満州でユダヤ人を救った陸軍中将(前編):「ヒグチ・ルート」で生き延びた子孫が語る自由への逃走

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日本人外交官・杉原千畝が、ナチス・ドイツの迫害を受けたユダヤ人に「命のビザ」を発給する2年前、樋口季一郎陸軍中将が旧満州(中国東北部)で、2万人ものユダヤ難民を救済していた。前編では、生き延びた子孫の証言で明らかになった「ヒグチ・ルート」と呼ばれる救済策に迫る。

もう一人の「東洋のシンドラー」に熱い視線

第二次世界大戦直前、旧満州で、ナチス・ドイツの迫害からユダヤ人難民を救い、もう一人の「東洋のシンドラー」とされる樋口季一郎陸軍中将(1888-1970)の顕彰活動が本格化している。樋口中将の出身地である兵庫県淡路島の伊弉諾(いざなぎ)神宮(淡路市)に2022年10月、銅像が建立され、神奈川県鎌倉市の円覚寺の塔頭・龍隠庵にも元平塚市長の吉野稜威雄氏ら有志が顕彰碑を建て、23年5月21日、除幕式が行われた。第5方面軍司令官としてポツダム宣言受諾後、ソ連の北海道占領と日本の分断を阻止した北海道にも銅像建立計画が進められており、信念を貫き、ユダヤ人を救った樋口中将の功績に熱い視線が注がれている。

兵庫県淡路島の伊弉諾神社に建立された樋口中将の銅像(2022年10月11日、淡路市、岡部伸撮影)
兵庫県淡路島の伊弉諾神社に建立された樋口中将の銅像(2022年10月11日、淡路市、岡部伸撮影)

銅像の脇にある石碑には、樋口中将の功績が刻まれている(2022年10月11日、兵庫県淡路市、岡部伸撮影)
銅像の脇にある石碑には、樋口中将の功績が刻まれている(2022年10月11日、兵庫県淡路市、岡部伸撮影)

「ヒグチ・サバイバル」からあふれた感謝の思い

「季一郎氏のユダヤ人コミュニティーへの前向き姿勢がユダヤ人救出を可能にした」

2018年6月15日、イスラエルのテルアビブにある「ユダヤ民族基金」本部で、「ヒグチ・ルート」にて満州から生き延びたカール・フリードマン氏の息子、ダニエル・フリードマン氏は孫で明治学院大学名誉教授の樋口隆一氏と面会し、樋口中将の人道主義へ感謝の思いを伝えた。

「ヒグチ・サバイバル」の息子と樋口中将の孫が感動の面会を果たせたのは、2004年から約3年間、イスラエルの日本大使館に公使として勤務していた水内龍太駐オーストリア日本大使が仲介役を担ったからだった。

イスラエルで講演する樋口隆一・明治学院大学名誉教授(2018年6月、テルアビブ、樋口隆一氏提供)
イスラエルで講演する樋口隆一・明治学院大学名誉教授(2018年6月、テルアビブ、樋口隆一氏提供)

水内氏は、樋口中将が陸軍ハルビン特務機関長を務めたハルビンのユダヤ人社会のリーダーであり、「極東ユダヤ人協会」の会長を務めた医師のアブラハム・カウフマン博士の息子で、「青年部」リーダーとして活動したテディ・カウフマン氏の知遇を得た。テディ氏は「ヒグチこそユダヤ人の最大の理解者で友人だった」と回想し、ウィーンから満州経由で逃れ、戦後イスラエルに移住したダニエル・フリードマン氏を水内氏に紹介した。水内氏はフリードマン一家と親しくなり、2015年9月に来日したダニエル氏の息子、ミッキー氏と隆一氏を引き合わせた。こうした経験を踏まえて18年の「ユダヤ民族基金」本部でのカール氏と隆一氏との感動の面会が実現したのである。

日本側資料でも登場する「J」字入り旅券のユダヤ人

ダニエル氏は家族宛てに手紙を書いていた。それを元にカール氏は水内氏にダニエル氏の自由への逃亡を説明した。それによると、ウィーンのユダヤ人家庭に生まれたカール氏はジャーナリスト兼写真家として生計を立てていたが、1938年3月、オーストリアがナチスに併合されると、職を失った。同年10月18日、シベリア鉄道に乗るため、ベルリンに行き、他の5人の若者と知り合い、モスクワ経由で上海を目指し、そこからパレスチナへの移住を試みた。6人の若者は「われら6人」と名乗り、シベリア鉄道でロシアから満州国の国境の町、満州里に同年10月27日、到着した際、「J」字のスタンプ入り旅券のために入国審査で引っかかり、満州国から取り調べを受けた。

