私の台湾研究人生:民主化の仕上げ、激動の始まり—史上初の総統直接選挙のフィールドワーク(下)
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絡み合う幾つかの流れ
史上初の総統選挙に向かう台湾には、幾つかの潮流が絡みあって流れていた。前述した社会学者間の学術的、またイデオロギー的対立などもその一つ。李登輝が司馬遼太郎との対談で「台湾人として生まれた悲哀」という発言をした以後は、彼と同世代の日本語世代の台湾人の発言・行動が目立つようにもなっていた。私は彼らを台湾の「日本語人」と呼んだが、こうした関係の人たちからも声が掛かって食事会や催し物に呼ばれたりもした。広く見れば、これも80年代から始まった台湾の歴史を見直そうという潮流の一部だった。李登輝という人物が触媒となって、日台関係にも何やら質的な変化が醸し出されつつあったと言えるのかもしれない。
ただ、もちろん主脈は、総統選挙に向かう太い流れだった。私が台北に着いて間もなく、国民党、民進党ともに候補者選びの政治過程が本格化した。
現職総統である李登輝の、建前上は非公式だが歴史的な意味を持った訪米に端を発した中国の「文攻武嚇」、つまり言論機関による激しい李登輝攻撃と中国軍の演習を名目とした台湾海峡へのミサイル撃ち込みによる台湾威嚇、米クリントン政権側のこれに対する政治的なまた軍事的応答といったダイナミックな国際関係がこの総統選プロセスに絡んで、台湾の総統選挙には国際的な注目も集まるようになっていった。
国民党の候補者選びは権力闘争の延長だった。8月、李登輝が連戦首相を副総統候補として党内の圧倒的支持を得て公認候補になると、まず陳履安前国防相が無所属で立候補、国民党非主流派は林洋港司法院長を立てて陳履安との正副候補ペアでの立候補を目指したが断られ、結局非主流派の大物郝柏村前行政院長を立てて、林洋港とのペアとした。形式は無所属立候補となったが、93年夏に国民党を割って成立していた反李登輝政党の「新党」(党名)が自身の公認候補を降ろして林洋港・郝柏村ペアを支持することとなった。
民進党は米国式の予備投票で候補を一本化した。まず予備選立候補の4人を党幹部と党員の投票で2人に絞った。選ばれたのは、1977年中壢事件の英雄だった許信良と1963年に「台湾人民自救宣言」を発表して長く米国に亡命して92年帰国していた彭明敏だった。この2人が台湾全島を回って公開演説会を行い、その演説会ごとに一般有権者の投票を受け付けるという形で予備選が行われ、彭明敏が勝利した。許信良が無所属で出馬することはなかった。私は研究所の友人に連れられて、最初の4候補の討論会や台北の公園で行われた2候補対抗の予備選演説会を見に行ったりした。
因縁の役者が舞台に出そろう
こうした日々の私の具体的見聞は『台湾日記』に記し、その縮小版の前記著書『台湾の台湾語人・中国語人・日本語人―台湾人の夢と現実 』にも十分に反映されているので、これ以上記さないが、四半世紀以上たって今でも強く印象に残っているのは、国民党と民進党の公認候補、国民党を割って出た無所属の2ペア、計4組が顔ぶれが決まった時に、よくもまあこうも見事に台湾戦後政治史の因縁を象徴する候補が出そろったものだなあ、ということだった。日本植民地統治期に高等教育を受けた台湾本省人の学歴エリートで、かつ戦後蒋経国に抜てきされた国民党政治家という李登輝の、いわば二重の身分を軸として、性質の異なる候補たちが競い合うことになったのである。
李登輝と林洋港は、蒋経国が蒋介石から実質的に最高権力を継承してから進めた政権人事の「台湾化」でのし上がってきた国民党内本省人政治家のライバル同士であった。李登輝と、林洋港の副総統候補になった郝柏村とが蒋経国死後の権力闘争の主役同士であったことはすでに述べた。陳履安は、蒋介石独裁時代の行政院長であり副総統、国民党副総裁まで務めた陳誠の長男であった。表舞台で陳誠は蒋介石政権の明白なナンバー・ツーであったが、蒋介石の長男であり裏で政治警察を握っていた蒋経国とは強い緊張関係にあった。
陳履安は晩年の蒋経国に抜てきされて政権エリート入りをしていたとはいえ、彼から見れば、李登輝から林洋港、郝柏村まで全て蒋経国系統の人間であった。政治的計算からすれば有利であるのが明白な林洋港とのペアをかたくなに拒否し続けたことから見て、私には陳履安の行動にかつての蒋経国と陳誠の因縁が強く絡んでいるように見えたのである。
