若林正丈の「私の台湾研究人生」

私の台湾研究人生:日本初の台湾研究の拠点「日本台湾学会」設立の日(上)

政治・外交

台湾の民主化に伴って、台湾に対する研究が日本で盛り上がりを見せるようになった。機は熟したと考えた著者は、台湾研究のための拠点を作るべく、行動を開始した。

一つの学問分野として認知されたいという願い

1998年5月30日(土曜日)、東大本郷キャンパスの法文2号館3番教室で日本台湾学会設立大会が開かれた。

梅雨入りして間もない頃で、蒸し暑い日だった。この教室は、片側が安田講堂前広場に面し、折から五月祭(東大本郷キャンパスの学園祭)が始まり、アイドル歌手を呼んだイベントが開催中で窓を全部閉め切る羽目にもなった。

ただ、暑さが倍加したのはそればかりではなかった。会場は予想外の200人を超える参加者でいっぱいだった。そして何よりもやっと一堂に集うことができたという熱気もあったのだと思う。台湾の民主化が進展して日本の学界での台湾研究への関心も明らかに広がりつつあった。その様子を目にして、私は、日本の学界・知識界おいて台湾研究が一つの学問分野・知的探究の一領域として認知されたいものだとの願い、そしてそれに値するものが台湾という地域の研究にはあるのだとの思いを持つようになった。その願い、思いは、この時もはや私や私の周辺の小グループのものではなかったのである。

日本台湾学会の設立経緯や設立大会の模様は、当時は新進気鋭の若手会員だった川島真さん(現東京大学教授)が『アジア経済』(39-10、1998年10月)に、同日に行われた記念シンポジウム「『台湾研究』とは何か」の概要を含めて、簡潔にして要を得た記事を寄せている(「学界展望 日本台湾学会の設立」)。これが一種の設立事情の公式記録の如きものといえるだろう。ここでは、これに記されていない個人的な思い出を記しておこう。

話を始める前に急いで言っておきたいのは、この学会が四半世紀の時を経た今もしっかり存続し運営されていることである(現理事長は松田康博東大教授)。学術大会は今年で第24回(設立大会を入れれば25回)を数え、新型コロナ禍下でもオンラインやハイフレックス(ハイブリッド・フレキシブル)の方法で開催を堅持し、台湾の学者をオンライン上に招請して国際シンポジウムも展開した。学会誌『日本台湾学会報』も発刊第24号を数える。

台湾紙の新聞辞令が背中を押す

川島さんの「公式記録」によれば、学会設立の具体的きっかけは、1996年秋に藤井省三東大教授と私の間で「設立の意思が確認」されたことであるという。藤井さんは文学部中国文学科の教授で、魯迅など中国現代文学の研究に携わる傍ら、当時は日本植民地統治期に始まる近代台湾文学についても次々と論考を発表していた。「公式記録」はこれで差し支えないが、私の記憶しているのはこんな経緯であった。

1986年に私が東大教養学部の助教授になってから、かつて戴國煇氏が主宰した台湾近現代史研究会のメンバーを中心に現代台湾研究会と称する勉強会を始めていたことはすでに記した。私は95-96年の台湾研究滞在から帰国した後、そろそろ学会を作るべき時が来ているかもしれないという感触をもらすと、松田康博さんや佐藤幸人さん(アジア経済研究所。台湾経済、中台経済関係論)など若手の研究者も同感のようであった。

そこで、学内行政の用事で本郷キャンパスに出かけた際、藤井さんの研究室に立ち寄った。時期は確かに96年の秋だった。電話を入れると、口で言っても分かるところではないからと、法文2号館のアーケードまで迎えに来てくれた。案内されたのは、そのまま建物の屋根に出て行けそうな隠れ家のような研究室だった。蔵書も見せてもらってよもやま話をした後、そろそろ台湾研究の学会を作ってもいいのではという雰囲気がある、ということを話題にした。私の記憶では、話はそこまでで、私が決断したとか一緒にやりましょうとかいう話になったわけでもなかった。ただ、藤井さんもやる気はないわけではなさそうだと感じつつ、本郷キャンパスを離れた。

ところが数日して大学で購読してもらっている『中国時報』を見ると、若林が台湾学会設立を発起することになったとの趣旨の記事があった。私の後から藤井さんを訪ねた同紙の記者が早とちりしたのだろうと思った。まあ、いいか、こう報道されてしまったのなら、やろうか——思いがけぬ台湾からの「新聞辞令」が私の背中を押したのだった。

この指止まれ

私自身は、何事かの先頭に立って旗振りをするとか、組織や団体を運営するとかいうことは、全く得手ではなかったのであるが、この時は「この指止まれ」の役回りはやらねばと決意した。この年、1992年に発表した初めての台湾政治研究の専著『台湾:分裂国家と民主化』(東大出版会)が、95-96年台湾研究滞在の成果である『蒋経国と李登輝:大陸国家からの離陸?』(岩波書店)と『台湾の台湾語人・中国語人・日本語人』(朝日新聞社)とともにサントリー学芸賞を受賞した。合わせ技一本の受賞というのは気恥ずかしくもあったが、受賞はやはり自身の心の支えになった。

その後、準備委員会の結成(東京のメンバーが中心となった)、発起人のお願い、趣意書の作成と配布による設立参加の呼び掛け、設立大会の準備、設立後の規約草案づくり、などを行っていった。今比較的鮮明に記憶していることだけを記しておく。

