本土復帰50年を迎えた沖縄:米軍基地縮小への訴えの一方、「大半の県民にとっては、普通の1日」

社会

2022年5月15日、沖縄は米国から返還されて本土に復帰してから50年を迎えた。節目となる「復帰の日」に、現地では何があったのだろうか。半世紀の年月を経て、沖縄の人たちは何を思うのか。那覇市内を駆け回り、その1日を取材した。

沖縄にとっては節目の日だが…

沖縄県庁に隣接する沖縄県議会。その前に設置されている時計の針が午前0時を指す。観光客であふれかえる週末の国際通りの喧騒(けんそう)とは裏腹に、ここにはほとんど人がいない。かつて、米国施政権下の琉球政府が存在したこの場所が迎えた復帰50年の瞬間は、静寂に包まれていた。

カメラを持って歩き回る男性がいたので声を掛ける。県外の学校教員で、生徒たちに沖縄のことを伝えたいと、街の様子を見て回っているという。

他方で、県庁脇の坂道を通りかかった、千葉から観光でやってきたという男性(36)は、「今日が復帰の日とは知らなかった。沖縄に着いて、こっちの人に聞いて初めて知りました」と話す。沖縄にとっては節目の日であるが、必ずしも “全国区”の認知度ではないということかもしれない。

2022年5月15日午前0時。沖縄本土復帰50年を迎えた瞬間の県庁周辺
2022年5月15日午前0時。沖縄本土復帰50年を迎えた瞬間の県庁周辺

50年前と同じ大雨の朝

明け方からしとしとと降り出した雨は、午前7時前には本降りに一変した。1972年に沖縄が本土復帰した日の那覇も朝から大雨に見舞われ、「喜びの雨」とも「悲しみの雨」とも言われた。それからちょうど50年後、くしくも同じ空模様となった。

午前8時半すぎの県庁周辺は、傘を差してバスを待つ学生や、足早に信号を渡る中高年などがちらほらと目に入る程度。道路を走る路線バスには、復帰の日を記念する小旗などは付いていない。沖縄都市モノレール「ゆいレール」の車内も空いている。恐らくこれから出勤であろう、かりゆしウェアを着た人たちがまばらに座っている。いかにも普段通りの日曜日の朝といった風景があった。

9時15分ごろ、首里城公園に到着する。雨足はますます強くなり、人影はほとんどない。復帰の日とはいえ、首里城で特別な催し物などは行わないという。話を聞いた管理事務所の40代男性は、「この日は個々人が家族と対話し、復帰について考えることはあっても、沖縄県民が大々的に集まって何かをするということは、例年ほとんどないです」と語る。

首里城の奉神門。門の向こうに、2019年10月の火災で焼失した正殿などがあった
首里城の奉神門。門の向こうに、2019年10月の火災で焼失した正殿などがあった

前日5月14日には岸田文雄首相が視察し、2019年10月に火災で全焼した首里城の再建に向け、まずは今年11月に正殿の工事に着工する方針を明らかにした。こうした前進があった一方で、視察に向けて数週間前から警備訓練が行われるなど、慌ただしい日々が続いた。「復帰の日に合わせて、本土から大臣クラスがやってくるため、首里城だけでなく、沖縄のさまざまな施設は大変だったと思いますよ。昨日ようやく終わってホッとしています」と前出の男性は苦笑いする。

米軍基地縮小と平和への訴え

午前10時すぎ、再び県庁に戻ると、県民広場では「琉球独立」と書かれたのぼりや横断幕を持ったグループが陣取っていた。しばらくすると、今度は別の団体が「沖縄返還50年、おめでとうございます」などと声を上げ、日の丸を掲げながら近づいてきた。その団体は止まることなく国際通りに入り、そのまま行進を続けていった。

沖縄の本土復帰50年を祝い、日の丸を掲げて国際通りを行進する団体
沖縄の本土復帰50年を祝い、日の丸を掲げて国際通りを行進する団体

11時には、上述の琉球独立グループがデモ行進を始め、すぐさま県民広場には全国に支部を置く団体「新日本婦人の会」のメンバーが入れ替わりでやってきた。参加者の女性の一人は「団体として50年前から沖縄の平和、そして絶対的な戦争反対を訴えています。けれども、50年たった今でも変わらない現状に徒労感があります」と悔しさをにじませる。

