日本人の僕が台湾でYouTubeを始めて思ったこと

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台湾で作家として活躍する木下諄一氏は2020年10月、YouTube(ユーチューブ)チャンネルを開設した。1年10カ月たった現在、登録者数は5万人近くとなっている。1961年生まれで還暦を過ぎ、インターネットでアプリをダウンロードすることすら緊張したという “素人”が、いかにしてこれだけのチャンネル登録者数を獲得することができたのか。台湾に向けて発信する際のコツも併せて紹介する。

心に残った友人の一言でYouTube参入を決意

YouTubeの存在はかなり昔から知っていた。でも、位置付けは音楽とスポーツを見るためのもの。自分がやるなんてこれっぽっちも思わなかった。僕はもともと文字が好きで、動画については興味もなかったし、全く別世界のものという認識だったからだ。

存在を知ってから5年くらいたった2017年ごろ、友達がこんなことを言うのを聞いた。

「YouTubeはこれからの新しいビジネス」

それでも、この時点でまだ僕の心は動かなかった。それがある日、考えが180度変わる出来事に遭遇する。

その日、僕はネットニュースを見ていた。ニュースというよりは解説か評論といった内容のもので、全部で5ページほど。それまでこういう記事が長いと思ったことはなかったのだが、なぜかその時は2ページぐらいで「息切れ」した。

理由を考えてみると、一つ思い当たった。直前に見た動画がほとんど同じような内容だった。

これからは動画の時代だ。

文字離れが進んでいるという話はここ数年ずっと聞いていた。書籍は売れないし、雑誌も次々廃刊している。ただ、これに対して僕自身は、何となくスマホの登場が原因なのかなと思う程度で、ほとんど気にさえしていなかった。ところが、この時初めて「どうやら違う」と実感した。

みんな本当に文字を読まなくなっているのだ。

そう思った瞬間、不安がよぎった。今後、文字を書く仕事はなくなるかもしれない。そうじゃなくても、市場は縮小し、生計を立てていくのは難しくなる。

「YouTubeはこれからの新しいビジネス」。耳元で友達の声が聞こえてきた。どうやって運営し、どのぐらいの収益があるのか、見当もつかなかったが、その声に「とにかくこれをやれ」と背中を押された気がした。

僕はYouTubeをやることを決めた。

一番つらかったチャンネル開設までの日々

最初にやったことは、とりあえず器材を買うことだ。当時最新バージョンのiPhone 11 PRO、動画制作に耐えうるスペックのPC、ピンマイク、三脚はじめ周辺機器、編集ソフト。ネットで検索して、それらしいものを一式そろえた。

でも、まだできない。

使い方が分からないのだ。YouTube開設のための講座を申し込んで授業も受けたが、付いていけなかった。ノートパソコン持参という条件にもかかわらず、ノートパソコンを持ってない。友達に借りて、形だけそれらしくしてみたものの、教室で使い方が分からず、授業中はボケっとしてるだけ。何とも情けない状態だった。

分かっていたことだが、僕にはネットに関する知識と経験がほとんどなかった。PCにアプリをダウンロードするのでさえ緊張する。何か変なのを押して取り返しのつかないことになったらどうしよう。そのレベル。この頃が一番つらかった。まだ始めてもないのに。

で、覚悟を決めた。弱気は一切捨てて、一からネットで検索して覚えようって。機材も買ってしまったし、もう必死だ。

それからというもの、苦労の連続だった。普通の人が2時間でできるものが1日、1日でできるものが1週間かかったし、5時間格闘して何も成果なし、なんてのもざらだった。誰かに教えてもらえばいいじゃないかと思うかもしれない。しかし僕にはその誰かがいなかったし、仮にいたとしても、僕自身のレベルがあまりに低くて手伝ってもらうのが申し訳ない。

それでも前に進み始めたのは、心のどこかに、ここでやらなかったら人生終わるっていうぐらいの切羽詰まった感があったからだ。そういう状況になると人間結構できるもので、ゆっくりだが、問題は一つずつ解決していき、最低限の動画が作れるくらいにまでなった。

そして予定より2カ月遅れて2020年10月、「超級爺爺SuperG」がスタートした。

筆者のYouTubeチャンネル「超級爺爺SuperG」
筆者のYouTubeチャンネル「超級爺爺SuperG」

十種競技のようなセンスが必要

YouTubeは外から見るのと実際にやるのでは、見える風景が全く違う。やる前はみんな自信満々だ。自分がやれば絶対にできる、チャンネルは破竹の勢いで成長すると思ってる節がある。僕もそうだった。YouTubeの罠(わな)とでもいったらいいのか、これに見事にはまった。

