退屈からの脱却!クルマ好きの心をつかんだトヨタ―豊田章男社長の挑戦

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途絶えていたスポーツカーを復活させ、モータースポーツにも活発に参戦。さらにはサーキットで得た技術を市販車にフィードバックするなど、一昔前は“退屈”と揶揄(やゆ)されたトヨタのクルマづくりが近年一変している。ブランドイメージは格段に向上し、2022年3月期には過去最高益を記録した。そのすべては現社長・豊田章男のある“想い”から始まった――巨大自動車メーカーを動かした情熱と行動の記録。

スポーツカー消滅からの大変身

2007年、トヨタのラインナップからスポーツモデルが完全に消滅した。効率や業績、数字を追い求めていくと「スポーツカーは不要」という考え方はビジネスとしては正論だ。その証拠に当時のトヨタは販売台数で世界No.1になった。だがその一方でクルマ好きからの評価を失い、「トヨタはつまらない」「欲しいクルマがない」とソッポを向かれていた。

それから15年、トヨタは大きく変わった。コロナ禍、資材・物流費の高騰、そして半導体不足と、自動車業界には厳しい環境が続いているが、22年3月期には売上高、営業利益、純利益すべて過去最高を記録。さらにGRスープラ、GRヤリス、GR86、GRカローラと他メーカーよりも豊富なスポーツモデルをそろえ、量産車開発に役立てるため、裾野から頂点までカテゴリーを問わず積極的にモータースポーツに参戦している。いつしかクルマ好きからの評価も「トヨタは面白い」「欲しいクルマばかり」と一転した。

いったい、何がトヨタを変えたのか? その答えは技術革新でも設備投資でも人材増強でもなく、在籍する社員の“マインドチェンジ”だ。変化を導いたのは、豊田(とよだ)章男社長の「もっといいクルマを作ろう」という想い。それは創業時の原点に戻ることだった。

トヨタの前身である「豊田自動織機製作所自動車部」が設立されたのは1933年。以来、「トライ&エラー」を積み重ねてクルマづくりにおける技術や経験、ノウハウを構築。それを実証する最適な手段は「ライバルと競い合う」ことだった。

トヨタ自動車の創業者・豊田喜一郎が記した『オートレースと国際自動車工業』には、このような記述が残されている。

《これから乗用車製造を物にせねばならない日本の自動車製造事業にとって、耐久性や性能試験のため、オートレースにおいて、その自動車の性能のありったけを発揮してみて、その優劣を争うことに改良進歩が行なわれ、モーターファンの興味を沸かすのである……。単なる興味本位のレースではなく、日本の自動車製造業の発達に、必要欠くべからざるものである》

そんなトヨタが初めて参戦したモータースポーツはラリーだった。58年に走行全距離1万マイル(約1万6000km)と世界最長かつ過酷な自動車競技として知られた「豪州一周モービルガス・トライアル」に、トヨペット・クラウンで参戦。参加台数102台中50台がリタイヤという過酷なステージながら完走を遂げ(52台中47位、海外からの参加車11台中3位)、トヨタの技術力を世界に披露した。

初めてのサーキットレースは、63年に鈴鹿サーキットで行われた「国際公認 第1回日本グランプリ自動車レース」だった。国内外の車両が参加する中、トヨタは出場全種目を制覇し、高性能ぶりを立証した(1600~2000ccクラス:トヨペット・クラウン、1300~1600ccクラス:トヨペット・コロナ、400~700ccクラス:トヨタ・パブリカ)。

モータースポーツで勝つ→ユーザーから信頼を勝ち取る→性能の良いクルマだと認めてもらえる→販売増につながる……そんな方程式が存在した時代。日本の自動車メーカーはどこも積極的にモータースポーツに参戦していた。

しかし、アメリカで成立したマスキー法に端を発する排ガス規制やオイルショックなどの影響により、70年代には自動車メーカーのモータースポーツ参戦はいったん打ち切られた。その流れが戻り始めたのは80年代である。排ガス規制を乗り切った自動車メーカーは、これまでの鬱憤(うっぷん)を晴らすべく高性能化の道をたどった。モータースポーツも同様で、「速さ」で勝負するカテゴリーへの参戦が増えていった。

バブル期にはF1を頂点としてモータースポーツへの注目度も高まり、メーカーのレース参戦のスタンスは「走る実験室」から「プロモーションの場」へと変わっていった。莫大な予算を投じ、勝ちにこだわってスペシャルな車両やアイテムが開発されたが、結果として「モータースポーツ車両と量産車は完全に別物」と言われ、クルマ好きがレースに興味を抱きにくい状況に陥った。

