瀬戸内寂聴 追悼:文学者として仏教者として貫いた生涯

文化

瀬戸内寂聴が99歳で世を去って半年。いまだに追悼企画や新刊の関連書が途切れない。誰もが知る作家がめっきり少なくなったこの時代に、突出した親しまれ方をした「寂聴さん」。しかし、その本業がどこまで理解され、評価されてきたのか。女性であり、宗教者でもあるこの作家が、日本の社会と現代文学に与えた真の影響とは何か。30年近く取材し、批評してきた元読売新聞文化部長で早稲田大学文化構想学部教授の尾崎真理子氏が振り返る。

例外的な長い命脈を保った作家

1922年、大正11年生まれの瀬戸内寂聴は、文学世代としては「第三の新人」と重なる。中でも一つ年下の遠藤周作とは交遊が深かった。文学性の高い硬質なテーマの長編小説に力を注ぐ傍ら、エッセイを通じて読者に語りかけ、テレビ出演も拒まなかった姿勢も遠藤と似ている。

60年代から北杜夫、吉行淳之介、阿川弘之ら「第三の新人」をはじめ、司馬遼太郎、五木寛之、田辺聖子、山崎豊子らと共に、出家前の瀬戸内「晴美」の活躍も始まった。これらの作家は絶えず新聞、雑誌に話題作を連載し、次々に単行本化されてはベストセラーリストを賑わせた。それが広範な読者を獲得した昭和の“活字文化”であり、この時代の小説、エッセイというメディアは、多忙な日常に憩いと潤いを提供する、社会の精神安定剤ともなっていただろう。

80年代半ばからのバブル期は、多様な現代作家が並び立った時期でもあった。村上春樹、吉本ばななから日本語小説の海外進出が始まり、94年には大江健三郎がノーベル文学賞を受賞。出版業界は96~97年までバブル期が続くが、インターネットの普及によって、特に雑誌は多大な打撃を受けたのは周知の通り。漫画などのコンテンツ事業が電子化して軌道に乗ったごく最近まで、大手出版社にとっても長い低迷期が続いた。そうした状況下でも例外的に作品が読まれ、長く命脈を保った作家こそ、瀬戸内寂聴だった。

活躍の理由の一つを、「日本経済新聞」の連載「奇縁まんだら」シリーズ(2007~11年)に探すこともできるだろう。東京女子大の在学中にその姿を垣間見た島崎藤村に始まり、直接、対話を果たした谷崎潤一郎、小林秀雄、田中角栄……物故した135人の人物描写からは、戦前から働かせ続けた好奇心と行動力、運の強さが如実にうかがわれる。

大きな影響を受けた女性作家の系譜

その中で、瀬戸内が同時代の目標とし、盟友とした作家は、先人では円地文子、宇野千代、同時代では河野多惠子、大庭みな子という、いずれも実力派の女性作家だったと筆者は考えている。有吉佐和子、曽野綾子の活躍も1950年代から早々と始まり、70年代には共に新聞小説で環境、医療の問題に踏み込み、時代の要請に応えた。それでもなぜか、文壇や文学賞から遠い出来事とされ続けたのが彼女らの仕事だった。対照的に、古典に造詣が深かった円地文子、小説の完成度で一目置かれた宇野千代らを、近代文学に連なるものとして文壇は大事にした。瀬戸内も二人を敬愛し、ずいぶん励ましてもらったと何度も語っていた。

昭和も末の1987年、芥川賞の選考委員に初めて大庭みな子、河野多惠子が加わり、ようやくこの時から、女性作家が日本文学の中核へ互角な立場で参入したと考えることもできるだろう。長く流行作家と呼ばれてきた瀬戸内も、もともとは河野多惠子と共に同人誌で腕を磨いた仲間であり、徐々に軸足を純文学を扱う文芸誌に移す。同時に瀬戸内は大庭みな子と共に、古典と現代をつなぐ仕事に力を入れる。大正生まれの瀬戸内は古文を苦もなく読みこなし、明治期の樋口一葉、大逆事件に連座した管野(かんの)須賀子らをはじめとする多くの伝記小説を書くために、資料の蒐集(しゅうしゅう)、読解の能力にも磨きをかけていった。80年代には西行、良寛、一遍上人らの生涯も独自の歴史観、宗教観をもって描き、男性読者も増えていく。

その上で臨んだ念願の『源氏物語』現代語訳は、1998年に全10巻が完結すると、たちまち200万部を超えた。最新の学問的成果を採り入れた上で原文に忠実、かつ分かりやすい“瀬戸内源氏”は、与謝野晶子訳や谷崎潤一郎訳を凌駕(りょうが)し、今後も現代の決定版として読み継がれていくはずだ。

