「あえて演じている感覚はある」——端正なるサッカー選手・長谷部誠の実像と、ドイツでの成功の秘訣

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サッカー日本代表で長くキャプテンを務め、現在所属するドイツ・ブンデスリーガのフランクフルトでは、38歳にして異例となる5年の長期契約を締結。さらには将来の指導者への道も約束されている。日本人選手の海外クラブでのプレーが当たり前となった昨今でも、長谷部誠の活躍は最も成功した事例と言える。日本が誇るリーダーがサッカーの本場ドイツで受け入れられた理由と、その知られざる実像を、長谷部のデビュー時から取材を続けるスポーツライターが明かす。

真面目なリーダーの実像

世間一般ではプロサッカー選手の長谷部誠にどんな印象を抱いているのだろう?

2011年に発刊されて150万部ものミリオンセラーを記録した彼自身の著書、『心を整える。勝利をたぐり寄せるための56の習慣』(幻冬舎)で記述された内容から、『真面目』『リーダー』『冷静沈着』などといったイメージを思い浮かべる人もいるだろうが、もしそんな人物像を想起するならば、これはある意味、長谷部の思惑通りということになる。

長谷部が海外へ移籍してから15年目となるドイツのブンデスリーガにおいても、彼の印象は秩序的で規律正しく、誠実で知的という絵に描いたようなものだ。一方で彼を知るサッカーファン、サポーターからはしっかりと自身を主張できる人物とも捉えられている。

長谷部はドイツ語で意見を問われた際に包み隠さず考えを述べるため、現地記者から監督的な視座でチーム、もしくはチームメイトに関する事象を問われることもある。そんなときの彼は忌憚なく、それでも穏やかに見解を述べるが、その達観した立ち居振る舞いがヨーロッパのサッカーシーンで長年にわたって活躍を続けられる要因にもなっている。

静岡県の藤枝東高校からJリーグの浦和レッズに18歳で入団した時期の長谷部は、血気盛んで野心に溢れる一介の若手選手だった。ただし彼はいわゆるエリートではなく、幾多の挫折を味わった叩き上げである。

今でも思い出すのは、プロ初年度のサテライトリーグ(プロ野球で2軍戦にあたる試合)でメンバーリスト入りした選手の中で唯一出場機会が与えられなかった長谷部が、「せっかく家族が静岡から応援に来てくれたのに」と言って試合会場の片隅で顔を覆って涙していた姿だ。また、敬愛する祖父が逝去した後につかんだプロ2年目のデビュー戦では、祖父の遺影を抱いた母親が見守る中で退場処分を下され、自らを支えてきた人々に報いることができない自身に激しく落胆していたのをはっきりと覚えている。

浦和で頭角を現しはじめた頃の長谷部(左)。当時19歳、血気盛んな若者だった(2003年5月25日、横浜国際総合競技場) 時事
浦和で頭角を現しはじめた頃の長谷部(左)。当時19歳、血気盛んな若者だった(2003年5月25日、横浜国際総合競技場) 時事

そんな長谷部も険しい階段を一歩ずつ上りながら明確な成果を得ていった。そして08年の冬、彼は万難を排して海外への旅立ちを決意する。

長谷部のドイツ・ブンデスリーガへの挑戦は羨望の眼差しで捉えられ、海外での奮闘や日本代表でキャプテンを任される姿を頼もしく見守る人々が増えるにつれて、その振る舞いにも落ち着きがもたらされていったように見えた。先述した著書、『心を整える』の中で語られる日々のルーティーンや思考からは聡明さもうかがえ、なお一層、彼のブランドイメージが定まっていったようにも思う。

ホームシックと順応への努力

しかし、実際の長谷部は想像以上の葛藤と辛苦に苛まれながら、それでも確固たる意思で自らの立場を確立していった。

ドイツで最初のチームとなるヴォルフスブルクへ移籍した当初、長谷部は強烈なホームシックに苛まれ、1カ月も経たずに日本への帰国を考えたという。異なる文化を有する異国での暮らしで風習や言語の違いに戸惑い、世界トップレベルのサッカー環境に飛び込んだプレッシャーも相まって苛烈なストレスを抱えた彼は、ほぼ毎日家族へ電話をして悩みを打ち明けていたという。

一方で、長谷部自身は現状から脱却する努力を怠っていなかった。すぐさまドイツ語の講義を受けて、言語の習得に取り組んだのはその一端だった。当時、筆者が取材者として現地を訪れた際、食事に誘ってくれた彼は片手に持った電子辞書を駆使して(当時はまだスマートフォンが普及していなかった)、イタリアンレストランの若い女性店員に何度も質問を浴びせていた。

「最近、何度もこの店に来ているから顔も覚えてもらったみたい。だから彼女も僕のドイツ語の先生みたいなものですよ。恥ずかしがっていたら言葉も上達しないからね。そういうところは僕、物怖じしないのかもしれない」

日々の積み重ねが、その人物像を築き上げる。しかも長谷部はそれを自然に受け入れて無理なく日常に落とし込める。

例えば彼は、ある一日のスケジュールを前日から考えている。何時に起床し、どこへ出かけ、何をして、何を食べて、何時に帰宅するのかを事前に予定立て、実際にその通りに過ごせた時点で充足感を得る。このような行動様式が『生真面目』という印象にもつながっているのだろうが、長谷部自身はそれを負担に感じず、自然に捉えている。

一方で、プロサッカー選手は常にイレギュラーな日常を強いられる。日々のスケジュールはチームの最高責任者である監督の裁量に任されている。例えば試合に勝利すれば連休が与えられることもあるし、逆に敗戦すれば急きょ練習日に振り替えられることもある。長谷部はそんな環境にも順応していて、突発的に休息日が得られたときに自身が好きなフランスのパリやイタリアのローマなどへいきなり小旅行に出かけることもある。