一番大きな原因はアルゴリズムを理解してなかったことだ。登録者数や再生回数を増やすにあたって、これまでやってきたビジネスモデルはまったく参考にならない。早くこのことに気付く必要がある。一言で言うと、対人と同時に対AI(人工知能)がそれ以上に大事な要素となってくるということだ。

そしてYouTubeの最初のハードルは収益化。広告収益を得られるように申請するのだが、これには条件があって、登録者数1000人、視聴時間数4000時間をクリアしなきゃいけない。これが結構難しくて、クリアするのは全体の10%から15%ぐらいだという。

僕の場合、17本目の「台灣的防疫太厲害,但(台湾の防疫対策はすごいけど)」という動画で条件をクリアして、それまで100人そこそこだった登録者数が4000人に達した。さらに約2カ月後、「那一年台灣捐款 日本人為甚麼?(あの年の義援金、日本人はどうして台湾が?)」が30万回再生(現64万回)とバズったのをはじめ、10万回再生超えの動画が数本続いたことで登録者は一気に2万5000人に到達。こうしてチャンネルの基礎が固まっていった。

YouTubeはやるべきことが多い。これも運営を難しくしている理由の一つだと思う。主なものは4つ。企画、撮影、編集、分析。他にもまだあるけど、大まかにはこんな感じで、予算のない人はこれらを全て一人でやらなきゃいけない。もちろん分野によって得意もあれば苦手もある。それをバランスよく進めていかないと、チャンネルは成長しない。言ってみれば、陸上の十種競技のようなセンスが必要になってくる。

僕の場合、幸いにもこの4つの分野はどれも比較的得意だった。というか、過去に似たような仕事をずっとやってきたので、普通の初心者よりは経験値が高かったと思う。

例えば長く携わってきた雑誌の編集。企画構想と年中奮闘していたおかげで、視聴者目線の企画を作るのは慣れていたし、サムネ(画像ページなどを表示する際に視認性を高めるために縮小させた見本となる画像)制作はほとんどページ作りに相通じるものがある。作家活動は脚本執筆に役立ったし、黙ってコツコツひたすら作業する編集も嫌いじゃない。一番苦手な撮影のパフォーマンスも講演の経験があったから、軌道に乗るまでは意外と早かった。そして分析は僕自身、一番好きな分野。だからYouTubeを始めて1年10カ月、レッドオーシャン(競合が市場内に多数存在し、競争が激しくなっている市場)を泳ぎ切って登録者数が4万9500人に達したのも、はたから見るより、本人はずっと楽だったと思う。

YouTubeの登録者数が増えるにつれて、もう書くのはやめたのかって聞かれることがある。もちろん、やめてない。YouTubeを始める前は、自分は何をする人なのかということが気になった。作家なのか、YouTuberなのか。それとも、もっと他の何かなのか。

でも、今思うことは、これはさほど重要ではない。これからの時代、この感覚が重要で、何かを極めるというスタイルは徐々にはやらなくなっていくと思う。目に見えるわけではないが、ここ数年、ネットの普及とともに僕らの世代にとって、大きな時代の変化が来ている。それは手を伸ばせば触れることができるほどの距離にある。それにのみ込まれないように、何とか泳ぎ切っていきたい。YouTubeは僕にとって強い武器になるに違いない。そして、あの時YouTubeを始めておいてよかったという日が来ることを疑っていない。

「超級爺爺SuperG」でオードリー・タン(右)を取材する筆者
「超級爺爺SuperG」でオードリー・タン(右)を取材する筆者

成功のポイントはどんな人にどんな内容を明確に伝えられるか

最後に、今後台湾向けにYouTubeをやりたいという人に一言。これからはどんな人にどんな内容を伝えたいのか、できるだけ明確にすることが大事だと思う。

数年前なら外国人YouTuberというだけで、それ自体が特徴あるチャンネルになった。しかし、ここ数年で参入者の数も増えてYouTubeを取り巻く環境は大きく変わった。登録者数何十万人のビッグチャンネルを作るのは至難の業となったし、収益も安定しない。それでもやりたいと思う気持ちがあるかどうか、自分に問いかけてみてほしい。

YouTubeは国境を越えて人と人をつなぐツールだ。地道に積み重ねていけば、プラットフォームが構築されてコミュニティーができる。そこで価値を生み出すことができれば、その後はさまざまな展開が待っている。僕もそれを夢見て動画の制作を続けている。

写真は全て筆者提供

バナー写真=これから動画の収録を始める筆者

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