李登輝と彭明敏は同じく大正生まれ(1923年生)の日本時代を経験している本省人学歴エリートである。戦後ともに国民党政権の末端で一定の地位を占めていたが、前者は官僚テクノクラートとして権力の階段を恐る恐る上り、独裁者(蒋経国)の死後の権力闘争を民主化を求める下からの圧力を利用しながら一つ一つ勝ち抜き、後者は政権批判を公にして海外亡命生活を迫られるも反体制派の中では大きな声望を保持し続けた。その2人が与野党を代表する候補として相まみえることとなったわけである。
このように、日本植民地統治期に高等教育を受けた台湾本省人の学歴エリートにして戦後蒋経国に抜てきされた国民党政治家という李登輝の、台湾現代史の交錯点を体現するような存在を触媒として、それぞれ性質の異なる因縁の候補が出そろったのである。

筆者(左)のインタビューを受ける彭明敏氏(右)。2015年11月30日、於台北(筆者提供)
台北の夜の街に見た「安堵感と満足感」
1996年3月23日投票日当日、私は夕方に産経新聞の小澤支局長のオフィスに行って、仕出し弁当のご相伴にあずかりながら開票を見守った。翌日の紙面に載せる記事の入稿締切時間にもいろいろあり、それに合わせて原稿を差配し出稿していく活発な様子を見ているのはなかなか楽しかった。投票の結果は、大方の予想通り李登輝の大勝であった(得票率54%)。
全てが終わって夜遅く、中央研究院に戻るタクシーの中で人通りがめっきり減った台北の街並みを眺めながら、私はなにやら安らかさを感じた。もちろんそこには個人的理由もある。初回の総統選挙の過程を見守るという台湾研究滞在の目的はこれで達せられた。ただ、それだけではなく、台湾社会のほうにそう思わせる雰囲気があったと思う。
元政治犯の柯旗化先生は1980年代にお付き合いいいただいていた時期に、筆者に対して「亡命中の彭明敏先生が帰国して総統選挙に立候補するようになるのが私の夢だ」と語っていた。上述した政治エリートの各種の因縁ばかりではなく、柯先生のような民主の夢のエネルギーも史上初の総統選挙には投げ込まれていた。複雑な台湾の近現代史が残した夢とさまざまの因縁とに、民主選挙によって、この日まさに一つの決着を平和的に付けることができたのである。
加えて、台湾海峡には、李登輝の訪米以来中国のミサイル発射演習を含む軍事威嚇とこれを牽制する米軍の空母艦隊の台湾海峡回航という大国のゲームも展開していた。そんな中で、史上初の総統選挙は「ミサイル対投票箱」の対抗という図式になってしまっていた。そんなしんどい選挙を台湾の有権者はやりきったのである。そうした満足感と安堵(あんど)感が、あの夜の台北の街には漂っていたのだ、わたしは今もそう思うのである。
新たな政治的激動の始まり
あれから四半世紀の時が過ぎた。史上初の総統直接選挙は民主化の仕上げと台湾人の夢の部分的実現であったが、後知恵からすれば、それは一つの始まりにすぎなかったとも言える。新しい民主的ルールによる有力政治家と政党の間の激しい権力ゲーム、そして4年ごとの総統選挙が節目となる台湾政治の、さらには台湾海峡の政治の激動の始まりでもあったのだ。
1995年9月、彭明敏が民進党候補には決まったばかりの頃、私は知り合いの日本の新聞記者のインタビューに便乗させてもらって、台北の彼のオフィスを訪ねた。その夏の中国軍の台湾海峡でのミサイル演習の後のことだったので、当然そのことも話題になった。今でも鮮明に記憶に残っている彭明敏のこんな一言がある。
「あのミサイルは台湾海峡の北の海中に落ちた。台湾民衆の反応はほぼ想定の通りだった。しかし、中国の行動がさらにエスカレートして、例えば仮に中国のミサイルが中央山脈越えだったら民心はどう動いたか、見通しがつかない」
米国が2つの空母艦隊を台湾海峡に接近させるという対中牽制を行ったこともあって、台湾有権者の「投票箱」は中国のミサイルに対抗できた。そしてこの1年、総統選挙の挙行により民主体制を仕上げることで、台湾の主流民意のあり方は、中国の権威主義体制からかなり遠いところに動いてしまった。その一方、この1年はまた巨大な中国と対峙(たいじ)することの深淵(しんえん)をのぞきこまざるを得ない1年でもあったのだった。
*付記:この原稿の執筆中、彭明敏氏逝去の報に接した。彼の一生もまた激動の一生であり、台湾の近現代史の一側面を象徴する一生でもあった。生前のご厚情に感謝し、謹んでご冥福を祈る。思えば、李登輝氏も彭明敏氏も、この回想録でまさにそれぞれに関係する回の原稿の筆を執っている時に逝去された。深い感慨を覚える。台湾近現代史の一つの時代が去って行ったのである。
バナー写真=史上初の台湾総統選挙が無事に行われるよう警戒する離島・馬祖の台湾軍、1996年3月22日(AP/アフロ)