ブンデスリーガのゲームでは試合後、無作為に選手がドーピング検査を受けなければならない取り決めがある。健全な競技運営の一環としてその検査が行われているわけだが、試合中に多量の汗をかく選手の中には試合終了直後に排尿に苦慮する者もいて、ときには数時間が経過しても検査を終えられない場合がある。

ある試合で長谷部がドーピング検査の対象者になった際もその事態が発生し、チームを乗せたバスが彼を待たずにスタジアムを出発してしまったことがある。その後、ようやく検査を終えた長谷部は、クラブスタッフの自家用車に乗せられて真夜中に約360キロの道のりをかけて帰宅していった。

「それもまた経験だから(笑)。でもね、ドイツの高速道路はアウトバーンといって速度無制限の区間があるから、200キロくらいでかっ飛ばして約3時間でクラブハウスに着いたんですよ。そうしたら、まだチームバスは着いていなくて僕の方が早かった(笑)。ドイツに来てからはいろいろなことが起きるから、いちいち物事に動じないようになったかもしれませんね。まあ、それでも事前に自分の中で決めたスケジュールを修正して、また計画を練り直しますけどね(笑)」

ドイツのサッカー記者は『真面目』な長谷部をリスペクトしつつ、その言動や行動を良い意味で異質に捉えて冗談めかした質問をすることもある。練習開始の2時間前にはクラブハウスに着いていること、ウォーミングやストレッチを欠かさず、練習終了後は寄り道せずに自宅へ帰り、浴槽にお湯を張って30分程度ゆっくりと浸かり、遅くとも22時半には就寝して必ず7〜8時間は睡眠を取る。それを毎日続けているのかと問われると、彼は決まって「当然、それが毎日の僕の習慣です」と答える。

長谷部は周囲の自身の印象をこんなふうに捉えている。

「規則正しく、真面目……それを僕自身があえて演じている感覚はあるんです。その方が実は楽だから。『長谷部はこんな人物だよね』と思ってもらって、僕もその通りの行動をする。本来の僕はそんな人物ではないかもしれないけど(笑)、その周囲の印象に、僕自身がアダプトしていったような気がするんです」

日本代表では、14年ブラジル、18年ロシアとW杯2大会連続でキャプテンを務めた(2018年7月2日、ロシア・ロストフナドヌー) 時事
日本代表では、14年ブラジル、18年ロシアとW杯2大会連続でキャプテンを務めた(2018年7月2日、ロシア・ロストフナドヌー) 時事

キャリアの終盤に描く未来図

一方で、長谷部は自身の将来については特に明確なプランを描いてはいなかった。プロサッカー選手の中には現役引退後のセカンドキャリアを考慮して他分野のビジネスへ参入したり、あるいは指導者への道を模索してコーチングライセンスの取得に勤しむ者もいる。しかし、少なくとも2年ほど前の長谷部は将来に思いを馳せていなかった。彼は周囲が思っている以上に純粋な“永遠のサッカー少年”であり、選手としての職務に集中するため他ジャンルに目を向けたくない意思を明確に表していた。

ただ、そんな長谷部が今年、所属先のアイントラハト・フランクフルトと2027年夏までの5年にわたる長期契約を新たに締結して、公の場で自らの将来像を語った。

「選手として来季もプレーできることを嬉しく思います。2023年シーズン以降、選手としてプレーするかはその時に決めることになっています」

フランクフルトとは現役引退後のコーチ就任の契約も結んだ。したがって彼がプロとしてサッカーをプレーする期間は契約年数よりも少なくなるかもしれない。

「やめるときにどのポジションに就くかはチームと話すことになっています。2022−2023シーズン後に引退する可能性は高いですけども、まだやる可能性もある。でも、まだ1年以上先の話ですからね」

長谷部はこの長期契約と付随して、ドイツサッカー連盟(DFB)が主催する現役選手向けの『Players pathway』という指導者講習を受けている。この講習ではヨーロッパサッカー連盟(UEFA)の指導者B級ライセンスを取得できるカリキュラムが組まれ、試合やトレーニングの合間に10代のユース選手たちを指導することもある。

「引退後もドイツに残りたいので、今は指導者ライセンスの取得を目指しています。ただ、コーチと選手というのは、やはり違うものだなと感じ始めてもいます。やっぱり今の僕はサッカーを指導するよりもプレーすることのほうが好きなので」

誰もが為し得ないことを平然とこなす。ただし、その泰然とした佇まいの裏には滾(たぎ)るような情熱が秘められている。

まさしく表裏一体。それこそが、長谷部誠というプロサッカー選手の純然たる魅力なのだと思う。

長谷部 誠 HASEBE Makoto

1984年1月18日生まれ。静岡県藤枝市出身。藤枝東高校卒業後、浦和レッズに入団。3年目にはベストイレブンに選出されるなど主力に成長。J1やAFCチャンピオンズリーグなど浦和の数々のタイトルに貢献。日本代表には2006年に初選出され、08年からは主力として定着。14年と18年のW杯ではキャプテンとして活躍した。08年にブンデスリーガのヴォルフスブルクに移籍。以降、13−14年シーズンのニュルンベルクをはさみ、14年からはフランクフルトで長く主力として活躍している。21-22年シーズンはUEFAヨーロッパリーグ優勝にも貢献した。

バナー写真:欧州サッカーの主要大会のひとつ、UEFAヨーロッパリーグの決勝では途中出場ながら献身的なプレーを見せ、鎌田大地とともにフランクフルトの42年ぶりの優勝に貢献した長谷部誠(2022年5月18日、スペイン・セビリア) 共同

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