佐渡と高雄をつなぐ山本悌二郎とその銅像の物語

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現在観光名所になっている高雄市の橋頭糖廠は、台湾の近代的な製糖業の発祥地で、佐渡出身の山本悌二郎が発展に貢献した。1929年、台湾人彫刻家・黄土水によって山本銅像が制作され、戦後は北海道を経て佐渡の公園に置かれたが、2022年12月、再び台湾の橋頭に戻り日台都市間の友好の証となった。

60余年と5000キロの旅を経て高雄に戻った銅像

高雄市の北部にあるテーマパーク橋頭糖廠(きょうとうとうしょう)は、1902年から99年まで操業していた橋仔頭(きょうしとう)製糖所の跡地を活用している。往年の設備、木造家屋、線路、防空壕(ごう)を保存、展示し、結婚式場としても利用されている。筆者は友人がここで開いた披露宴でそば打ちをして列席者に振る舞ったこともある。入場無料で、週末には五分車と呼ばれるかわいらしい列車で移動したりもできる。

小さな林の奥に、昔欧州人が熱帯地域の植民地に建てた館のような、回廊とアーチ型の柱が四方にめぐらされた洋館がある。1901年に建てられた「社宅事務所」だ。屋上の外壁には敵を射撃したり監視したりするために開けた穴「銃眼」が並ぶ。当時はまだゲリラ活動を展開する勢力があり、実際に幾度も襲撃を受けたという。

2015年、橋頭糖廠の披露宴でそばを打った(張明山提供)
2015年、橋頭糖廠の披露宴でそばを打った(張明山提供)

社宅事務所(筆者撮影)
社宅事務所(筆者撮影)

2022年12月17日。この季節には珍しく朝から雨が降ったりやんだりし、木の葉が風に吹かれてざわめく午後、ある銅像の除幕式が洋館の前庭で行われた。100人を超える出席者の前で、新潟県佐渡市の渡辺竜五市長、陳其邁高雄市長、謝長廷駐日代表らが祝辞を述べた。その後、赤い幕がはらりと落ち、台湾製糖業の礎を築いた山本悌二郎(1870-1937)の胸像が姿を現した。

近くで眺めると、薄闇の中、背後の窓から漏れる光を浴びてツヤが出ているせいもあってか、ずいぶん新しいものに見える。壮年の顔つきながら、まっすぐに前を見つめるまなざしからも若々しさがにじみ出ている。ところがこの像は、実は90年以上前にこの場所に設置され、一度は日本に渡ったものの、60年を超える時間と5000キロを超える長い旅を経て、再び帰って来たのである。

山本悌二郎像。背部には「1927 D. K.」と黄土水のイニシャルが刻まれている(筆者撮影)
山本悌二郎像。背部には「1927 D. K.」と黄土水のイニシャルが刻まれている(筆者撮影)

東西の学問に精通していた山本悌二郎

山本悌二郎は佐渡島出身の実業家で、政治家として農林大臣を2度務め、美術界においては中国古書画の蒐集家(しゅうしゅうか)・山本二峯としても知られる。小説家の志賀直哉も、コレクションを見せてもらうため芥川龍之介を連れて東京目黒にあった2万3000坪の山本邸を訪れ、「気軽に色々見せて呉れた」と随筆「沓掛(くつかけ)にて」に書いている。山本のコレクションは現在、三重県四日市市の澄懐堂美術館が保管する。

山本の雅号「二峯」は、大佐渡山脈と小佐渡山脈という2つの山脈が由来だというから、故郷への愛着を感じられる。彼に登用された土木技術者・鳥居信平は屏東の林辺渓に地下ダムを建設。1923年に完成して以来100年間、平原を潤している。山本の雅号にちなみ二峰圳(にほうしゅう)と名付けられた。鳥居の仕事については平野久美子著『台湾に水の奇跡を呼んだ男』(産経新聞出版、2009年)に詳しい。

1886年、山本はドイツに留学し、バウツェン農業学校、ホーエンハイム大学を経て、ライプツィヒ大学で農業土木を専攻。博士号を取得し、さらに英国の農業を1年間視察、1894年に帰国した。山本が西洋科学を吸収するためにどれほどの心血を注いだかは想像にあまりある。筆者はその原動力に、お雇い外国人の存在があったのではないかと想像する。生まれた年の1870(明治3)年から81年にかけて、政府は英国人ジェームズ・スコットなど計7人の外国人技術者を招へいし、日本最大の金銀山がある佐渡で鉱業の改革に当たらせた。その成果は山本少年の耳にも入り、そのたびにテクノロジーの力をひしひしと感じたことだろう。

屏東県来義郷の二峰圳(筆者撮影)
屏東県来義郷の二峰圳(筆者撮影)

台湾の産業革命

帰国後の山本は仙台の第二高等学校教授、日本勧業銀行鑑定課長を経て、台湾製糖株式会社の設立計画に加わる。1900年10月、やがて初代社長に就任する鈴木藤三郎とともに用地選定のために台湾へ渡った。ひと月余りの視察の末、交通と用水の便から選ばれたのが橋頭だった。翌年、山本は支配人として工場建設の総指揮を執る。11月に竣工し、1902年1月に操業が開始した。西洋で得た知識を存分に発揮できる絶好の機会をつかんだ山本は、さぞかしやる気に満ちていたことだろう。

