鬼とは何者か―差別、偏見、排除の日本史

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多くの日本人が「鬼」と聞いて思い浮かべるのは、「桃太郎」の挿絵などで目にする、角2本、ギョロ目で金棒を振り回す赤鬼、青鬼だろう。かつて鬼はリアルな脅威で、古代の歴史書にはその出現が事件として記録され、鬼とみなす対象もさまざまだった。時代が下るにつれ、妖怪の一種として、主に物語の中で語られるようになる。日本人にとって、鬼とは何者なのか。宗教史学者の小山聡子氏に聞いた。

小山 聡子 KOYAMA Satoko

二松学舎大学文学部教授。1976年生まれ。専門は日本宗教史。2003年、筑波大学大学院博士課程歴史・人類学研究科修了。博士(学術)。主な著書に『往生際の日本史―人はいかに死を迎えてきたのか』(春秋社、2019年)、『もののけの日本史―死霊、幽霊、妖怪の1000年』(中公新書、2020年)。共編著に『幽霊の歴史文化学』(思文閣出版、2019年)。最新刊に『鬼と日本人の歴史』(2023年、ちくまプリマー新書)。

古代・中世の文学作品や伝承をもとに、文学や民俗学の視点から書かれた鬼の研究書は数多い。小山氏は初めて歴史学の視点から、史料に基づき古代から近代までの鬼のイメージの変遷と社会的背景に光を当てた。

「鬼は古代から今に至るまで日本人の心に影響を与えてきました。その存在を人々はどのように受け止め、伝えてきたのか。鬼の系譜をたどることは、日本人の精神世界をのぞきこむことにもなります」

歴史書に記された鬼の出現

中国では紀元前の時代から、死ぬと「鬼(き)」(=死霊)になって冥界(めいかい)で暮らすと考えられていた。鬼は民間信仰、儒教、道教の世界で語られ、仏教が伝来すると、その影響も受けた。鬼と神の境界は曖昧で、鬼神をまつることもあれば、呪力によって鬼を使役することもあった。疫病も「疫鬼(えきき)」がもたらすと考えられていた。

「鬼」の概念は遅くとも7世紀には中国から日本に伝わり、日本人が受け入れやすい形に変容する。

「日本の鬼(おに)のイメージは最初から多面的です。平安時代、モノノケ(正体不明の死霊)を鬼として表現することもありましたが、全ての霊が鬼になるという中国の思想は部分的にしか受容されませんでした。中国では良い鬼も悪い鬼もいましたが、日本では悪しきものを鬼と認識するようになりました。また、鬼神観念を取り込んだ密教の鬼に強い影響を受けました」

古代には勅撰の歴史書に、鬼の出現が記録されている。『日本書紀』(720年成立)は、544年、佐渡島に日本列島の北方にすむ種族「粛慎人(みしはせびと)」(アイヌやツングース族を指すなどの説がある)が上陸した際の事件を記した。島人たちは鬼だと恐れて近づかなかったが、そのうちに島の人間がさらわれてしまったという。

『続日本紀』(797年成立)は、699年、大和国の葛城山(かつらぎさん)にいた呪術師が鬼神を思うままに使役して水を汲んだり薪(まき)を採らせたりし、命令に従わなければ呪縛して動けないようにしたという「世間のうわさ」を記した。また、『日本三代実録』(901年成立)は、887年7月、平安京で夜、美女が鬼に食われた事件を記録し、同月、36件の同様の出来事が都でうわさにのぼったとしている。

平安時代には、陰陽道に基づく「夜行日」に出歩くと鬼の軍団、「百鬼」に襲われるという考え方があり、多くの貴族は夜行日を気にかけて行動していた。『扶桑略記』(国史を参考に編さんした仏教文化史)は、929年4月、夜に宮中で鬼の足跡が見つかったと記録した。2つ、あるいは3つのひずめの大きな足跡だったという。当時、鬼の足は2本指か3本指だと考えられていたことが背景にある。

「『日本書紀』が示すように、外部からの漂着者を鬼と認識したことは注目すべきです」と小山氏は指摘する。「また、たとえうわさ話だとしても、鬼の出現は朝廷に報告され、公の歴史書に詳細を書き留めなければならなかったほど、恐るべき事件だったのです」

