厳しさ、優しさ、懐の深さ──サッカー監督イビチャ・オシムは、なぜ日本で愛され尊敬されたのか

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5月1日にオーストリアの自宅で逝去、イビチャ・オシムは80年の生涯を閉じた。ジェフユナイテッド市原、そして日本代表を率いて日本サッカーに革新をもたらした名将は、指揮を執った当時のみならず、退任後も今に至るまで多くのファンの尊敬を集めている。サラエボ生まれの外国人監督が没後なお敬愛される理由を、長年にわたってオシムの取材を続け、葬儀にも参列したジャーナリストが描く。

日本サッカーに革命をもたらした外国人監督の功績

今年5月1日に逝去したイビチャ・オシム元日本代表監督に対しては、日本中から深い哀悼の意が寄せられた。日本サッカー協会はサラエボでの告別式に反町康治技術委員長を派遣。翌週には田嶋幸三会長自らサラエボに出向き、家族と共にオシムの墓の前で祈りをささげた。2007年11月16日、在任中に脳梗塞で倒れ、代表監督を辞して彼が日本を去ってからすでに14年が経ったにもかかわらず、これほどまで人々から愛され、尊敬を受けた外国人監督は稀有である。オシムはそれだけ日本にとって特別な存在だった。

オシムがジェフユナイテッド市原(現ジェフユナイテッド市原・千葉)の監督として来日したのは03年2月のことだった。この年のファーストステージで、いきなりあと一歩で優勝というところまでチームを引き上げ、以降ジェフはJリーグ優勝争いの常連となっていく。05年にはナビスコカップ(現ルヴァンカップ)に優勝し、93年のJリーグ開幕以降、目立った成績をあげることのなかったジェフに初タイトルをもたらした。

だが、成績以上にセンセーショナルだったのは、そのプレースタイルであり独特の練習方法だった。グラウンド狭しと走り回る選手たちが次々とゴール前に現れる。そのスピードと流動性、インテンシティ(プレーの強さ)の高さは、ドイツの14年ブラジルW杯優勝を機に世界の主流となったタテに速いスタイルの先取りであり、数種類のビブス(カラーゼッケン)を使い分けながらさまざまなルールを設定して行うトレーニングセッションは、選手に常に考えながらプレーすることを強いた。

そうして鍛えられた《考えて走るサッカー》はジェフの代名詞となったが、その実態はヨーロッパのトップレベルと同様のスピードとインテンシティを、日本のごく平均的なクラブ、ごく平均的な選手たちが実践したものだった。クオリティにこそ差はあれど、世界の最高峰と同じことが日本でもできることをオシムは証明した。

当時の日本でそんなことを考える指導者はほとんどいなかったし、いても実現のための方法論やノウハウを持たなかった。横浜フリューゲルス(98年に横浜マリノスに合弁吸収)に当時世界最先端の戦術であったACミランのゾーンプレスを持ちこんだのは加茂周(後の日本代表監督)だったが、ピッチ上での指導はスロベニア人のズデンコ・ベルデニックに頼らざるを得なかった。

オシムは違った。彼の頭の中にはさまざまなアイディアが整然と整理されていた。それらは少年時代に友人たちと限られた条件で街頭サッカーをする中で得られたものや、ラグビーやハンドボール、バスケットボールなど他の球技からヒントを得たものなど、オシム独自のものが多く、その数は膨大だった。

それをその時々で、必要なものを適宜選択してトレーニングに落とし込む。具体的な説明はあっても、オシムの考えるサッカーの全体像の中でそれがどこに位置し、どんな意味を持つのか、コーチも選手も簡単に理解できない。求められるがまま考え考え実践すると、試合ではそれが驚異的なパフォーマンスとなって相手を凌駕する。すべてが驚きの連続であり、オシムの監督としての力量と奥深さに誰もが圧倒された。

