台湾伝説のバンカー、鄭世松が語る日台経済史の100年:後編
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前回、日本と台湾は外交関係にとどまらない兄弟のような関係だ、と申し上げた。直接的な関係は日本が台湾を領有した時にできたものだ。日本は台湾を日本経済の一部として経営し、終戦直前には経済基盤を整え、それを元手に戦争に突入したのである。今回は、戦前は日本と一体だった台湾経済が、戦後、どのようにして世界の表舞台で大きな役割を担うまでになったのかを振り返ってみよう。
戦後の幕開けは人口急増とインフレ
戦時中、台湾の主な施設は空襲で焼かれ、生産性がひどく低下した状態にあった。そこへ、中国大陸で激化した国共内戦によって、国民党軍と避難民200万人がやってきた。1945年に600万人だった台湾の人口は、1950年には800万人、1960年には1100万人となった。15年間で2倍弱。終戦後、悪性のインフレーションが起こり、台湾経済は1960年あたりまで非常に厳しい時期を迎えることになる。
1950年に朝鮮戦争が起きて、台湾には1951〜1965年まで米国の軍事援助、経済援助がもたらされた。 それまで台湾は日本を通じて各国との貿易関係にあったが、まず米国と交易関係ができ、台湾経済の国際化が進んでいく。こうして経済の安定を取り戻し、食品加工、紡績業、合板業といった輸出加工産業が興っていった。
戦後の台湾が抱えていたのは、1つの国として発展していくために経済はどうあるべきか、という問題である。農業主体の現状からどうやって工業化するかを模索した。そこでまず、日本の産業発展に学ぶことからスタートした。
紡績業を展開すべきと進言
日本は1880年代、人手が多く、人件費も安い状態にあった。労働者が余っていたのだ。そこで、それまであった絹織物を基礎に、絹を綿に変えて紡績業を展開し、工業化に向けた一歩を踏み出した。戦後の台湾の状況は工業化する前の日本とよく似ていた。そこで私は、明治期の日本の銀行が、どういうスキームで紡績業を発展させ、どういう形で融資して産業を発展させたかを調べた。台湾も日本と同じように紡績業を展開すべきだと考え、勤務先の台湾銀行にリポートした。その提案が認められて、台湾の紡績業発展への道筋ができた。
紡績業が発展したことで台湾に外貨が入るようになり、獲得した外貨で必要な機械を入れ、軽工業に振り向けた。それがのちのIT産業が生まれる素地になった。
日本が戦後、自動車産業をはじめとした重工業の路線に向かったのは、まず戦前からの技術力があったことに加えて、重工業が可能となる規模があったことが大きい。逆に台湾は、国は小さく、技術もなかったため、重工業はできなかったといえる。
台湾に投資を呼び込む仕掛け
戦後から続いた悪性インフレは1960年代に入ると収束に向かい、65年には高雄に輸出加工区ができた。高雄は世界でも大きな港で、物資の輸送にも非常に便利な場所に位置している。この輸出加工区によって、台湾経済の工業化、国際化が大きく進む。
もともと1950年に始まった米国による支援には期限が設けられていた。その支援停止を前にした1960年に制定されたのが「投資奨励条例」である。 台湾を米国の支援先ではなく投資先に切り替える目的で作られたものだ。この条例によって、台湾は良質で安価な労働力に加え、税の優遇や通関の簡素化、融資の便宜が可能になり、海外からの投資環境が整えられたことになる。
高雄の輸出加工区には、日本をはじめ各国の企業がやってきた。当時の台湾は、海外投資を目指す日本企業にとって、一番行きたい場所になった。
ここで問題になるのが、外国企業への課税である。本来、租税にはいくつか原則 があるが、公平の原則はその1つだ。公平の考え方には「一律公平」と「今は不公平でもいずれ公平に」の2つがある。日本は基本的に前者、高雄の加工区は後者の考え方を採用した。
具体的には外国企業が加工区に入る際に非課税としたこと。これは今でも、輸入した原材料をエリア内で加工し、輸出する際には免税となっている。いろいろな減免措置もある。ところが、エリアは限られていて、工場を拡張しようとエリアの外に出ると課税される仕組みになっている。つまり、もうかったら税金を取ればいい、と考えたのである。台湾は税に対する考え方が非常にフレキシブルだといえるだろう。
台湾でこのような考え方が採用された背景には、戦前の上海など中国にあった租界がある。租界とは中国語では「借地エリア」を意味する。上海ではある程度税金をかけたが、台湾ではゼロ。そうすれば、これから発展が見込める企業、あるいは新しい企業が台湾へ来る。台湾の外に出なくても、世界のどこでどういうものが作られて、どういうふうに売られているか、全て高雄で見ることができることになる。他方、加工区で雇われた台湾人は技術を学ぶことができる。この輸出加工区のおかげで、台湾の工業化は進んだ。
エリア内を免税にするだけで人材と技術とマーケット、全てがそろうのだから、安いものである。関税よりもずっと価値がある。案の定、加工区に入った主要企業は税金払ってももうかると判断し、全て加工区から出ていくことになった。この展開は当然、加工区をつくる前から見越していたものだ。
TSMC創業の背景にベトナム戦争
1980年になると、新竹に科学園区(サイエンスパーク)ができた。 設立の背景にあったのは、ベトナム戦争だ。もともと台湾には、理工系を学び、米国に留学した人たちがいた。彼らは卒業すると、仕事を見つけて現地で定着したが、当時は外国人という理由で大きな会社には入れなかった。1961年から米国ではベトナム戦争に兵を派遣したが、次第に米国人のエンジニアが兵隊に取られるようになり、エンジニアは台湾人ばかりになっていった。ところが、1975年にベトナム戦争が終結すると、米国人が帰ってきて、今度は台湾人の居場所がなくなった。そこで台湾政府が科学園区をつくり、台湾人エンジニアの受け皿を用意した。そういった流れの中で、1987年に設立されたのがTSMC(台湾積体電路製造)だ。
当初、IT産業は海のものとも山のものとも分からないため、他の国ではあまり重視されなかった。台湾は重工業をやる経済基盤を持てなかったため、軽工業やIT産業などに力を振り向けた。しかし、それによって世界の中で飛び抜けることができたのである。
差別はされたけれど、結果はラッキー
さて前後編として、百年ほどをごく簡単に振り返ってみた。つまるところ、台湾は非常に運に恵まれていたと感じている。
戦前の台湾は、日本経済の一部として農業を主体とした経済を確立した。戦後に軽工業を軸に工業化へと大きく舵(かじ)を切り、その後、IT産業へ展開した。現在までの台湾の経済発展は、日本と米国の存在なくしては語れない。いわば、ラッキーだったのだ。日本からも米国からも差別はされたが、結果として得をしたのだから世の中というのは、つくづく分からないものだと思う。
【参考文献】
- 鄭世松「百年来の台湾経済発展の軌跡」『交流』2014年11月号
- 隅谷三喜男他『台湾の経済』(東京大学出版会)
- 川北稔『砂糖の世界史』岩波ジュニア新書(岩波書店)
- 矢内原忠雄『帝国主義下の台湾』(岩波書店)
取材・構成=田中美帆
バナー写真=台湾台南でTSMCの新工場が建設された、2022年12月29日(ロイター / Ann Wang)
