戦争より「両岸交流」でビジネスを——金門・馬祖、中台最前線の島々の胸算用

国際・海外

米国と台湾が関係緊密化と軍備を増強するたび、中国は台湾近海で軍事演習による威嚇活動を展開。中台戦争の危機がまことしやかに語られている。中国と台湾の最前線である金門島や馬祖列島の人々は、この国際情勢をどのように捉えているのか。現地を訪れ取材した。

2022年12月に金門島を、今年1月に馬祖列島の南竿・北竿両島を訪問した。

中国が台湾侵攻に踏み切った場合、金門は福建省のアモイと泉州沖、馬祖は福州沖からの攻撃をそれぞれ防ぐ役割を担っている。1950年代以降、大陸反攻を諦めない蒋介石が意地でもしがみついた地域だった。

1949年、台湾島への撤退を決めた中華民国軍は、人民解放軍に押されながらも上海沖舟山群島、浙江省寧波沖、台州近海の島々にも陣を張っていたが、50年代に入り撤退。金門、馬祖を残して今に至る。

現在、金門には13万人、馬祖には南竿島を含めた主要5島に軍人と民間人合わせて1万4000人が暮らす。

街の様子を注意深く観察すると、かつての緊張状態にあった時代とは違い、中華民国軍は気が抜けるほどの緩さに加え、島民が戦意を感じずに余裕の表情でいた。台湾本島の人々にも、中台の緊張は感じられない。だが、それに輪をかけて平和そのものだった。他人事では済ませられない状況であるはずなのに疑問が湧いた。

中国の繁栄が見える金門大橋

金門では3カ月前に金門島と小金門(烈嶼島)を結ぶ全長5キロの「金門大橋」が架かり、4年前には福建省泉州からのパイプラインも通って水の供給が始まっていた。中国人観光客の受け入れ態勢も整う中、国際船の通常運航を心待ちにしている様子がうかがえ、中国との交流と依存度の高さが際立っていた。

金門大橋
金門大橋

金門島観光のスポットの1つが海岸線に見える「中国の繁栄」だ。小金門に行けば目の前にアモイのビル群があたも台湾側にみせつけるかのようにそびえ立つ。橋を渡ると中国の経済成長の勢いをそのまま体現したものに感じられた。

「砲弾が飛び交っていた50年ほど前の戦時体制下では高い建物は標的になるので、両岸(中国と台湾)とも建てないようにしていたけれども、2000年頃からあっという間にビルが林立した。30年前のアモイは、これほど発展はしていなかった」。かつて対岸から金門に浴びせられた砲弾を利用して包丁を鋳造する工場を営む呉増棟さんはこう語る。

経済発展の差は歴然で、島民の誰もが対岸中国の実力を認めているのだ。

ライフラインを中国に依存する金門

金門の水は中国から来ている。

中国から供給を受ける前、地下水頼みの島内はすでに渇水状態で、これ以上くみ上げると海水が混じる塩害の危険があった。淡水化にはコストがかかり過ぎる中で浮上したのが、中国から水を引くという計画だった。

2018年、福建省泉州のダムから約12キロの金門東岸の田埔ダムを、海底パイプラインで結んで水が入るようになる。

田埔ダムに行くと「両岸共飲一江水(両岸で同じ川の水を飲む)」の石碑があった。金門と福建省が深い仲になったという意思表示である。

「両岸共飲一江水(両岸で同じ川の水を飲む)」の石碑
「両岸共飲一江水(両岸で同じ川の水を飲む)」の石碑

水が引けるなら電気もガスも可能である。そしてそれに反対する島民もほとんどいない。中国からの受け入れ態勢はすでに整っていると改めて感じたのだった。

「中国に依存できるものはする」

両岸を橋でつなぐ計画について、金門選出の立法委員(国会議員に相当)の陳玉珍(49)さんに聞いた。

「橋の建設が計画されたのは、国民党の馬英九時代(2008〜16)。この時は中国と台湾の関係が良好で緊密だったので、将来的には両岸を橋でつなごうとなった。今でもアモイ側は橋を作る用意はできていると言っている。しかし、現在の民進党政権が『それほど親密になるのもどうか』と渋り、遅々として進まない」

戦争の憂慮はないか聞くと、「ウクライナとロシアのように武力を行使するのは愚か」だと言う。中台問題は華人同士話し合いで解決できると考えているようだ。また、たとえ金門とアモイに橋が架かったとしても軍事バランスが中国有利へ大きく変化した今、人民解放軍が歩いて橋を渡る前に長距離ミサイルや戦闘機が台湾本島まで届く。昔のような大規模軍隊が「進軍」してくるのはあり得ないとのこと。