しかし行く手は荒野であり、生命の危険も伴った。日本人職員たちがゲリラ以上に苦しめられたのは風土病である。マラリア対策をめぐる苦闘については筆者の過去の記事を参照されたい(疫病を乗り越えて:台湾が「最古の感染症」マラリアを克服した道)。

牛に石臼をひかせてサトウキビを搾っていたこの時代、橋仔頭製糖所では三井物産の支援の下、着々と大量生産体制が築かれていった。北海道の官営紋鼈(もんべつ)製糖所から送られたフランス製の製糖機を使用し、後にドイツや英国からも機械を購入した。かんがい、土壌改良、優良品種の育成、生産者との連携も進めていった。

山本は1905年にハワイを視察、機関車を輸送に用いることを決める。生産した砂糖を鉄道で高雄港に運び、内地と呼ばれた日本本土へと送り出した。「製糖業の黄金時代、輸送用線路の総距離は2965キロにもなり、年間142万トンもの砂糖が作られ、台湾の輸出総額の7割を占めていたのです」とは、戦後に台湾製糖を引き継いだ台糖公司・陳昭義社長の祝辞の一節だ。

山本は出世街道を歩み、1916年に台湾倉庫株式会社初代社長に就任、1925年に台湾製糖3代目社長に就任する。そして1927年、田中義一内閣の下で農林大臣に就任することになり台湾を離れ、以後は目黒で暮らした。黄土水が石膏像を制作したのもこの年である。

牛に引かせてサトウキビを圧搾した機具。国立台湾史前文化博物館南科考古館にて(筆者撮影)
牛に引かせてサトウキビを圧搾した機具。国立台湾史前文化博物館南科考古館にて(筆者撮影)

銅像の旅

石膏像から複製した山本銅像は、1929年2月、山本が長年生活し執務をこなした社宅事務所の入り口に設置、終戦後は敷地内の別の場所に移された。1959年、北海道伊達市に道南製糖所が設立されると、台湾政府の好意により上述の初代製糖機が当地へ返還。現在も前庭で見ることができる。

このとき山本像も、一緒に北海道へ移送。それから佐渡へ移り、「山本悌二郎先生顕彰会」の働きにより1960年7月に真野公園に安置された。

それがなぜ、どのような経緯で台湾に戻ることになったのか。

橋仔頭製糖所の初代製糖機(高雄市立歴史博物館提供)
橋仔頭製糖所の初代製糖機(高雄市立歴史博物館提供)

影の功労者がいる。佐渡在住の台湾人女性だ。日本名を若林素子(張素真)という舞台芸術家で、ジャズダンススタジオ「Studio PAL」を80年代から主宰している。目立たなかったが式典にも来ていた。本人に話を聞いた。

「1980年ごろ真野公園に行ったとき、偶然この銅像を目にしたんです。父は雲林県虎尾の製糖工場に勤めていて、私も小さい頃よくそこで遊んだり精製前の砂糖の塊をなめたりしていたものですから、不思議な縁を感じました。2017年4月に彰化県の高校生一行が佐渡へ来た時、これが有名な黄土水さんの作品だと教えてもらいました。私は撤去されたと思い込んでいたんですが、草木に隠れていただけで、ずっとそこにあったと知って感慨深かったです」

「どうしてそれを、台湾に戻してあげたいと思ったのですか」

「今は佐渡でも山本先生を知らない人が増えています。銅像を台湾に移設すれば山本先生が再び注目されることになるでしょうし、佐渡と台湾との縁をよみがえらせることにもなり、一石二鳥だと思ったんです」

それからは草の根の運動に取り組んだ。三浦基裕前市長から地元の有力者の署名を集め、反対する人には根気よく説得を試みた。現職の渡辺市長からは高雄市長に手紙を書くとようアドバイスされ、謝駐日代表も橋渡しに骨を折ってくれた。

2022年3月、渡辺市長の下に、山本像を高雄に迎え入れたいとの希望を伝える陳高雄市長の親書が届く。渡辺市長は市議会で理解を得たのち、市民の意見を募った。その間、若林さんは緊張続きで倒れそうだったというが、幸いにして目立った反対意見はなかった。きっと佐渡市民の多くも、台湾との関係が深まることを願って、快く送り出してくれたのだろうと想像できる。

「この5年間は、今日の天気みたいな日々でした」。雨が降ってはやむ空模様と強風に、彼女は自分が抱えてきた不安感と苦労を重ねたのだろう。「これを機に佐渡と高雄の交流が多方面に広がっていったらうれしいです」とも言った。

山本像は現在、1929年と同じ場所に、同じ表情でたたずんでいる。以前は台湾の産業発展に寄与した山本の功績を記念するものであったが、今では日台地方都市間の友好の証、そして民間の一女性の祈りという、新たな意味も加わっている。

なお館内では企画展「百年跨越 文化賦歸」が2023年6月30日まで開催中。胸像の鋳型を含む多数の物品、写真やイラスト、台湾華語と日本語による解説を通して、山本悌二郎の仕事と台湾製糖業の歴史を学べるようになっている。

山本銅像の製作に使用された型(高雄市立美術館所蔵、筆者撮影)
山本銅像の製作に使用された型(高雄市立美術館所蔵、筆者撮影)

参考資料

  • 荘天賜著・鳳気至純平訳『山本悌二郎奠基的糖業新時代』(高雄市立歴史博物館、2022年)

バナー写真=台湾高雄市で開催された山本悌二郎銅像除幕式(2022年12月17日、筆者撮影)

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