角があったりなかったり

『出雲国風土記』(733年)は、「目一つの鬼」が田を耕している人を食べたという言い伝えを記録している。古代中国の地理書『山海経(せんがいきょう)』(紀元前4世紀~3世紀に成立)には、鬼国に住むざんばら髪で一つ目の鬼が描かれている。同書は平安時代より前に日本に伝わっていた可能性があるので、その影響かもしれない。

小山氏によれば、少なくとも『今昔物語』が成立した12世紀には、鬼は角を生やす容姿で思い描かれていた。同世紀末の『地獄草紙』には、地獄の獄卒として、赤鬼、青鬼、牛頭馬頭(ごずめず)の鬼などが描かれている。赤、青色の肌や、憤怒の相、裸にフンドシといった姿は、元をたどれば密教の餓鬼や夜叉などのイメージだ。

「ただし、絵に描かれる鬼には、絶対に角が生えているわけではなく、生えていない鬼も描かれ続けます。また、古代・中世の鬼は人間に害を及ぼす際は槌(つち)を使い、金棒を持った姿が描かれるのは、恐らく江戸時代からです」

鬼のすみかは海のかなたに

中国の「疫鬼」排除の儀式が伝わり、平安京では疫鬼を日本国外に追い出す行事「追儺(ついな)」が行われた。現在の節分につながる行事だ。

9世紀後半の儀式書には、追儺で陰陽師が読む祭文が記され、日本の北限は佐渡島、南は土佐、東は陸奥(現在の東北地方太平洋側)、西は値嘉嶋(ちかのしま=現在の五島列島)として、疫鬼はその外に出ていけ、と述べている。

1172年7月、伊豆国に「鬼形者(きぎょうのもの)」たちが船でやって来た。そう記すのは、関白藤原兼実の日記『玉葉』だ。言葉が通じず、結局争いになり、島民に多大な被害を与えた末に、船で去ったという報告書を、国司が公文書で朝廷に提出したと日記は記す。兼実は、実際には鬼ではなく「蛮夷(ばんい)」(外国人)の類だろうという見解を示している。日本人が言語や容貌、体型が異なる外国人を鬼とみなして、いかに恐れていたかが読み取れる。

中世から近世にかけての日本地図には、日本の南方に「羅刹国(らせつこく)」が描かれた。鬼を意味するサンスクリット語が語源で、いわゆる鬼ヶ島だ。各地に残る桃太郎の鬼退治伝説(中世後期から近世に成立)のひな形の一つともいわれる『保元物語』(1219~1222ごろ成立)では、武将・源為朝による鬼制圧が描かれる。為朝が見知らぬ島に上陸して、威嚇し服従させたのは、右脇に刀を差し、髪は束ねず伸ばし放題、身長3メートル超の鬼の子孫「大童(おおわらわ)」たちだった。

古代から中世にかけて、烏帽子をかぶらず、髪を結わずに垂らしていた者は大人でも「童子」と呼ばれた。身分が低く差別の対象である一方で、どう猛な牛を操れる「牛飼童(うしかいわらわ)」、重要な仏像のまつられたお堂に入る鍵を管理する「堂童子(どうどうじ)」など、呪的な能力を持つ者として畏怖されていた。『保元物語』や後述の『酒吞童子』では、超人的能力を持つとされる童子が鬼と結び付けられている。

昼間には巨大な童子(右から2人目)で夜は鬼に変わる酒呑童子(『大江山酒呑童子絵巻物』/国立国会図書館デジタルコレクション)
昼間には巨大な童子(右から2人目)で夜は鬼に変わる酒呑童子(『大江山酒呑童子絵巻物』/国立国会図書館デジタルコレクション)

障害者・女性差別の表象

人が「鬼」を産むこともあった。体の形状に異常のある子の誕生は怪異とされ、「鬼子(おにご)」として度々歴史書に記録された。不吉なことが起きる予兆であり、国家的対処が必要だと恐れられたからだ。捨てられることもしばしばあった。

「外見に恐れを抱き、育てることが難しいと思う子を、鬼とみなすことによって排除する正当性を都合よく手に入れることができたのです。自分たちだけではなく、国家に危機をもたらす存在なのですから」と小山氏は言う。

女性も、その社会的地位が下がるにつれ、鬼と結び付けられることが多くなっていく。

「仏教は、元々女性差別観を持つ宗教です。日本への伝来当時、その差別観をそのまま受容はしませんでしたが、9世紀後半以降、家父長制の浸透とともに女性差別が次第に定着していきました」