ちょうどそのころ、2021年10月に開館したばかりの文化施設「那覇文化芸術劇場なはーと」の大ホールでは、5・15平和行進実行委員会が主催する「5・15平和とくらしを守る県民大会」が開催されていた。主催者の発表によると、参加者は約1000人。県外からの参加も多かった。

大会の中では、「基地のない沖縄、平和な日本、戦争のない世界を作るために力を尽くす」といった宣言がなされた。沖縄県の玉城デニー知事は午後に開かれる政府と県による記念式典に出席するため、大会の場にはいなかったが、米軍基地の整理縮小や日米地位協定の抜本的な見直しなどを推し進めるとしたメッセージを寄せた。

在沖縄米軍基地の整理縮小などを求めて、拳を突き上げる「5・15平和とくらしを守る県民大会」の参加者たち
在沖縄米軍基地の整理縮小などを求めて、拳を突き上げる「5・15平和とくらしを守る県民大会」の参加者たち

参加者である沖縄出身の男性(65)は、「このちっぽけな島に、これだけの基地があるのはどう考えても不条理ですよね。日本の安全保障と言うのであれば、平等に負担してもらいたい」と、在日米軍基地の7割が沖縄に集中する現状に憤る。

東京から参加した30代半ばの男性は、「沖縄の人たちの気持ちをおもんぱかり、(他の都道府県との)分断のない社会を目指したい」と力を込めた。

怒号が飛び交った50年前とは打って変わって…

午後3時、50年前に怒号が飛び交っていた与儀公園に着く。当時は公園の隣にあった那覇市民会館で沖縄復帰記念式典が開かれた。その式典で挨拶した屋良朝苗知事(当時)は、復帰について「必ずしも私どもの切なる願望が入れられたとはいえないことも事実であります」と語った。

これには多くの沖縄県民も同調するところだった。式典終了後の午後3時ごろには沖縄県祖国復帰協議会による「5・15抗議県民総決起大会」が与儀公園で開催。約1万人の参加者が、米軍基地が存続したままの復帰に対する怒りを爆発させた。

かつて「5・15抗議県民総決起大会」が行われた広場。正面に見える木々の奥には解体予定の那覇市民会館がある
かつて「5・15抗議県民総決起大会」が行われた広場。正面に見える木々の奥には解体予定の那覇市民会館がある

しかし、あの日からちょうど50年経った与儀公園は、集会どころか、人も数えるほどしかいない。雨が上がった静かな広場を心地よい風が吹き抜けていた。

沖縄県民にとって、復帰の日とは

その後、太平通り商店街や平和通りを抜けて国際通りに戻ると、人々が歩行者天国を気持ち良さそうに歩いている。いつもと変わらない日曜日の景色である。

実は、そうした那覇の“日常”は至るところで目にした。昼すぎに訪れた那覇市第一牧志公設市場をはじめ、市場本通りや壺屋やちむん通りは観光客らでにぎわっていた。夕方に立ち寄ったスーパーマーケットには、食料品などを買い求めて地元の人たちが次々と来店していた。

国際通り近くで楽器店を営む60代男性は、「大半の沖縄県民にとっては、復帰の日も普通の1日に過ぎませんよ。特に若い世代は、本土の人たちと同じような感覚では」と述べる。

乗車したタクシーの運転手(71)も、「今日は復帰50年ですね」と話題を振っても、「あぁ、そうだっけ」といった具合に関心を示さず、孫の話ばかりをしていた。

正直なところ、復帰50年当日という歴史的な1日であるが故に、きっと那覇の街ではさまざまな取り組みがなされていて、日常にはない盛り上がりがあるはずだと考えていた。しかし、それは筆者の勝手な思い込みだったわけだ。

もちろん、この日でなければ見ることのできない光景もあったことは事実である。ただし、それはごく一部の時間、場所に限定されるし、街にいる多くの人たちは県民も含め、意識的に目を向けなければ集会やデモが行われていることに気が付かないかもしれない。

50年前の復帰のことについて騒ぎ立てたり、何かに賛成・反対の声を挙げたりすることよりも、まずはきちんと沖縄の歴史を未来へ語りつないでいく。それが何よりも大切だ。取材で出会ったウチナーンチュ(沖縄の人)が口にしていた言葉を頭の中で反すうする。

結局、復帰の日とは、一体、誰のためのものなのか——。これまで沖縄の人々への取材を続けてきた筆者にとって、そう考えざるを得ない1日だった。

バナー写真:いつもの日曜日の午後と変わらない那覇市の観光名所、国際通りの歩行者天国

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