さらに、バブル崩壊やリーマンショックといった社会情勢に左右されて撤退と復活を繰り返した結果、モータースポーツから得られる技術の伝承は途絶え、メーカーがモータースポーツに携わる理由が希薄になっていった……。

社長自らレースに参戦

そんな状況に疑問を持ったのが、当時はまだ社長就任前の豊田章男と、トヨタのテストドライバーの頂点であるマスターテストドライバーの成瀬弘(故人)だった。二人はドライビングを通じての師弟関係にあり、共通した考えは「モータースポーツを通じて人とクルマを鍛え、もっといいクルマづくりにつなげること」、つまり喜一郎が語った“原点”に戻ることだった。

師弟関係を結ぶきっかけは、成瀬が豊田に言い放った「運転のことも分からない人に、クルマのことをああだ、こうだと言われなくない。最低でもクルマの運転は身につけてください」の一言。これがきっかけで、豊田は運転訓練を受けるようになり、その後自らステアリングを握って「モリゾウ」名義でレース参戦するに至った。

「ニュルブルクリンク24時間耐久レース」でチームメートと話す豊田章男(左)。自らもステアリングを握り、「モリゾウ」のドライバー名で出場する(2009年5月22日、ドイツ) 共同
「ニュルブルクリンク24時間耐久レース」でチームメートと話す豊田章男(左)。自らもステアリングを握り、「モリゾウ」のドライバー名で出場する(2009年5月22日、ドイツ) 共同

そんな二人は07年に「GAZOO Racing(ガズーレーシング)」を発足し、「ニュルブルクリンク24時間耐久レース」へ参戦を決意。世界有数の過酷なコースでの24時間レースを通じて人とクルマを鍛え、そこで得た知見やノウハウをもっといいクルマづくりにフィードバックする――つまり量産車開発にモータースポーツを活用することを目的とした。ドライバーはプロだけでなくトヨタの評価ドライバーも担当。それはクルマ全体を俯瞰(ふかん)して開発できる能力を身につける、究極の人材育成でもあった。

当初はトヨタの正式なプロジェクトとは認められず、同好会のような組織だった。マシンは中古のアルテッツァが2台。メカニックはほぼトヨタ社員で、素人同然のチームで挑んだ初めての24時間レースを満身創痍ながら完走し、当時のメンバーは「完走は奇跡」と語った。

豊田は09年に社長に就任するが、チームにトヨタの名を使うことは許されなかった。しかし、その活動は少しずつ社内に理解され始め、年を追うごとに規模が拡大した。そして、初挑戦から8年目となる15年には 「TOYOTA GAZOO Racing」と名称を変え、トヨタの正式部隊へと昇格。16年に社内カンパニー制度によって設立されたTGRファクトリーを経て、17年からはGRカンパニーとしてモータースポーツ活動を行っている。マシンも発売前のプロトタイプでの参戦に加えて、将来の量産モデルへの採用を目指した先行技術も実戦投入されるようになった。

トヨタにあるカンパニーの中で最も小さい組織となる「GRカンパニー」はマニュファクチャー(製造業)であると同時に、世界ラリー選手権(WRC)、世界耐久選手権(WEC)、ニュルブルクリンク24時間にワークスチームとして参戦を行なう「レース屋」でもある。

それが意味するのは、GRカンパニーはモータースポーツ活動をPRの場ではなく開発の場として認識しているということ。各カテゴリーにエンジニアやメカニック、ニュルブルクリンクにはドライバーまで送り込み、そこで得たノウハウや知見、人材を量産車開発に直接的に投下するシステムを構築している。つまり、モータースポーツを「技術開発の場」として活用しているのだ。

豊田社長は元祖「GAZOO Racing」を立ち上げた頃のことを、このように振り返る。

「07年にトヨタも名乗れず、プライベーターよりも小さな手作りのチームで参戦しました。その時、『誰からも応援してもらえない悔しさ』『何をやってもまともに見てくれない悔しさ』『何をやっても斜に構えて言われてしまう悔しさ』『生産中止になったスープラで走る悔しさ』と、さまざまな悔しさを味わいました。そのすべてが、09年6月23日に社長に就任した時からのずっとブレない軸になっています。私が『もっといいクルマづくり』としか言わないのは、悔しさからなのです」

