされてしまう。ちょうどこの手の長さぐらいの間隔の時に、ヒュッとしゃがむと相手の腰のあたりにくっつけるんです。

1992年春場所、巴富士戦の立ち合いで猫だましを見舞う舞の海。「ぶつかると見せかけて、当たる直前にパチン。すると相手は動揺して、一瞬動きが止まる」という(1992年3月20日、大阪府立体育会館) 時事
1992年春場所、巴富士戦の立ち合いで猫だましを見舞う舞の海。「ぶつかると見せかけて、当たる直前にパチン。すると相手は動揺して、一瞬動きが止まる」という(1992年3月20日、大阪府立体育会館) 時事

「土俵の鬼」二子山理事長も思わずうなった「八艘飛び」

——続いて八艘飛びですが、あれも舞の海さんが始めたものです。立ち合いの変化は昔から多くの力士がやっていました。でもジャンプ、しかもあれだけ高く飛ぶというのは前代未聞だったと思います。「八艘飛び」と命名したのは元横綱・初代若乃花、当時の日本相撲協会理事長の二子山親方です。取組を見ていた二子山理事長が、壇ノ浦の合戦で次々と船に飛び移ったといわれる源義経になぞらえ、「ありゃまさしく義経の八艘飛びだな」とうなったのが由来です。あの時も取組の前から狙っていたのですか?

舞の海 実は、あれも「クルクル舞の海」のヒントをくれた小野司さんのアドバイスです。「お前は潜るか変化するか二つしかない。ワンパターンだ」と指摘され、「もっと思い切って変化したらどうだ」と。「どうやって?」と聞くと「相手の上を飛び越えるぐらいジャンプしろ」と。できるわけないじゃないかと思ったが、稽古場で幕下相手に試してみたら、これがまた面白いように決まって……。

——その小野さんもプロ入りしていたらユニークな相撲を取ったんじゃないですか? かなりのアイデアマンですね。

舞の海 そう思います。やっぱり一人で考えていると、だんだん発想が乏しくなっていきますから。小野さんにはいい刺激を与えてもらいました。

——最初に八艘飛びを試みたのが、1992年初場所の北勝鬨戦(※バナー写真)。それには何か理由があったのですか?

舞の海 まず突き押し相撲の人にはダメ。相手の突き手がじゃまになります。あと自分は右にはジャンプできない。左にしか飛べない。ということは、ガチガチの右四つ、右を必ず固めてくる力士相手には通用する。障害物がないのでうまく相手の斜め後ろに着地できます。北勝鬨関がちょうどそのタイプでした。

相撲哲学 その一:「立ち合いがすべて」ではない

——ともかく、舞の海さんほど立ち合いに工夫した力士はいません。初顔の曙戦では、背伸びをするように伸び上がり、曙がもろ手で突きにきたら素早く体を沈めて潜り込んだ。まるで“一人時間差”のようでした。さらに旭道山戦では、立ち合いで前に出ずに後退した。それまで、そんなこと誰もやっていませんよ。

舞の海 とにかく他の力士とは“真逆”のことを考えていました。つまり、相撲に「立ち合い」という最初の項目がなかったらいいのに、と。立ち合いの次から始めるにはどうしたらいいか、という発想なんです。正面衝突すると絶対に押されますから。相手が突進する前にどうしたら動きを止められるか。あるいは、突進してきた時にどうやって相手の力を軽減させるか。10の強さを7ぐらいまで弱める、それだけでも十分なんです。

インタビュー中、思わず立ち上がって身振り手振りで説明する舞の海さん。NHKの大相撲中継でも“お茶の間”目線でツボを押さえた解説が光る 撮影:ニッポンドットコム編集部
インタビュー中、思わず立ち上がって身振り手振りで説明する舞の海さん。NHKの大相撲中継でも“お茶の間”目線でツボを押さえた解説が光る 撮影:ニッポンドットコム編集部

よくテレビの相撲中継を見ていると、「立ち合いがすべてでしたね」という親方たちの解説を耳にする。「立ち合いがすべて」。一見もっともなようで、実は偏った見解が常識として広まっている、と舞の海さんは指摘する。つまり、立ち遅れたとしても体勢を作り直せば勝機は十分に見出せる、と。そもそも舞の海さん自身、「立ち合いの次から始めるにはどうしたらよいか」を追究し続けてきたのだ。

角界の常識と観客の予想を覆す相撲を見せてくれた舞の海さんだが、元をたどれば入門時のエピソードからして型破りといえた。インタビュー「後編」ではそのあたりについて語ってもらおう。

バナー写真:1992年初場所の北勝鬨戦、立ち合いで左へ大きくジャンプし、相手の背後に回り込もうとする舞の海。記念すべき「八艘飛び」第1号を「ちょっと飛び過ぎて危なかった。着地であやうく手をつきそうになった」と振り返る(1992年1月18日、東京・両国国技館) 時事

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