初の女性棋士誕生なるか? “出雲のイナズマ”里見香奈女流五冠が「棋士編入試験」に挑む

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将棋界初の女性棋士を目指し、里見香奈女流五冠が8月18日から始まる「棋士編入試験」に挑む。彼女の挑戦までの足跡をたどりながら、「棋士」への厳しい道のりと将棋界にこれまで女性棋士が存在しなかった理由をひもとく。

「棋士」と「女流棋士」の大きな隔たり

「挑戦してみたいという気持ちが出てきたので、そうすることにしました」

2022年7月6日。里見香奈女流四冠(30歳、8月3日に「清麗」を奪還し五冠に復帰)が会見し、「棋士編入試験」の受験を発表した。

里見は現在、将棋の女性プレーヤーを指す「女流棋士」の第一人者として史上最高の実績をあげ、女流棋士で争われる8つのタイトルのうちの5つを保持している。彼女が今回「棋士」を目指して編入試験を受験することは、どれほど歴史的な意義があるのだろうか。

現代の将棋界で史上最高の実績を残してきたプレーヤーは、羽生善治九段(51歳)だ。数々の記録を塗り替え、18年には国民栄誉賞も受賞。将棋界という枠を超えて人々から尊敬を集め、現代日本の知性の象徴ともいえる存在になっている。

そして年齢的には羽生の記録をも上回るペースで活躍している、現代のスーパーヒーローが藤井聡太九段(20歳)。羽生と同様、藤井も10代のうちから頭角を現している。

彼らのようなプロの将棋プレーヤーは「棋士」と呼ばれ、現役の棋士はトップクラスから新人に至るまで約180人が存在する。

男女という性別はもちろん、その他あらゆる属性を問わず、基本的には実力さえあれば誰でも棋士になれる。その一方で、里見は女性だけに門戸が開かれている「女流棋士」ではあるが、「棋士」ではない。

将棋のプロはこの「棋士」と「女流棋士」の二本立てになっていて、過去にさかのぼっても棋士の中に女性はゼロ。プロの区分は性別によって分かれているようにも見える。

体力に差があるため、スポーツでは男女に種目が分かれるのは理解しやすい。他方、将棋は頭脳を使うゲームなので、男女差はないようにも思われる。それなのに、女性の棋士がいないのはなぜか。

1980年代半ば、ある引退棋士(故人)は次のように語っていた。

「女に将棋は無理です。女は、碁とか麻雀とかゴルフとか、そういうことをやっとりゃエエ。碁は平面的だから女でもできる。しかし、将棋は立体的だから無理なんだ。女はおみおつけのことを考えとりゃエエんじゃ。女に将棋指すことを教えたらイカン。それがバカなんだ。うちの女房は、いっさいやらんよ」(『将棋世界』1986年1月号)

いまの感覚で読めば、大炎上しそうな言葉だ。これは極端な例としても、以前は、こうした発言を平然と行う男性は珍しくなかった。

かつて「天才少女」と呼ばれた林葉直子女流五段(54歳)は79年に奨励会に入会したが、周りは男の子ばかりで居場所がなく、休憩の時間などは女性トイレに引きこもっていたという。女性にとっては相当厳しい環境だったのだろう。

実は将棋界の長い歴史において女性がプレーヤーとして登場したのは、ごく最近のこと。それがそのまま実力差となって表れていると考えるのが、最近では一般的になっている。

第48期女流名人戦で対局する里見(2022年2月24日、大阪市・関西将棋会館) 共同
第48期女流名人戦で対局する里見(2022年2月24日、大阪市・関西将棋会館) 共同

女流棋士のパイオニア

現在の日本の将棋は16世紀、戦国時代の頃に確立したと言われている。9×9のマス目の中で双方20枚ずつの駒を使い、相手から取った駒を自分の「持ち駒」として使える点が将棋の大きな特徴だ。

それから400年以上、基本的なルールを変えることなく、将棋は日本の伝統文化と言われるほど、多くの人から長く愛されてきた。

将棋をプレーすることを「将棋を指す」と言い、そのプレーヤーは「将棋指し」と呼ばれる。強くなると「段」が与えられ、初段から始まって二段、三段と上がり、八段、九段となればトップクラス。なかでも同時代に一人だけ存在する「名人」は、将棋指しの頂点として尊敬されてきた。