そう、あの小さな一歩がなければ、今のトヨタは存在しないのだ。

レースを通じたカーボンニュートラルへの取り組み

また最近は、GRカンパニーが独り立ちした後に豊田社長が作ったプライベートチーム「ルーキーレーシング」と連携し、カーボンニュートラルへの取り組みも進めている。トヨタはカーボンニュートラル実現のために全力を尽くすと発表しているが、「正解がないからこそ、選択肢を狭めるのは良くない」と、パワートレインのマルチソリューションを強調してきた。

次世代モビリティの論議が活発になった当初、新聞や経済メディアは欧州のBEV(バッテリーEV)シフトを支持し、トヨタのやり方を「中途半端」「時代遅れ」と揶揄した。

電気自動車(EV)戦略について説明する豊田章男社長(2021年12月14日、東京都) 時事
電気自動車(EV)戦略について説明する豊田章男社長(2021年12月14日、東京都) 時事

そこでトヨタは行動で示した。それは『カーボンニュートラルに選択肢を!!』をキーワードにした、水素エンジン搭載のカローラによる国内レース「スーパー耐久シリーズ」への参戦だ。2021年の参戦当初は孤高の存在だったが、1年間シーズンを戦い抜いて実績を残すと、同じ想いを持つ仲間が次々と現れた。

22年からは、スバルとタッグを組んでカーボンニュートラル燃料の開発を行なうと発表。その活動は他メーカーにも伝播し、現在はマツダ、日産、ホンダなども、モータースポーツを活用してカーボンニュートラル燃料の開発を進めている。世の中の流れは確実に変わったのだ。

豊田社長が日頃から口にする「もっといいクルマづくり」の本質は、「これはいいでしょ?」「こんな人に乗ってもらいたい!」という作り手の情熱が、クルマを通じて感じられるような物づくりをしてほしい……という想いである。最近ではそれに「モータースポーツを起点とした」という枕詞が入る。モータースポーツの現場では当たり前の「時間軸の速さ」「その場で解決」「結果に直結」を、普段の業務で生かしてほしいと考えているのだ。

07年で消滅したスポーツカーをGRブランドの専用モデルとして復活させたのも豊田社長である。86(現行モデルはGR86)、GRスープラ、GRヤリスなど、クルマ好きも注目するさまざまな車種を世に送り出し、トヨタのブランドイメージは一変した。

2021年6月に発表された「GRヤリス RZ“High performance・モリゾウセレクション”」。トヨタが手掛ける自動車のサブスクリプションサービス「KINTO」限定の特別仕様車だ 写真=トヨタ
2021年6月に発表された「GRヤリス RZ“High performance・モリゾウセレクション”」。トヨタが手掛ける自動車のサブスクリプションサービス「KINTO」限定の特別仕様車だ 写真=トヨタ

「たとえばGRヤリスには、トヨタだけの力でスポーツカーを作りたかった『悔しさ』、トヨタのクルマづくりを変えたい『想い』、モータースポーツで勝つクルマを市販車として使ってもらう『逆転の発想』、エンジニアとトップレーサー、そして現場とワンチームでクルマを作る『挑戦』が込められています」

多くの想いをかなえるべく、素早く行動に移す豊田社長の原動力は何か。

「それはモータースポーツが好きだから。それじゃなきゃ、こんなに長いことやっていません。私が社長になった時、『現場に近い社長でありたい』と言いました。現場に来てクルマの話をするのは豊田家の伝統です。その現場はどこか? それは技術のある場所、まだ結論がなくてもファクトがある場所です。自動車メーカーである限り、トップがそこを貪欲に拾いに行かなければ、進歩は生まれないんです」

答えは至極明快。そして力強い情熱にあふれていた。

トヨタ自動車ホームページより、時事
トヨタ自動車ホームページより=時事

豊田 章男  TOYODA Akio

1956年生まれ。慶應義塾大学法学部卒業。米・バブソン大学経営大学院修了(MBA取得)。84年にトヨタ自動車に入社。アジア本部本部長、中国本部本部長、取締役副社長などを経て、09年6月、取締役社長に就任。豊田章一郎名誉会長の長男であり、創業者の豊田喜一郎氏の孫にあたる。大学時代はホッケー部に所属し、日本代表に選出された実績を持つ。

バナー写真:ラリーの世界最高峰、WRCで活躍するGRヤリス。トヨタは2019年から3年連続でドライバーズチャンピオンを輩出している 写真=トヨタ

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