満州でユダヤ人を救った陸軍中将(後編):皇居の刺繍画が伝える「ヒグチ」の功績

政治・外交 国際・海外

第2次世界大戦直前の旧満州(中国東北部)で、ナチスの迫害から逃れるユダヤ人に手を差し伸べ、約2万人を救ったと言われる樋口季一郎陸軍中将。後編は、シオニズムを支援したことでゴールデン・ブックに名前が刻まれるなど日本人も知らない樋口中将の功績を伝えたい。

「ヒグチこそ最大の功績者で理解者」

「ヒグチこそがハルビンにおけるユダヤ人の安定的な生活の確立に尽力した最大の功績者で理解者。日本軍人の中で最も親ユダヤ的だった」

2004年から約3年間、イスラエル日本大使館に公使として勤務した水内龍太在オーストリア大使は、イスラエル在勤中に陸軍ハルビン特務機関長だった樋口中将と個人的に親交があったテディ・カウフマン氏から、こんな言葉を聞いた。

ハルビンで、テディ氏の父親、アブラハム・カウフマン博士は、医師であり、ハルビン・ユダヤ人社会のリーダーで、「極東ユダヤ人協会」の会長だった。

1937年8月ハルビンに赴任した樋口中将をカウフマン博士が訪ねた。日増しに激化するナチスのユダヤ人差別と弾圧を訴えるため、「極東ユダヤ人大会」を開催する許可を得る狙いだった。当時、ハルビンは白系ロシア人とユダヤ人が対立し、流血事件も多発していた。36年11月、日独防共協定に調印した日本は、40年に日独伊三国同盟を結ぶ第三帝国に配慮し、ヒトラーが迫害するユダヤ人政策はデリケートな問題となっていた。

樋口中将は大会の開催を許し、自身も平服で参加。日本の代表として「ユダヤ人を差別しない」と発表し、ドイツの「ユダヤ人迫害」を強く批判した。陸軍内の親独派から「ナチス批判」を問題視する声は小さくなかったが、樋口中将は「困っている者を助けるのが日本精神」として一蹴。大会後、報道陣に「世界が祖国のないユダヤ民族に一国を与えて幸福を考えない限り、この問題は解決しない」とパレスチナにユダヤ人国家建設を認める発言をした。パレスチナにイスラエルが建設されるのは11年後の48年のことだ。その後、樋口中将は流入するユダヤ難民を救出する英断を下している。

『日章旗のもとでユダヤ人はいかに生き延びたか』(勉誠出版)の著者で日本のユダヤ政策に詳しいイスラエルのヘブライ大学名誉教授、メロン・メッツィーニ氏は「この発言が終戦まで、満州および中国北部におけるユダヤ人の独立性を保障した」と説く。「この大会で、立ち往生していたユダヤ人が満州国への入国許可をもらえた」とし、ドイツの反ユダヤ主義に盲従せず、現実的解決を求めた樋口中将主導の日本陸軍の功績を評価した。

シオニズムへの貢献でゴールデン・ブックに

樋口中将の救済発言を受け、カウフマン博士は世界ユダヤ会議に宛てた報告書で「日本がユダヤ人社会を特別に保護してくれる」と報告している。ユダヤ人国家建設を訴えた樋口中将は、カウフマン博士からの推薦で特別に記憶されるべき人物として「ユダヤ国民基金」(JNF)のゴールデン・ブックに刻まれたという。勇気あるユダヤ人保護ではなく、在ハルビン・ユダヤ人社会のシオニズムへの貢献が、その理由であった。

特別に記憶されるべき人物として刻まれた「ユダヤ国民基金」(JNF)のゴールデン・ブック(JNFホームページから)
特別に記憶されるべき人物として刻まれた「ユダヤ国民基金」(JNF)のゴールデン・ブック(JNFホームページから)

