亡き娘が愛した台湾を描く―墨彩画家 藤井克之さん

暮らし 美術・アート 国際交流 家族・家庭

2017年から台湾を描き続けている墨彩画家の藤井克之さん。描いた作品は優に130点を超える。今は亡き愛娘・小百合さんが台湾で過ごした足跡を追い、絵を通して対話しているのだった。

娘が歩いた場所、お茶を飲んだカフェを描く

藤井克之さんが、亡き娘・小百合さんのメモがびっしり書き込まれたガイドブックを手に、温暖な気候とレトロな雰囲気にあふれた台湾南部・台南の「神農街」を訪れたのは2017年のことだった。

観光客はみな写真を撮るのに夢中になっていたが、克之さんの手にはカメラではなくスケッチブックがあった。墨彩画家である克之さんは、小百合さんの足跡を追って、一緒に来ようと約束していた台南市街のあちこちをスケッチしながら歩いた。そして、たどりついたのは小百合さんがかつて訪れたことのはある、幅わずか38センチの路地の奥にある古民家カフェ「窄門咖啡館」。小百合さんが生前、「ここの狭い路地をめぐる楽しさを味わってほしい、そのためには少し痩せなきゃね」と言っていたのを思い出した。

店に入ると、克之さんは隅の席に座った。小百合さんがここに座ったに違いないと思ったからだ。そして2人分のコーヒーとスイーツを注文。店員はけげんな顔をしたが、克之さんは気にも留めなかった。誰もいない席に向かって、小百合さんと会話していたのだった。

2018年に台北で開いた個展の案内には、小百合さんも訪れたことのある「窄門咖啡館」の絵を使った。現在、この絵は同店に飾られている
2018年に台北で開いた個展の案内には、小百合さんも訪れたことのある「窄門咖啡館」の絵を使った。現在、この絵は同店に飾られている

小百合さんが楽しみにしていた台湾での個展

藤井小百合さん15歳でうつ病を発症した。大学を卒業して社会人になるまでの間、病状は一進一退を繰り返し、何度もくじけそうになったという。

小百合さんの人生を変える転機となったのは、25歳の時、友人の誘いで初めて台湾を訪れたことだった。故宮博物院を見学した後で飲んだお茶があまりにもおいしくて、全身の細胞に電気が走るような感覚を覚えたそうだ。旅の途中で出会った現地の人たちが親切で人情味にあふれ、それまで味わったことがない心の解放感も大切な要素となり、その場で台湾へ移住を決断。

長く病に苦しんできた娘が海外で暮らすということに、両親は賛成できなかった。それでも、小百合さんは何度も台湾に通い、中国語を勉強し、2012年に日本語学校の教師の仕事を見つけると、台湾に居を移した。

心配する克之さんを安心させようと小百合さんが企画した台湾旅行で、克之さんが最初に連れていかれた店で食べたのは「臭豆腐」だった。あまりの強烈なにおいにむせてしまい、頭がクラクラしたが、5回、6回と繰り返し食べるうちにすっかりはまり、今では店舗の前を通ると深呼吸してしまうほどのファンとなった。

臭豆腐を食べたことも、小百合さんとの大切な思い出
臭豆腐を食べたことも、小百合さんとの大切な思い出

小百合さんの仕事が軌道に乗った頃、母・久美子さんも一緒に親子3人で九份から平渓まで足を延ばしてランタン飛ばしを楽しんだ。久美子さんは、その時もまだ小百合さんの台湾移住には反対だったと言うが、生き生きとした姿を思い出すと、多くの友人に囲まれて、長い間苦しんだうつ病が癒されていたと感じるそうだ。克之さんは、台湾で暮らした日々が、小百合さんの人生で一番幸せなときだったと考えている。

親子3人で旅した地 平渓(左)と九份(右)
親子3人で旅した地 平渓(左)と九份(右)

しかし、その時間は長くは続かなかった。2013年、胸の痛みを訴えた小百合さんに乳がんが見つかった。治療のために翌年帰国し、2年間の闘病のすえ、2016年に他界した。享年32歳。小百合さんは帰国の前日、「もう台湾に戻れないのではないか」と泣いていたという。

愛娘の早すぎる死は、両親を悲しみの底に突き落とした。克之さんショックのあまり、絵筆をとることができなくなってしまった。そこから救ってくれたのは、小百合さんの台湾の友人たちだった。台湾から墓参りにやってきては、小百合さんの思い出話を聞かせてくれた。そして、克之さんに元気を取り戻してもらおうと、台湾を描くことを提案した。