女性は仏道修行における能力欠如のみならず、淫乱(いんらん)で嫉妬深いなど、人間として劣悪な存在であると強調されるようになる。

「鎌倉、室町時代と時代を下るに従って、鬼のイメージと結び付けられて描写されるようになりました。世阿弥によって大成された能でも、嫉妬に狂う女性の鬼が多く登場します」

「女性は、成人男性を中心とした社会の中ではアウトサイダーです。その一方で、誰もが女性から生まれるという意味では、頭が上がらない存在でもあります。だからこそ、押さえつけなければならなかった。そもそも、弱い存在なら鬼とみなされません。障害児も外国人も、自分たちにとって恐るべき存在だったからこそ、鬼と同一視されたのです」

「酒呑童子」から「鬼畜米英」まで

古代・中世前期の鬼はリアルに恐れる対象だったが、室町時代になると、鬼の実在に懐疑的な傾向が強まり、幽霊や妖怪と同様に語られるようになる。鬼や妖怪の行列を面白おかしく描いた『百鬼夜行絵巻』は、室町時代以降に多く制作されるようになった。この時代に流行した鬼退治の物語で代表的なのが、丹波国の大江山(滋賀県伊吹山の異説もある)に住む鬼王「酒呑童子」の伝説だ。昼間は巨大な童子の姿で、夜には角の生えた恐ろしい姿に変わる。この話は絵巻などに描かれ、さまざまな風貌の鬼の従者が滑稽さも醸し出す。

酒呑童子の伝説を描いた現存最古の作品『大江山絵詞(おおえやまえことば)』(14世紀)/公益財団法人阪急文化財団 逸翁美術館
酒呑童子の伝説を描いた現存最古の作品『大江山絵詞(おおえやまえことば)』(14世紀)/公益財団法人阪急文化財団 逸翁美術館

江戸時代は見世物興行が流行するが、中でも「鬼娘」は人気を博した。頭に角のようなこぶがある奇形の女性を見世物にしたのだ。

黄表紙『両国のひやうばんむすめ 鬼の趣向草(しこぐさ)』から閻魔王と鬼娘(国立国会図書館デジタルコレクション)
黄表紙『両国のひやうばんむすめ 鬼の趣向草(しこぐさ)』から閻魔王と鬼娘(国立国会図書館デジタルコレクション)

明治時代以降、鬼は戦争と結び付けられる。日露戦争では桃太郎が「露西鬼(ロスキー)」を征伐する絵本が描かれ、太平洋戦争では「鬼畜米英」として、米兵、英兵が倒すべき鬼になる。日本初の長編アニメーション『桃太郎 海の神兵』(1945年4月公開)では、鬼ヶ島の鬼は西洋人そのままの姿で、一本角を生やしている。

新聞の連載マンガから生まれた人気者、フクちゃんの鬼退治のぬり絵も登場した。「わんぱく坊主で人気者のフクちゃんが蹴飛ばしても怒られないなら、とても悪い奴に違いない。みんなで退治しようと、人々の心を一つにするものとして巧みに鬼を利用したのです」

戦時中のプロパガンダ誌『写真週報』よりフクちゃんの鬼退治のぬり絵(国立公文書館)
戦時中のプロパガンダ誌『写真週報』よりフクちゃんの鬼退治のぬり絵(国立公文書館)

差別と排除の歴史を忘れずに

今日、鬼はゲームや物語に登場する妖怪の一種として、親しみやすく身近な存在だ。「妖怪ウォッチ」にはどこかユーモラスな赤鬼、青鬼が登場し、社会現象にもなった『鬼滅の刃』の鬼たちは容貌、性格も多様で、昔話の鬼たちとは大きく異なる。

鬼の面白さを享受するのはいい。でも、その負の歴史を忘れるべきではないと、小山氏は言う。

「古代から日本人は差別・排除の対象を“鬼”とみなしてきました。そして、国に危機的事態が起きると、鬼のせいにしました。鬼のレッテルのように、何か一つの言葉を与えることによって、定着したイメージを植え付け、相手や物事の多面性を考えることをやめてしまう。今、世界が先行き不透明な状況だからこそ、私たちは鬼の歴史から学び、偏った見方をしていないか常に自戒する必要があるのではないでしょうか」

バナー:『大江山絵詞(おおえやまえことば)』より鬼退治の場面(提供:公益財団法人阪急文化財団 逸翁美術館)

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