志半ばで潰えた「サッカーの日本化」

2006年7月、日本代表のドイツW杯での惨敗を受け、監督に就任したオシムが打ち出したのが《サッカーの日本化》だった。

「日本人は、日本人にないものを求め、試みようとしている。スタイルも性格もメンタリティも、日本とは違ったものを求めている」

そして彼はこう続けた。

「日本の目標は世界チャンピオンになることだろう。世界の真似ばかりして追いつこうとしても、絶対に追い越せない。自分たちの良さ・長所を追求し続けることでこそ世界と戦える」

アジアカップ予選で途中出場の佐藤寿人に指示する日本代表監督時代のオシム(2006年8月16日、新潟スタジアム) 時事
アジアカップ予選で途中出場の佐藤寿人に指示する日本代表監督時代のオシム(2006年8月16日、新潟スタジアム) 時事

だが、《日本化したサッカー》は、その片鱗(へんりん)を見せただけで終わった。ほとんど準備期間なく臨んだ2007年のアジアカップは4位、EURO2008のプレ大会であった3大陸トーナメントでは、オーストリア(PK戦)とスイスを下して優勝。高いインテンシティと規律を保ちながら、テクニカルな選手が創造力を発揮するスタイルは、徐々に形になり始めていたが、オシムが病に倒れたことで突然の終わりを告げた。昏睡状態から意識は取り戻したが、リハビリのための時間が必要。すぐにはピッチに戻れない以上、監督辞任はやむを得なかった。

この任期半ばの辞任は、日本とオシムを離れがたいものにした。オシムが監督を続けていたら、いったいどんなサッカーを実現していたのだろうという期待と幻想を、日本人は今日まで抱き続けている。オシムもミッションを完遂しないまま日本を離れざるを得なかったことに強い悔悟の念を抱きながら、(身体が思うように回復しない以上、現実的にはほぼ不可能と知りながらも)いつの日にかまた日本のどこかで指導したいという情熱を最後まで燃やし続けた。

「ジェフのような小さなクラブで、もう一度指揮を執りたい」

日本とグラーツ(オーストリア)、あるいはサラエボ(ボスニア・ヘルツェゴビナ)。長い距離を隔てながら、両者は強い思いで結びついていた。

W杯南アフリカ大会でテレビ中継のコメンテーターとして来日。麻痺の残る身体ながら、鋭い言葉は健在だった(2009年12月3日、東京・国立競技場) 時事
W杯南アフリカ大会でテレビ中継のコメンテーターとして来日。麻痺の残る身体ながら、鋭い言葉は健在だった(2009年12月3日、東京・国立競技場) 時事

「オシム語録」の根幹にあった人間への敬意

とはいえオシムが単に優れたサッカーの指導者ということだけだったら、ここまでの絆は生まれなかったし、誰もこれほどまでにオシムに敬意を抱くこともなかっただろう。ピッチという空間、サッカーという一(いち)スポーツの枠を超えてオシムをオシムたらしめているもの。それは彼の哲学的なもの言いであり、人としての懐の深さであり、他人に向ける視線の厳しさと優しさであり……つまりはオシムという人間そのものであった。

シニカルで洞察力に富んだ言葉の数々はオシム語録として有名である。

試合中に肉離れを起こした選手へのコメントを求められると、「ライオンに襲われた野ウサギが逃げ出すときに肉離れしますか? 準備が足りないのです」と一刀両断に切り捨てた。またある試合についての感想を聞かれると、「肉(料理)でも魚(料理)でもない。メインディッシュにはならない中途半端なゲーム内容だった」と自己分析してみせた。

もともとボスニア人は話好きで冗談が好きである。オシムの饒舌もそうしたボスニア人の例に漏れないが、心の奥底にまで届くのはウィットに富んだアイロニカルな言い回しではない。もっと直截的な、例えばこんな言葉である。

「選手をスタメンから外す。あるいは契約を解除する。それはその選手の家族——妻や子供たちから生活手段を奪うことでもある。ひとつひとつの決断に常にそれだけの重みがあることを、断を下す者は常に意識するべきだ」