江戸幕府を開いた徳川家康(1543−1616年)は当時の将棋指しを尊重し、優遇した。以来、専業の将棋指しが存在してきたのも日本独特といえるだろう。

とはいえ将棋指しはずっと、ほとんどが男性だった。女性が将棋を指す例はまれで、近代に至るまで、段を持つレベルの女性は数えるほどにすぎなかった。

20世紀に入って将棋界にも現代的な制度が整っていくに伴い、職業として将棋を指す人を「棋士」と呼ぶようになる。かつてはとてもあやふやだったアマチュアとの境目も次第に厳格化されていった。

現代では原則として、19歳を迎える前に奨励会という棋士の養成機関に入り、規定の成績を収めることが棋士の条件とされている。好成績を重ねて6級、5級……と昇級し、1級の次が初段。さらに二段、三段までが奨励会員であり、会員同士による熾烈(しれつ)な競争を勝ち抜いて四段に上がると、ようやく棋士の資格を得ることができる。

1961年、蛸島彰子(たこじま・あきこ)女流六段(1946年生まれ、現在76歳)が女性として初めて奨励会に入会。女流棋士のパイオニアとして、男性たちの中にただ一人交じって奮闘し初段にまで到達したものの、残念ながら四段にはなれなかった。

しかしその活躍を見て、少しずつ将棋を指す女性は増えていく。74年には、女性だけを対象とした「女流棋士」の制度が発足。女性のアマチュアの中から比較的強いプレーヤーが現れてきたこと、女性への将棋普及のためには女性のプロ制度があった方がいいと日本将棋連盟が判断したこと、またその考えに賛同するスポンサーが現れたことなどが理由だ。

前述の通り、こちらは棋士とは別立ての制度なので奨励会に入る必要はなく、女流棋士同士で対局をし、「女流名人」などのタイトルを争う仕組みだ。初代女流名人となった蛸島をはじめ、当初わずか6人でスタートした女流棋士の人数は少しずつ増え、次第にレベルも向上していった。現在では奨励会の下にある「研修会」という組織に入って所定の成績をあげることで、女流棋士の資格を得ることができる。

「出雲のイナズマ」の挫折

里見は2004年、12歳で女流棋士となった。島根県出雲市出身で、長距離バスに乗って都会の大阪や東京へ遠征して実績を重ね、その豪快な攻めは、しばしば「出雲のイナズマ」と評されてきた。

今から10年以上前の11年、19歳ですでに女流棋士のトップとして活躍していた里見は、奨励会入会を表明。女流棋士を続ける傍ら、棋士も目指すことを決める。

ハードスケジュールの中、体調不良による休場がありながらも奮闘し、13年、21歳のときには女性として初めて奨励会で三段にまで昇段した。そこまで行けば四段まであともう少しのように見えるが、ここで立ちはだかってくるのが、三段リーグという過酷な制度だ。

奨励会で奮闘、女性として初めて三段に昇段し、会見では笑顔を見せた(2013年12月23日、大阪市・関西将棋会館) 時事
奨励会で奮闘、女性として初めて三段に昇段し、会見では笑顔を見せた(2013年12月23日、大阪市・関西将棋会館) 時事

三段リーグでは半年で全18局を戦い、原則として上位2人だけが四段に昇段する。つまり勝ち抜くのは年間でわずか4人という、おそろしく狭い門なのだ。里見が在籍していた頃の三段リーグには30人前後がひしめいていた。

さらにもうひとつ、奨励会には年齢制限という過酷な制度もある。原則として26歳を過ぎると退会しなくてはならない。三段リーグで5期戦った里見は、惜しくも上位2人に入れず、年齢制限のため18年に奨励会を退会した。

挑むことすら難しい「棋士編入試験」

退会後の里見は女流棋士として変わらぬ活躍を続けてきた。2021年度には、女流棋士同士の対戦で40勝10敗という抜群の成績を収めている。

女流棋士のトップクラスは、棋士が戦う公式戦(一般公式戦)に参加できる。里見はそこで男性を相手に好成績を収め、21年度は7つの棋戦に参加して9勝7敗という成績を残した。