私は当時の日本の台湾研究の活動分布は、関東と関西に二つの中心がある「楕円構造」になっていて、来たるべき日本台湾学会の運営もこれを反映することになるだろうと思っていた。関西での研究活動の中心人物だった石田浩さん(当時関西大学経済学部教授)を学会設立の件で研究室に訪ねたのはそのためであった。石田さんが賛同してくれたことは言うまでもない。

前記藤井教授も準備委員会に入ってくれた。藤井さんは人文学関係の学会の有職故実(ゆうそくこじつ)に詳しくて、彼が紹介してくれた他学界の先例などが学会の規則作りにだいぶ役立ったと覚えている。

学会の設立趣意書の内容は前記川島さんの小文に内容が紹介されているが、趣意書そのものが当時の発起人34人の名前とともに学会ホームページに掲載されている。姓の50音順に記されたこれらの名前の中にはすでに数人の物故者がある。時の流れのなせるわざとはいえ寂しい。

地域研究にふさわしい「濃厚な個性」

趣意書は、台湾の地理的・民族的・歴史的成り立ちを簡略に説明した上で「台湾という地域が、学際的な(interdisciplinary)地域研究(area studies)の対象の一つにふさわしい濃厚な個性を有していることを物語っている」と主張し、日本の台湾研究の現状について「1970年代までの、イデオロギー的・政治的忌避や無関心状態を脱した現在、研究関心も広まり、一定の成果もあがっている」が「依然、理論的にも実際的にも組織化不足の状態に」あるが故に、「日本における学際的な(interdisciplinary)地域研究(area studies)としての台湾研究(Taiwan studies)を志向する研究者の潜在的なネットワークを顕在化させ、相互交流の密度を上げ、研究資源の有効利用をはかることを通じて、日本における台湾研究の充実・発展につとめる」ため、また「他地域における台湾研究との交流の窓口の一つとしての役割を果たすことを目的として、日本台湾学会(The Japan Association for Taiwan Studies, 略称JATS)の設立を呼びかけ」るとしている。

日本台湾学会のロゴ(筆者提供)
日本台湾学会のロゴ(筆者提供)

趣意書は私が起草した。もちろん発起人の方々にも事前配布して意見を求めたが特に異論はなかった。私はどんな文章でも苦吟無しに書けない人間だが、この文章は思いの外すんなりと書き上げることができた。私自身においても学界的にも機は熟していたのだろう。ちなみに、学会の英語呼称は、東北大学から準備委員会に参加していた沼崎一郎さん(文化人類学)が、欧米の学会名や日本のさまざまな学会の英語名を参考に考えてくれた。

その頃のことで、私個人として忘れられないことが一つある。準備活動も煮詰まってきたある日、私は台北で知り合った小澤昇さんを産経新聞社のオフィスに訪ねた。小澤さんと学会設立とは全く関係なかったが、こういうことをしていると何かしら彼に報告しておきたい気分だった。私の話を聞いて、小澤さんは「若林さん、60パーセントでいいんですよ」と言った。小澤さんとは台北では「台独聯盟」(台北独身者聯盟)と称して、林森北路で飲み歩いている時間のほうが多かったのだが、見るところは見ていてくれたのである。この一言は、緊張し続けていた私の心にいささかの余裕を生み出してくれたと思う。

善意の忠告、それとも政治的警告?

これですぐにも設立大会当日の話に移りたいところだが、その前にもう一幕あった。設立大会予定日まで1カ月を切った5月上旬のある日、帰宅すると『朝日新聞』の知り合いのベテラン記者から電話が入った。

「台湾学会というのを作るんだって」という切り出しから、問われるまま幾つかの質問に答えた。そしてしばらくして同紙の夕刊に「台湾学会」と題するコラムが出た。

当時の切り抜きはいつの間にか散逸してしまっていたが、最近知り合いの検索の名人がそのコラムを探し出してくれた(写真参照)。記者はどこかで学会設立趣意書を入手してコラム執筆を思い立ったらしい。電話での私の言葉も引用しながら、末尾では「学術研究が政治対立に投げ込まれるのは不幸なことだ。台湾学会に、中台の対立が持ち込まれないよう願いたい」と結んでいる。

『朝日新聞』1998年5月11日夕刊、2面(筆者提供)
『朝日新聞』1998年5月11日夕刊、2面(筆者提供)

大会直前の対応に忙しかった準備委員会でもこの記事は話題になった。私は、筆者は、コラム子が知り合いでもあり「善意の忠告」の範囲と受け取っていたが、委員の中には、一定の立場からする「政治的警告」と受け取る人もいた。確かに、良識の権化のようなレトリックで固めた結びの文言には「雉(キジ)も鳴かずば撃たれまい」的な警告が含まれているように読めないこともない。

前記のように大会当日の出席者は200人を上回っていた。川島さんの記録によれば、趣意書に応えて事前に入会申し込みをした人は145人だった。上記コラムがひょっとしたらたくまずして広報係を務めてくれたのかもしれなかった。そして、大会当日確かに若干のハプニングがあった。だが、学会はそれを乗り切ることができた。雉は鳴かなかったのではない、雉はしっかり鳴ききることができたのだと思う。

バナー写真=『日本台湾学会報』(筆者撮影)

台湾 研究 若林正丈