神戸ジャズの魂、響いて100年(2):街が育てた財産・ジャズストリート

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【神戸新聞】始まりは、ポートピア’81だった。1981年、神戸ポートアイランド博覧会で国際的なジャズ・フェスティバルが開かれ、国内ジャズ史上最多の約4万人が詰めかけた。

ラジオ関西で「電話リクエスト」を手がけ、ジャズに精通する末廣光夫さん(故人)は「その夢は消え去らず…神戸の山手界隈でイベントをやってみたら」「(それも)同時多発型の粋なイベントを」(「Kobe Jazz Street」より)とひらめく。

82年秋、末廣さんらが中心となって、神戸ジャズストリート(ジャズスト)を生み出す。NHK朝ドラで注目された神戸・北野坂周辺で、ライブ会場10カ所ほどを回る「はしごジャズ」を打ち出し、全国の先駆けとなった。毎年秋に催し、定着していく。

転機は95年の阪神・淡路大震災。開催が一時危ぶまれたものの、ミュージシャンや地元の支援で実現にこぎつけた。「心の復興はジャズの響きから」を掲げ、初めてパレードを実施、観客は涙で拍手を送った。

「今年こそは」と3年ぶり開催

そして2019年、台風による一部中止で資金難に陥り、20、21年、コロナ禍もあり中止。困難を乗り越え22年10月、ジャズストを3年ぶりに開催し北野坂のパレードでは「聖者の行進」など軽快な演奏を響かせた。

大口の寄付に加え、クラウドファンディングが目標の100万円を突破するなど、後押ししたのは市民だ。実行委員長、田中千秋さん(77)は「『今年こそは』という熱い思いを肌で感じた」と感謝する。

今年も、ゆったりとしてノリがよく、伝統的な「ディキシーランド」や「スイング」にこだわった。今の主流で、速いテンポや複雑な即興演奏で聴かせる、モダンなジャズとは異なる。

「神戸に似合うジャズを伝えたいと当初から貫いてきた」と田中さん。「例年通り、イベントのプロでなく愛好家らでつくる実行委と、ボランティアで実施した。手作り感を大切に、新しい挑戦をしながらジャズストらしさを守りたい」

新しい才能発掘

一方、「神戸新開地ジャズヴォーカルクィーンコンテスト」は2000年、震災復興の一環で、ジャズの街から新しい才能を発掘しようと、神戸市と地元でつくる実行委員会が始めた。市文化交流課が事務局を担い、市の予算も充てる。

審査委員長は、「日本のジャズの草分け」とされる作曲家・服部良一さんの長男・克久さんが就任、20年に亡くなるまで務めた。優勝者に、本場の米シアトルでのライブ出演権を贈るのが大きな特徴だ。

音楽学が専門の輪島裕介・大阪大教授(48)=猪名川町=は「克久氏は『ジャズの街・神戸』というイメージの定着に貢献した」と指摘。女性ボーカルのコンテストは全国的に珍しく、毎年各地から100組近い応募がある。初代のジャネット啓子カワスジ=芦屋市出身=ら歴代クイーンの多くがプロとして活躍する。

「コンテストやジャズストリート、ライブハウスなどは神戸の大切な財産。『日常の音』にする施策を考えたい」と神戸市文化スポーツ局の宮道成彦・副局長(57)。コンテスト運営部会長でサックス奏者の道満雅彦さん(69)=オリバーソース社長=は「みんなが支えてこそ、ジャズが地域に根差した神戸の文化になるのではないでしょうか」と語る。

●記者ノート

神戸ジャズストリートや神戸新開地ジャズヴォーカルクィーンコンテストで感じたのは、演奏の楽しさはもちろんだが、ボーカルの存在の大きさだった。

男性ボーカルと言えば、1953年に新開地で公演したルイ・アームストロング(愛称サッチモ)の、大きな瞳や笑顔、情感たっぷりの歌声が浮かぶ。「この素晴らしき世界(What a Wonderful World)」をつい、口ずさみたくなる。

女性ボーカルでは、サラ・ボーン、エラ・フィッツジェラルド、そして、ビリー・ホリデイらがなじみ深い。映画「ザ・ユナイテッド・ステイツVS.ビリー・ホリデイ」は、白人による黒人虐待を描いた曲「奇妙な果実」が主題。差別への怒りや悲しみを抑えつつ歌い上げる姿が、心を打つ。

サッチモの愛嬌(あいきょう)たっぷりの笑顔というイメージも実は、差別から生き残る「仮面」とも言われる。曲の裏にある黒人の境遇を想像するのも、ジャズへの理解を深める一歩だろう。

記事・金井恒幸
写真・鈴木雅之
バナー写真:10月の「神戸ジャズストリート」のパレード=神戸市中央区の北野坂
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