オーストリアを併合したドイツは、同年10月、ユダヤ人のパスポートに「ユダヤ人」を意味する単語の頭文字「J」と強制的にスタンプを始めた。日本はドイツとは査証免除協定を結んでいたため、ドイツ国籍者はビザなしで入国させていたが、無国籍者となった「J」旅券所有のドイツ系ユダヤ人には通過ビザが必要になった。カール氏らが入国審査で捕まったのは、このためだ。またユダヤ人が日本や満州に渡航する際にビザ(通過ビザ)の発給を求めてウィーンなどの在外公館に行列をなした。

6人は取り調べを受けたものの、電報で救援を依頼した「極東ユダヤ人協会」の支援と満州国の配慮で入国を許され、通過ビザを発行して大連、天津など北支方面への避難が認めたられた。通過ビザを得てハルビンに到着。ハルビンには留まらず、上海まで避難することになったが、大病を患ったカール氏は、途中の天津で定住し、病院の看護師と結婚。ダニエル氏が生まれ、戦後、イスラエル建国前後に移住した。ダニエル氏は弁護士となり、妻のミリアムさんが大学で歴史学を専攻し、カール氏が書いた手紙を元に彼のサバイバルの半生を学位論文としてまとめた。

日本側の外交史料館にも6人の行動を把握した公文書が多数あった。例えば同年10月27日、満州里にシベリア鉄道経由で到着したウィーン出身のユダヤ人6人の件で、満州里の満州国国境警察がハルビンの本部に10月30日付で報告した入国の経緯を在満州里・日本国領事館の松田領事代理が入手し、11月1日付で本省に伝えたものだ。カール氏は、日本側が把握するユダヤ難民の第一号だった。厳密には、「J」字入り旅券を持って満州に入国した最初のユダヤ系ドイツ人だった。

そのほかにも日本側資料には、カール氏ら6人が、ハルビンから1938年11月14日、山海関(さんかいかん)から北支に出国、天津に到着するまでの動向を逐一、ハルビン特務機関を通じて同年8月から陸軍参謀本部第二(情報)部長に転進した樋口中将に報告し、訓令を受けたとみられる形跡があった。

そもそも国境管理は、インテリジェンス部門の守備範囲だ。参謀本部第二(情報)部長というインテリジェンスの総責任者だった樋口中将が難民の入国を把握していたのは当然だろう。またカール氏が天津で受け入れを拒否された場合に備えて、同年11月30日には、大連特務機関長としてハルビンに来た安江仙弘大佐と鶴見憲ハルビン総領事が協議し、海運会社の協力で大連から上海に海上輸送するルートも確保している。これが約2年後に杉原千畝の「命のビザ」で救出されたユダヤ難民が日本に到着後、神戸から上海へ輸送する前例となるが、これも中央、つまり樋口中将からの指令によるものとみられる。カール氏らの「逃走」の舞台裏で樋口中将の影がちらつくのだ。

政策決定の中枢で「ヒグチ・ルート」確立

1938年10月以降、ナチス併合で追われたドイツ・オーストリア系ユダヤ人が「J」字入り旅券を持ち、続々とシベリア鉄道経由で満州に到達した。樋口中将は、カール氏らと同様に、流入するユダヤ難民の動向をハルビン特務機関に監視させ、組織的に流入を制限しようとした満州国に通過または短期滞在など留まることを可能にさせたのである。

さらに避難民が増加する中、近衛内閣は同年12月6日に五相会議を開催した。ユダヤ人の流入を阻止しようとする外務省に対し、樋口中将は国策として「ユダヤ人を差別しない」「ユダヤ人対策要綱」策定に裏方として貢献した。これは、同年1月に東條英機関東軍参謀長名で陸軍が作成した「当面のユダヤ人対策」の延長線上にあり、ナチスのユダヤ人迫害政策から明確に距離を置き、ユダヤ人の通過や移住の可能性を制度的に担保した。

一連のユダヤ難民の救出、上海脱出工作の中心に樋口中将がいたことは間違いないだろう。ユダヤ難民を満州経由で上海に脱出させ、定住するシステムを確立した。世にいう「ヒグチ・ルート」の構築である。ダニエル氏ら満州経由で生存できたユダヤ人たちの子孫は、樋口中将の厚意で生き延びることができたと考えているという。「ヒグチ・ルート」で生き延びた「ヒグチ・サバイバル」である。

樋口中将は同年3月、ソ連・満州国境オトポール(現ザバイカリスク)で立ち往生していたユダヤ人難民を救ったことが知られているが、現場の指揮官としてではなく、むしろ東京の政策決定の中枢で、ユダヤ人避難民の救済システムを考え、最前線の現場に指示を出して多くの命を守った功績を正当に評価すべきだろう。

バナー写真:「ヒグチ・ルート」で逃れたユダヤ難民の息子ダニエル・フリードマンさん(右)と握手する、元日本陸軍中将の故樋口季一郎氏の孫で明治学院大学名誉教授の樋口隆一氏=2018年6月15日、イスラエル・テルアビブ(時事)

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