カウフマン博士が1940年1月22日付で「世界ユダヤ人会議幹部」に宛てた書簡では、①ユダヤ人は自由に生活を営み、就業し、独自の民族文化を涵養(かんよう)し、他民族と全く同じ権利を享受②反ユダヤ主義は存在せず、許容されない。反ユダヤ主義のロシア語紙は発禁された③上海のユダヤ人難民は1万8000人④日本はドイツに残された家族の上海移住を許可。上海で労働の意志有する者も同じ⑤日本に新たな難民受け入れの地区提供を要請した――などを伝えている。いずれも樋口中将主導の対策への評価で、日本がユダヤ人社会を保護して、感謝されていたことを示している。

カウフマン博士から世界ユダヤ人会議宛ての書簡(水内龍太氏提供)
カウフマン博士から世界ユダヤ人会議宛ての書簡(水内龍太氏提供)

1939年5月にカウフマン父子は訪日し、樋口中将はじめ陸軍関係者と会談した。父子は新たな避難民地区提供を陳情した。その様子を「世界ユダヤ人会議幹部」に報告しているが、ユダヤ難民を移住させる「河豚(ふぐ)計画」に、ユダヤ人側から提案があったことを示している。

父子は38年10月以降に「ヒグチ・ルート」と呼ばれる救済策により、ユダヤ難民が逃れたことに謝意を述べた。そして樋口中将も、自らの行動が多くのユダヤ人の運命を動かしたことを実感した。

家宝となった天皇陛下からの刺繍画

イスラエルにあるカウフマン家の居間には、皇居をモチーフに描いた日本の刺繍(ししゅう)画(タペストリー)が飾られている。陸軍から外国賓客への記念品として贈られたもようで、1939年に訪日した父子が「天皇陛下からいただいた」と伝えている。

日本画家、竹内栖鳳(せいほう)の作品で、日中戦争の恩賞で陸軍大臣から下賜(かし)品として贈られたものと同一とみられる。

カウフマン家に贈答された絵と同じ竹内栖鳳が皇居を描いた刺繍画。日中戦争の恩賞で陸軍大臣から下賜品として贈られた(オークフリーのホームページから)
カウフマン家に贈答された絵と同じ竹内栖鳳が皇居を描いた刺繍画。日中戦争の恩賞で陸軍大臣から下賜品として贈られた(オークフリーのホームページから)

45年8月、侵攻したソ連軍に逮捕され、シベリアに抑留されたアブラハム氏が建国とともに移住したイスラエルのテディ氏の元に戻ったのは、戦後16年が経過した1961年だった。満州国崩壊後の混乱の中で、この皇居の刺繍画を最も大切な「家宝」としてイスラエルまで持ち帰ったのは、父子と樋口中将との強い絆の証しと言える。

戦後、父子は日本軍に協力したとして反日的な英米ユダヤ人から非難された。それでも刺繍画を「家宝」として保管したのは、たとえ同胞から批判されても樋口中将への恩義と敬愛がそれを凌(しの)いだからだろう。

また、テディ氏の回想録やハルビンでユダヤ人向けに発行されていた新聞「Jewish Life」には、満州では五族協和で民族融和政策を取り、白系ロシア人とユダヤ人の対立はあったが、日本人とユダヤ人は共存していたと記されている。45年8月、侵攻したソ連が略奪、暴行を繰り返す中、ユダヤ人にかくまわれて生き延びた日本人もいたという。

ハルビンから離任する樋口中将の功績とユダヤ人へ の友情に感謝を伝える1938年7月15日付Jewish Life 紙(水内龍太氏提供)
ハルビンから離任する樋口中将の功績とユダヤ人へ の友情に感謝を伝える1938年7月15日付Jewish Life 紙(水内龍太氏提供)

ナチスは1938年10月、ユダヤ人の旅券に単語の頭文字「J」とスタンプを始めたため、無国籍者となった「J」旅券所有のユダヤ人は通過ビザが必要となり、日本や満州への通過ビザを求めて在外公館に押し掛けた。40年7月に「命のビザ」で知られる外交官・杉原千畝の任地・リトアニアのカウナス領事館にユダヤ人が殺到したのも、この通過ビザを求めてのことだった。