そしてこう続ける。

「元々、金門の人々は中国側と深いルーツと往来の歴史がある。観光客を誘致し、インフラも中国に依存できるものはする。これが金門の現実」

馬祖は中国よりも台湾との強化に注力

金門を訪れた数週後、馬祖の南竿島に渡り、周囲の島々(南竿島、北竿島、東引島、東莒島など)を束ねる連江県長の王忠銘さん(65)を訪ねた。2022年の統一地方選で当選した新人県長。最大で5万人の軍隊が駐留した1950年代の南竿で生まれた。この地の未来をどう考えているのか聞いた。

「私が生まれて20年以上は両岸のにらみ合いが続いていた。花こう岩がむき出しの平地が少ない土地だったので、島内の道路建設や緑化など、インフラ整備が大変だった。90年代の民主化以降は、私のような島民が首長に選出される時代になった」

同じ最前線の島として、金門と馬祖の中国との付き合い方の違いについて聞いた。

「金門は人口も土地も大きく、開発のペースが速かった。対岸との交流開始当初から観光客の誘致にも成功。一方、馬祖列島では対岸と船の往来はあっても、福州から年間約1万人しか来ない。金門に比べキャパも小さいので、私たちはむしろ台湾からの訪問客(年間約25万人)を伸ばしていきたい」

「馬祖の島々は、断崖絶壁と丘陵地に覆われた天然の要塞。主要5島を合わせても人口は1万4000人で金門の10分の1しかいない。海の生態と島の自然を守る取り組みで観光客を呼びたい。アートのイベントも含め、沖縄県の与那国島とも『辺境の島』を合言葉に交流も始めた。そんな島の魅力を打ち出し、若い世代に移住してもらえればと考えている」

かわいらしいキャラクターで若い世代に馬祖をPR
かわいらしいキャラクターで若い世代に馬祖をPR

一方、南竿で出会ったコンビニとホテルの経営者は「中国との小三通(地域を限定した『通商』『通航』『通郵』の交流)が始まってからは、往来が頻繁になった。同時に中国の高度成長の時期でもあったので、多くの島民が対岸に渡って商売をしたり、不動産を購入したりした。自分が購入した物件はすでに10倍近くになっている。弟は台湾本島にも不動産を持っている」と語った。

近海では密漁や密輸など不穏なニュースも少なからず流れてくるが、皆、日常茶飯事と思いつつ過ごしていた。

その経営者は「中国から偵察のドローンが飛んできたり威嚇行動があったりするが、そのようなパフォーマンスは想定内。馬祖は民間人と軍人の距離が近く、一体感があって安心だ。さらに台湾本島にも資産を持っているから、いざとなれば避難すればいいだけ」と中台危機などどこ吹く風だった。

日本も島の防衛に関与していた

金門や馬祖の街を巡っていると、台湾本島ではなかなか見られなくなった蒋介石像を度々見かける。金門の中心地・金城の像の台座には「民族救星(民族の救世主)」と刻まれていた。確かに蒋介石率いる国民党軍がここを死守しなければ確実に共産党の支配にあっただろう。

一方で、近年、離島防衛では旧日本軍の軍人や軍事顧問団の働きがあったことが明らかになっている。

金門は、1949年10月に人民解放軍からの総攻撃を受けた際、蒋介石が密かに送り込んだ元中将の根本博が作戦の最前線に立って撃退した。根本は日本の敗戦で日本の軍民が中国から無事に引き揚げられたことで蒋介石に恩義を感じていたという。国共内戦で蒋介石の窮状を見るや台湾へ密航して蒋介石と再会。司令官顧問の役を与えられ、中国名を名乗って最前線の金門に潜入した。

また、蒋介石は「白団」と呼ばれる旧日本軍将校からなる顧問団を組織し、金門や馬祖列島での戦闘に備えた。1958年に大規模攻撃を受けたものの迎撃に成功。白団の功績が大きかったとされる。80数人に上る団員たちは台湾本島で士官教育にも従事。1968年末に解散するまでの約20年の活動は、まさに蒋介石からの信頼があってのことだった。

馬祖にある蒋介石像
馬祖にある蒋介石像

中台危機と現地のギャップ

金門や馬祖で出会った人々は筆者が考える以上に温和で余裕があり、しかしながら中国と台湾に横たわるリスクを常に考えて、最善の行動を取れるようなしたたかさを身に付けていた。

両岸の政治家や日米から聞かれる中台危機とは違った現実を感じた最前線の旅だった。

写真は全て筆者撮影・提供

バナー写真=馬祖南竿空港で写真撮影をする台湾軍兵士

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