そこで注目を集めたのが、「棋士編入試験」の制度だ。

かつては奨励会を退会したら最後、棋士になる道は閉ざされていた。しかし05年、アマチュアだった瀬川晶司が一般公式戦で次々と棋士に勝つ異例の活躍を見せ、歴史が動く。

瀬川はプロ入りを嘆願し、過去に例のなかった「編入試験」の開催が決まった。プロレベルの力を持つ棋士との六番勝負で、瀬川は3勝2敗という成績をあげ、見事に合格。四段の棋士となることが認められた(現在は六段に昇段)。

以来、「棋士編入試験」は制度化されたが、この試験を受けるのもそう簡単ではない。「現在のプロ公式戦において、最も良いところから見て10勝以上、なおかつ6割5分以上の成績を収めたアマチュア・女流棋士の希望者」という、厳しい条件を満たさなければならないのだ。

さらにそのあとに待ち受ける五番勝負で、若手棋士を相手に3勝をあげることが合格ライン。このあまりに高いハードルを突破して棋士になったアマチュアは、過去に瀬川を含め男性がわずか3人。女性ではそもそも編入試験受験の条件をクリアする人すらいなかった。

第90期ヒューリック杯棋聖戦1次予選では藤井聡太七段(当時)と対局。里見は敗れたが、二人の戦いは大きな注目を浴びた(2018年8月24日、大阪市・関西将棋会館)時事
第90期ヒューリック杯棋聖戦1次予選では藤井聡太七段(当時)と対局。里見は敗れたが、二人の戦いは大きな注目を浴びた(2018年8月24日、大阪市・関西将棋会館)時事

現実味を帯びてきた「女性棋士」の誕生

そこに登場したのが、里見だった。もともと強かった里見だが、最近の充実ぶりには目覚ましいものがある。一般公式戦で、男性の棋士を連破。今年5月27日には男性の若手強豪に勝って、直近で10勝4敗(勝率0.714)という成績をあげた。女性として初めて、編入試験受験の条件をクリアする快挙だった。

「ちょっとあまり考えてなかったので……」

対局が終わったあと、棋士編入試験について尋ねられた里見はそう語っている。それは本音だっただろう。奨励会を退会する際にも、棋士への再チャレンジは考えていない旨を述べていた。

申請期限までの1カ月、彼女の決断は大いに注目された。受験は権利であって、受けるかどうかは、本人の意思に任されている。女流棋士のトップとしてハードなスケジュールを過ごす里見が合格して棋士になれば、対局やその他の公務でさらに忙しくなる。将棋関係者からは「受験しないのではないか」という声も聞こえてきた。

迎えた6月28日、日本将棋連盟は里見の編入試験受験を発表する。

「棋士になれるかどうかというよりは、自分がどこまでやれるのかを重視して決めたところはあります」

里見は決断の理由をそう説明した。

蛸島は里見の決意を聞き、次のようにコメントしている。

「女流棋士制度が発足して、そろそろ50年になります。その前から『将来、女性は棋士になれると思うか』と尋ねられた際には『はい、限界はないと思います』とお答えしていました。それからの50年はあっという間な気もするし、長かったような気もします。でも、50年前に思ってお答えしたことは、いまでも変わりません。それがだんだん現実に近づいていって、うれしいですよね」

注目の五番勝負は8月18日に第1局が行われる。相手はいずれも20代、勢いに乗る精鋭の四段たちだ。

「自分の実力からすると厳しい戦いになるとは思うんですけど。試験までにできる限りのことをして挑みたいと思っております」

編入試験に合格できるかどうか――事情をよく知る業界関係者の間では「五分五分」という予想が聞こえてくる。3連勝してすんなり合格してもおかしくはない。一方で3連敗で敗退してもおかしくはない。

世論はもちろん、里見を応援する声が圧倒的だ。

「全力を尽くしますので、静かに見守っていただけると幸いです」

編入試験の受験についての会見で、里見はそうコメントした。その言葉通り、多くの将棋ファンはできるだけ静かに、しかし心の中では盛大に彼女を応援することだろう。

バナー写真:記者会見で棋士編入試験への意気込みを語る里見香奈女流五冠(2022年7月6日、大阪市・関西将棋会館) 共同

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