そこで樋口中将が裏方として主導し、38年12月、近衛文麿内閣の「五相会議」で、ユダヤ難民政策の基本方針を定めたガイドライン「ユダヤ人対策要綱」を作成。「ユダヤ人を差別しない」ことが国策となった。

この要綱は41年12月、対米英開戦で無効となったが、代わって「時局ニ伴フ猶太人対策」が42年3月にでき、国内は元より中国や東南アジアの占領地に居住するユダヤ人を45年8月の終戦まで他の外国人と同等に扱っていた。

日本の保護政策で生き延びたのは4万人

日本が統治したバンコクと北部仏印(旧フランス領インドシナ)ハノイの日本大使宛てに外務省が伝えた公電を英国の暗号解読拠点「ブレッチリー・パーク」が傍受、解読、最高機密文書として英訳し、英国立公文書館が「日本のユダヤ人政策」として保管していた。

英国が傍受し、最高機密文書「日本のユダヤ人政策」として保管していたバンコクの日本大使宛ての外交公電(英国立公文書館所蔵、岡部伸撮影)
英国が傍受し、最高機密文書「日本のユダヤ人政策」として保管していたバンコクの日本大使宛ての外交公電(英国立公文書館所蔵、岡部伸撮影)

ハノイ宛ての公電は「同盟国ドイツがドイツ系ユダヤ人の国籍を剥奪し、ユダヤ人は『無国籍』になったが、日本が同調して特別な行動を取る必要はない。むしろ慎重に対応すべきだ」と排ユダヤ政策を始めたドイツと一線を画す考えを示した。そして「ユダヤ人を追放することは国是たる八紘一宇(はっこういちう)の精神に反するばかりか米英の逆宣伝に使われる恐れもある」とし、人道的な対応を求めている。さらに「ドイツ以外の外国国籍を所有していれば、その外国人と同等に、またドイツ国籍所有者は、ロシア革命で逃れた白系ロシア人と同等に無国籍人として取り扱う」と、ユダヤ人を公正に扱う寛容な保護政策の継続を指示した。

排ユダヤ政策を始めたドイツと一線を画し、人道的対応を求めた北部仏印(旧フランス領インドシナ)ハノイの日本大使宛ての外交公電(英国立公文書館所蔵、岡部伸撮影)
排ユダヤ政策を始めたドイツと一線を画し、人道的対応を求めた北部仏印(旧フランス領インドシナ)ハノイの日本大使宛ての外交公電(英国立公文書館所蔵、岡部伸撮影)

最終的に満州を含む上海など日本統治下の大陸中国は戦争集結まで多くのユダヤ人の避難場所となった。米国のラビ(ユダヤ教指導者)、マーヴィン・トケイヤー氏によると、世界ユダヤ人会議は、終戦当時、上海、ハルビン、天津、青島、大連、奉天、北京、漢口などでユダヤ人2万5600人の居住を確認している。これに加えて日本が占領したバンコクやハノイなど東南アジアに身を置いたユダヤ人を合計すると、前出のヘブライ大学名誉教授・メッツィーニ氏は「約4万人以上が生き延びた」と分析する。さらに「世界で反ユダヤ主義が広がり、欧州のユダヤ人がナチスの手で絶滅されようとしていたとき、日本は難民を保護した。1938年に始めたユダヤ人保護政策が米英開戦後も継続され、終戦まで続いた」と指摘している。

バナー写真:2018年10月、イスラエルの「ユダヤ国民基金」(JNF)を訪問し、ゴールデン・ブックに祖父である樋口中将の名前が刻まれていることを確認する樋口隆一名誉教授(左:JNFホームページから)とハルビン特務機関長時代の樋口季一郎中将(右:樋口隆一氏提供)

皇居 ユダヤ人 樋口季一郎 ナチス・ドイツ 竹内栖楓