克之さんは、実は小百合さんからも、台湾に来て絵を描いたらどうかと勧められていた。小百合さんは、いつか台湾で個展を開いてほしいとも言っていたのだった。

娘を失った悲しみを癒した台湾の日常

克之さんは、小百合さんが生前に使っていたリュックサックとスカーフを身に付け、台湾での足跡をたどり始めた。実際に訪れた場所、行きたかったのに行けなかった場所、出会った友人、食べたもの、次回食べようと計画していたもの…全てを体験したいと思っていた。そして、いつしか旅は克之さんに再び絵筆をとらせていった。小百合さんとの「対話」を描くことで、心が慰められているように感じたのだった。

2023年3月に東京虎ノ門の台湾文化センターで開催された個展の様子。右端の絵には小百合さんが生前使っていたリュックサックとスカーフが描かれている
2023年3月に東京虎ノ門の台湾文化センターで開催された個展の様子。右端の絵には小百合さんが生前使っていたリュックサックとスカーフが描かれている

台湾に行くと、克之さんはいつも台北市の繁華街のホテルに泊まる。付近の食堂では混雑すると知らない人と相席になることも珍しくない。そのおかげでたくさんの友人ができた。こうした経験から、小百合さんが台湾で感じた熱い人情が理解できるようになったという。

小百合さんが一番好きだったパイナップルケーキの店を訪れた時、ケーキを試食しながらお茶を飲んでいると、娘への思いがあふれ涙を流してしまった。その様子を見た店員は、そっとティッシュを差し出したそうだ。こうした台湾の日常のやさしさに、克之さんの心は揺さぶられ続けたのである。

墨彩画で描き続けた絵の中に、活気あふれる新北市の大坪林の街、一緒に旅行した龍山寺、万華、九份、平渓…他にも、初めて台湾に来たときに食べて驚いた臭豆腐、一緒に行こうと約束していた窄門咖啡館、感動したアニメ映画『幸福路のチー』の舞台になった新北市新荘区の幸福路の用水路「中港大排」などがある。

小百合さんが台湾で出会った友人たちは、克之さんの訪台時に熱心にサポートし、ある人は車を出して通訳し、ある人は小百合さんの台湾生活の様子を教えてくれたりした。そこで克之さんは絵の中に友人も描き込むことで感謝を表した。

克之さんも共感したというアニメ映画『幸福路のチー』の舞台となった新北市新荘区幸福路の用水路「中港大排」
克之さんも共感したというアニメ映画『幸福路のチー』の舞台となった新北市新荘区幸福路の用水路「中港大排」

娘の面影を追って台湾を描き続ける

2018年、克之さんは小百合さんが楽しみにしていた台北での個展を初めて開催した。インターネットで克之さんの物語を知った窄門咖啡館の店主は、わざわざ台南から駆け付け窄門咖啡館の絵を購入した。現在、絵は克之さんが初めて訪れたときに座ったあの隅の席の壁に飾られている。

台北での個展以来、父親が海を越えて愛娘の足跡をたどる物語が台湾で大きな反響を呼んでいる。侯季然監督が克之さんをモデルに撮影を計画していた『一個人的家族旅行(ひとりの家族旅行)』は、台湾の映画祭「金馬影展」で企画部門でグランプリを受賞、賞金100万元を獲得した。2024年の公開に向けて、準備が進められている。

2017年に台湾を描き始めて以来、克之さんは1年に4、5回訪台し、130点以上の作品を描いている。2023年春には謝長廷・台湾駐日代表の招きで、東京虎ノ門の台湾文化センターで展示会を開き、25点を出品した。開催前日はちょうど藤井夫妻の結婚40周年に当たり、克之さんは天国の娘からのプレゼントだと感じたそうだ。

2023年3月、謝長廷駐日代表(左から3番目)の招きで、東京虎ノ門の台湾文化センターで藤井克之さんの個展が開催された
2023年3月、謝長廷駐日代表(左から3番目)の招きで、東京虎ノ門の台湾文化センターで藤井克之さんの個展が開催された

克之さんは、以前は悲しみのあまり小百合さんの日記を読むのがこわかったが、コロナ禍の3年を経てようやく冷静にじっくり読むことができるようになった。そして日記を通し小百合さんの台湾での生活や感じたこと、行った場所、好きな店、そしてもっと多くの場所を訪れたかったことを知ったという。これからも小百合さんの足跡を追い、絵を描き続けていく——残りの人生全てをかけて台湾を描いてもきっと描ききれないだろう、克之さんはそう考えている。

藤井克之さんが描く活気あふれた台湾の伝統市場
藤井克之さんが描く活気あふれた台湾の伝統市場

写真は全て筆者撮影、提供

バナー写真=愛娘の小百合さんが台湾で住んでいたマンションを指さす墨彩画家の藤井克之さん

台湾 台南 家族 うつ 画家