選手やスタッフのことを常に気にかける。あるいはサポーターの求めるものを常に考慮する。オシムにとってサッカーはサポーターのものであり、プロサッカーを支える存在であるサポーターとの関係を彼は大事にした。とりわけそれは、オシムが選手としても監督としてもプロデビューを果たしたジェリェズニチャル(ボスニア・ヘルツェゴビナリーグ)において顕著だった。

ジェーリョ(ジェリェズニチャルの愛称)にはジミーという名の有名なサポーターがいる。ジミーはオシムがストラスブール時代にけがをしたとき、わざわざサラエボから車でフランスまで見舞いに来た。東西対立が激しく、両陣営の間での渡航が厳しく制限されていたころのことである。オシムも車でジミーを西ドイツ(当時)まで送り、ふたりの交流はその後も長く続いた。

サラエボで行われた葬儀には、サッカーのみならず各界から多くの人々が参列した(2022年5月14日、ボスニア・ヘルツェゴビナ) 筆者撮影
サラエボで行われた葬儀には、サッカーのみならず各界から多くの人々が参列した(2022年5月14日、ボスニア・ヘルツェゴビナ) 筆者撮影

葬儀会場の規制線の外にも多くのファンが詰めかけ、知将の死を悼んだ 筆者撮影
葬儀会場の規制線の外にも多くのファンが詰めかけ、知将の死を悼んだ 筆者撮影

東日本大震災に際して、オシムは『今こそ、強く連帯を』というメッセージを日本に贈った。その言葉が日本人の心の琴線に触れたのは、オシム自身がユーゴスラビア内戦やボスニア包囲戦を経験し(家族と2年以上連絡がとれず、滞在先のアテネから深夜にアマチュア無線で消息を探り続けた)、戦争の惨禍を味わいながら、ボスニア(ムスリム)系、セルビア系、クロアチア系三民族の融和に尽力したからこそ発することのできる、シンプルな力強さに溢れていたからだった。

「どうしたら私が具体的な力になれるのか、今はまだわからないし、身体が完全に回復していない自分の現状を考えると、実際に力になるのは難しいかもしれない。だが、われわれも、被害を受けたみなさんと共に生きることはできる。ひとりでは大変でも、仲間が増えれば困難に立ち向かっていける。事故や病気もそうだが、地震や津波でも、コレクティブ(組織的)にみなが生きて連帯していけば、困難も乗り越えられる」

そしてこうも述べている。

「地震を忘れることはできなくとも、少なくとも普通に生活することはできる。以前の生活を取り戻すこともできる。震災が起こった今も、新幹線は東京と大阪の間を往復しているし、仙台や青森にもそう遠くない先に、また通じるようになるだろう。走り続ける新幹線は、人の生き続ける姿を投影している。普通に生活することで、人生も続いていく」

191cmという大きな体躯と鋭いまなざし。厳しい言葉の裏に垣間見られる優しさ。日本人はオシムに、日本社会が失って久しい古き時代の父親像を重ねていたのかもしれない。心から冥福を祈りたい。

イビチャ・オシム Ivica OSIM

1941年、旧ユーゴスラビア(現ボスニア・ヘルツェゴビナ)のサラエボ生まれ。ユーゴ代表のフォワードとして64年東京五輪に出場し、68年欧州選手権では準優勝(ベストイレブンに選出)。86年ユーゴ代表監督に就任し、90年ワールドカップイタリア大会でベスト8。2003年1月、ジェフユナイテッド市原(当時)の監督に就任。05年、同チームをナビスコ杯優勝に導く。06年7月、日本代表監督に就任。07年11月に脳梗塞で倒れて監督を退く。日本代表監督としての成績は12勝3敗5分。ボスニア・ヘルツェゴビナの民族対立が原因で、同国サッカー協会が国際サッカー連盟から資格停止処分を科された11年には、正常化委員会の委員長に就任し、処分解除に尽力した。16年、外国人叙勲の「旭日小綬章」を受章。22年5月1日、オーストリアのグラーツで死去。

バナー写真:ジェフユナイテッド市原で指揮を執り始めた頃のオシム監督。当時弱小だったチームを、その手腕で強豪に育て上げた(2003年8月2日、東京・国立競技場) 時事

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