出家後、ますます旺盛で多様な活動

また、1973年に51歳で出家して天台宗の僧侶となり、「寂聴」を名乗った後は、宗教者としての活動時間も増えている。読者の恋愛や離婚、家族との死別などの相談にもできる限り応じ、エッセイを通じて女性や若者に自立をうながし、その発言力は徐々に旧弊な通念の変革につながりもしただろう。それは瀬戸内自身が戦後まもなく、4歳の子供を置いて出奔(しゅっぽん)した、その悔恨に苛(さいな)まれての行動でもあった。

87年からは岩手県浄法寺町の天台寺の住職となり、境内で説法の行われる日には全国から観光バスが列を成す光景を、同行取材の折に何度も目にした。京都・嵯峨野の寂庵(じゃくあん)を拠点に、天台寺への往復、全国各地での講演。80代半ばまでの体力も健脚もすさまじかった。説法では訪れる人々の生老病死に寄り添いながらも、常に政治や国際問題と連動した内容で啓蒙し、こころ、人命を第一とする仏教者として、背を折り、声を振り絞っていた様子は忘れ難い。集まる人々は当然、熱心な読者でもあり、先に触れた遠藤周作がカトリックの作家を代表したとすれば、瀬戸内「寂聴」の小説を、現代流に進化した仏教の精神性に貫かれた文学と考えることもできる。

91年の湾岸戦争時に抗議の断食を行ったのも、やはり仏教者としての行動だろう。義援金と私財、計1300万円余りで大量の医薬品を購入し、同年4月にはバグダッドまで自身で届けに出向いている。同行したのは講談社の担当者。当時の文芸編集者はそこまで作家と一心同体になるのが使命だった。2001年の9・11(米国同時多発テロ事件)後にも、アフガニスタンで勃発した報復戦争の即時停戦を願って断食している。医師・中村哲(故人)とも終生、親交を保った。

さらに10年後の11年、東日本大震災後には痛む身体を押して東北各地まで慰霊の行脚をし、世界遺産に登録されたばかりの平泉中尊寺では、同い年の故ドナルド・キーンと対談を行った。筆者はこの対談を「読売新聞」に掲載するために企画したのだったが、文化勲章を受章し、90歳を目前に控えた2人は、実はこの時、車椅子を必要とするほどの状態でもあった。にも関わらず、カメラの前では直立し、笑みを見せ、憔悴(しょうすい)した人々を激励しようと長く語り合う姿に、深く感銘を受けた。

死の直前まで新作を発表

ケータイ小説を「ぱーぷる」の筆名で発表したり、自身のインスタグラムをいち早く開設するなど話題も振りまきながら、現役で新しい作品を亡くなる年まで発表し続けた。そして、第2期5巻を追加した全25巻の『瀬戸内寂聴全集』の刊行を伝える冊子に、「私にとっては、生きることはひたすら書くことにつきます。今、数えを百歳になった私は、前の全集のつづきの作品をまとめ、全巻を前に、ああ、もう死んでもいいとため息をついています」。2021年11月にそう記した直後、生涯を閉じた。2000年以降に書かれた新たな5巻の解説者は、川上弘美、平野啓一郎、田中慎弥、伊藤比呂美、高橋源一郎。いずれも故人と親しく、遺志を受け継ぐに十分な一線の作家である。70年にわたって書き続けた瀬戸内寂聴は出家を選んで自ら性を手放し、いつしか時代も「女流」から女性作家と呼ばれるように変わったが、もう女性でも男性でもなく、性別を冠することもない時代が始まっている。瀬戸内は確かにそれを感じ取るところまで生き抜いたことが、5人の解説者の顔ぶれからもうかがわれよう。

平安期から千年にわたる日本文学の伝統を受け継ぎ、現代に花開かせた過程では、作家と宗教者、両者の相克も激しくあっただろうが、その矛盾が瀬戸内を強くし、その作品を深め、面白くした。人生百年を生きるとはどういうことか。私たちに体現して見せた。

まだ、瀬戸内作品に触れたことのない読者に、400作を超える著作の中から代表作である3作を挙げてみたい。まずは瀬戸内が80歳を前に自身の生涯を振り返り、野間文芸賞を受賞した長編小説『場所』(2001年刊、新潮文庫)。大正期の天才的な作家、歌人であり、画家の岡本太郎の母としても知られる、岡本かの子の真実に容赦なく迫った伝記小説『かの子繚乱』(1965年刊、講談社文庫)。そして、『美は乱調にあり 伊藤野枝と大杉栄』(66年、岩波現代文庫)は、女性解放のための雑誌「青鞜」最後の編集者と大正期を代表するアナーキスト夫婦の実録的な長編。恋愛や倫理に関わる価値観は移り変わっても、生を燃焼した人間を描いたこれらの作品は、末永く読み継がれることになるだろう。

バナー写真:岩手県二戸市天台寺の特別法話で、聴衆に語りかける瀬戸内寂聴(2015年10月)共同

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